5-6
「まあ、ホントですの?」
「ええ! 日曜の夜遅くに」
「では、今頃は――」
「そうね、グレトナ・グリーンでしょうね」
舞踏会会場の片隅でヒソヒソと交わされていた内緒話は、イーヴィーが近づくと、ぴたりと止まった。
「ごきげんよう、レディ・リンジー」
「あら、こんばんは、ミス・パクストン。お聞きになりまして?」
先日の一服のことなどおくびにも出さず、笑顔で扇をひらめかしたリンジーは、わざとらしく声を落として続けた。
「みなさま、このお話でもちきりですのよ。サー・ウィリアムとわたくしの元小間使いのベッキーが駆け落ちしましたの!」
「!」
絶句したイーヴィーを、彼女は得意げに見下ろした。
「ね? わたくしが申し上げた通りでしたでしょ?」
「……それなら、あの時の乾杯も、あなたのお言葉通りのものでしたのね?」
「あら、もちろんですわよ」
渾身の皮肉も、リンジーの分厚い面の皮の敵ではなかった。
「おかしなことをおっしゃるのね。そう言えば、あの後とっても楽しそうでいらっしゃいましたわねえ。――パンチのお味はお気に召して?」
イーヴィーの酔態を露骨に当てこすると、腰巾着たちが一斉に笑った。全く反省の色のないリンジーの態度に、堪忍袋の緒が切れそうになる。
(ネリーのことだって、うやむやなままだし! いいわ、もうやってやるわよ!)
冷静になるように、五までゆっくり数えてから、手の中に忍ばせていた小瓶の蓋を外し、扇子を広げるふうを装って、中身を扇の羽根飾りにまぶす。
「本当に、けっこうなお味でしたわ。でもわたし、これからは美容のために、混ぜ物をしたお酒はいただかないことに決めましたの」
息を止めて、あくまでにこやかな作り笑いを維