1-7
ちょっと長めです。
桃色のシャンパンの海を漂流しているような、温かくて浮き浮きした夢は、聞き憶えのない若い男性の声で破られた。
「ミ、ミス・イヴリン・パクストン?」
クリスタルのように澄んだ発音の上流英語。それが狼狽のあまりひっくり返るところなんて、滅多に耳にできるものじゃない。
おまけにこの声は、自分の名前を呼んでいる。頑固な鎧戸のように重たいまぶたをこじ開けて、イーヴィーは声のする方へ視線を動かした。
目に飛び込んできたのは、すっきりとした長身の、見目の良い青年の立ち姿だった。明るいグレーの上質のフロックコートを、自宅でくつろぐときのように少し着崩した姿は、まだ耳に残っている正確無比なアクセントと違和感なく調和している。
けれどもその育ちの良さそうな青年が、白昼、幽霊にでも出くわしたみたいに端正な顔を引きつらせているのは、どうしたことだろう。
それにイーヴィーはもう一つ、別の発見をした。
(あれ、元に戻ってる……)
寝ている間に、三回続けて同方向に寝返りでもしたのだろうか。眉間に皺を寄せて、広い寝台を検分した。よくぞそれだけ寝返りをして、ベッドから落ちなかったものだ。
(あらー、わたしったら、エライ)
イーヴィーが自身のささやかな快挙を祝っていると、青年に再度たずねられた。
「あなたはミス・イヴリン・パクストンですよね?」
二度も名前を呼ばれているのに、返事をしないのは礼儀作法違反だ。
「はーい、わたしがそうれす。イゥリン・パクシュトンれーす」
おや、と不思議に思う。何だか舌が重い。
やたらとフカフカするマットレスの上で、イーヴィーはよっこい、しょ、と身を起こした。上等のエジプト綿のシーツの、なめらかな肌触りはお名残惜しいけど。
「あのー……、わたしをご存じなんれすか、サー? えっーと……あなたは……?」
困ったことに視界が安定してくれない。いつから世界は、時化の南太平洋を渡る船みたいにグラグラ揺れるようになったのだろう。
栗色の髪の青年は、時計の振子のように左右に振れながら自己紹介した。火の中水の中、時計の中だろうとも、礼儀を忘れないのは英国紳士の美徳だ。
「アーサー・モードレッドです。先月、レディ・ハミルトンの茶話会でお会いしました」
(う、まずい……)
正式に紹介された相手の名前を忘れるほど、失礼なことはない。女家庭教師のミス・グリナウェイにも、お母さまにも、口を酸っぱくして説かれたことだ。
だからイーヴィーもできる限り、一度で相手の名前を憶えるように努力している。顔を記憶するのは比較的得意だから、似顔絵付きの覚書を作成したりして。
けれど目の前の男性の顔には、とんと憶えがない。
つやのあるサラサラの栗色の髪も、優しそうな灰色の瞳も、鼻筋の通った面立ちも、いかにも女の子がキャーキャー騒ぎそうな容貌で、一度見たら忘れられないと思うのに。
「れりー・ハミルトンのお茶会で? あ! そういえばそうれしたね」
彼の助け船にそれらしく相づちを打ってお茶をにごそうとしたら、アーサーと名乗った青年の口の端を、ちらり、と悪戯っぽい笑みがよぎった。
「無理に思い出したフリをしなくてもいいですよ?」
「あー……バレちゃいました?」
ろれつの回らない口調で、イーヴィーはあっさり自分の非を認めた。こりゃダメだぁ、と思ったらやたら愉快になって、枕を叩きながらケラケラ笑っていると、アーサーも笑顔になった。
「バレバレですよ。稀に見るほど独創性に欠けた会話でしたからね。あれで印象に残っていたら、それこそ運命の出会いです」
「そんなにユニークな会話だったんですか?」
「ええ。サー・ハミルトンのコッカースパニエルが産んだ四匹の子犬を見て、『あの子たち、可愛いですね』『そうですね、ミス・パクストン。あなたは犬がお好きですか?』『どちらかと言えば猫が好きです』『そうですか、僕もです』と意気投合しただけです」
「それでよく、わたしの名前を憶えていましたね」
いつも自意識過剰だと自粛しそうな質問も、今日はへいちゃらで聞けてしまう。
「魅力的な女性を前にした時だけ、記憶力が向上するたちなんです」
なんでこの人はこんなに顔を近づけるのだろう。眼鏡をかけていないけど、目が悪いのだろうか。
「あ!」
思い出した。レディ・ハミルトンのお茶会で交わした会話はおろか、紹介された人物の顔すら思い出せない理由が。
「……あの日は徹夜明けだったんです、ごめんなさい……」
「徹夜明け?」
うつむいてスカートをにぎりしめて白状すると、怪訝そうな声で聞き返された。
そりゃそうだ。『徹夜』など、淑女の生活とは無縁の単語なのだから。
「はい。レディ・ハミルトンの茶話会って、確か八月の最後の金曜日でしたよね? その前の日に、注文していたご本が本屋さんから届いて、ついうっかり読み始めたら、寝そびれちゃって……」
「――寝不足のまま茶話会に出る羽目になった、と」
台詞を引き取ったアーサーを、彼女は盗み食いの現行犯で捕まった猫みたいな目で見た。
「その通りです。ですからあの時のことはもう何が何やら。普段はそんな粗相はしませんよ、誓って! 嘘はついてませんから!」
「もちろんわかっていますよ。さて、ミス・パクストン――」
灰色の瞳が、にっこり、と笑った。
「――あなたが幻影ではなく、正真正銘本物のミス・イヴリン・パクストンと証明されたところで、なぜ黒猫の姿から突如変貌されたのか、良ければ教えていただけますか?」
「やっぱりバレてたんですか……」
(生涯独身決定ね……)
ワナにしっぽをガッチリつかまれたような暗澹たる気分で、イーヴィーはがっくりと肩を落とした。
「マタタビ?」
応接間に案内されて、優雅な猫足のカウチに落ち着いたイーヴィーは、耳慣れない言葉に、菓子皿から顔を上げて聞き返した。
「ええ。あなたが酔っぱらっていた、あ、いや、失礼、眠っていた場所に植えてあるマタタビの木は、僕の父が中国から持ち帰ったもので、猫を酩酊させる香りを出すんです」
向かいのソファにかけたアーサーは、優雅な手つきでティーカップを受け皿に戻しながら説明してくれた。
「キャットミントみたいに、ですか?」
子供の頃飼っていたトラ猫のポリーが、庭に植えてあったミントの仲間のハーブの葉を食べて千鳥足になっていたのを思い出した。
「そうですね、有効成分は同じらしいですよ」
「わたし、正真正銘の人間なんですけど」
記憶の限りでは、キャットミントの匂いで酔っぱらったことなどない。
「それでも猫の姿の時には、猫と同じ成分が効くと考えた方がいいのでは?」
「おっしゃる通りですね……」
冷静に指摘されて、大分はっきりしてきた頭で賛同する。すでに『マタタビ絶対回避!』と大書されている心の中の覚書に、『キャットミント要注意』と赤鉛筆で書き足した。
濃い目のミルクティーを二杯飲んだおかげで、酔いはあらかた冷めた。そして、理性と一緒に乙女心も帰還した。
ああ、とだんだん熱くなってきた頬を両手で押さえて嘆息する。
「塀から転がり落ちて、芝生の上で大の字になってたなんて……」
黒猫に変身して散歩に出た後のことは、モードレッド家、つまりアーサーの家の敷地を囲む石塀の上を、軽業師気分で調子に乗って歩いていたところまでしか憶えていない。塀の近くに生えていた木の一つから、えもいわれぬ甘い香りが漂ってきたので、フラフラと誘われるままに近づいたところで、彼女の記憶はプツリと途切れている。
「そんなに落ち込まないで。可愛かったですよ、無防備な感じで。だから僕も、思わず抱いて部屋に連れて来ちゃったんです」
「……だ、抱いて、連れて来たって、あなたが?」
「ええ。あのままだと、何だか風邪をひきそうだったので」
九月に外で昼寝しただけで猫が体を壊すとも思えないが、今のイーヴィーには、それを指摘する冷静さはなかった。わなわなと震えながら、心に浮かんだ疑惑を口にする。
「あああああの、と、と、ところで、先ほどのお部屋は?」
「僕の私室です。あなたをただの猫だと思ったので、こちらに連れて来てしまいました」
ささーっ、と青ざめたイーヴィーを見て、アーサーはにわかにあわてた。
「あ、す、すみません、軽率だったことはお詫びします。このことは決して誰にも言いませんから、どうか許してください」
(私室って、私室って、この人のベッドルーム――――――――!)
家族か結婚相手でもなければ、未婚の娘が立ち入ることのない領域だ。
「……っ、……っ、――――――っ!」
まじまじと、アーサーの肩幅の広い上半身を凝視するなり、声にならない声をあげる。
(もう、もう、ほんとに、お嫁に行けないいいいいいいっ……!)
猫姿で泥酔している醜態をさらした上に、男性の私室に抱きかかえられて運び込まれ、ベッドで寝る姿までしっかりと見られてしまった。
真っ赤な顔でカウチに倒れ伏したイーヴィーの背に、穏やかな声がかかった。
「お願いですから、泣かないで下さい、ミス・パクストン。大丈夫です。猫姿を見たのも、今日の顛末のことを知っているのも僕だけですから。このことは何があっても口外しませんから、どうか安心してください」
「え……?」
半泣きの顔で起き直ると、いつの間にか隣に座っていたアーサーは、そっと手をのばして彼女の頬にかかったほつれ髪をすくい取った。
「レディの秘密を暴露するようなことは、僕は誓ってしません。だからもう泣かないで」
火照った頬にわずかに触れた指先はひんやりとしていたけれど、思っていたよりもずっと優しかった。彼女を映す、灰色の瞳と同じくらい。
「いいんですか? 人が猫に変身するような怪奇現象を『レディの秘密』だなんてあっさり片づけてしまってもいいんですかっ?!」
良くない、と答えられたらそれこそ進退窮まるけれど、たずねずにはいられなかった。
アーサーは、くすり、と小さく笑った。
「本音を言えば、好奇心はありますよ。『一体どうやって?』とか、『僕にもできるのかな?』とか。でも、人には、誰だってプライバシーはありますからね」
真摯な言葉に、ふっと肩から力が抜けた。この人は、なんてやわらかく物事を受け止められる人なんだろう。
「プライバシーって言うほど大袈裟なものじゃないんです。蚤の市でお料理のご本だと思って買ったものが、たまたま魔術書だったんです」
「そして魔法のレシピを実践したら、黒猫に変身できた、と?」
抑えきれない好奇心に輝く灰色の目を見ていたら、唇が勝手に言葉を紡ぎはじめた。
「その通りです。あの……」
「なんでしょう、ミス・パクストン?」
「もしどなたにも決して口外しないって約束して下さるんでしたら、その本を今度お見せしてもいいですよ」
「ほんとうにいいんですか? 光栄です」
お人好しで無防備すぎる申し出かもしれない。けれども心底うれしそうな顔を見せた青年に、彼なら信じてもいいかも、と思ったのも本当だった。
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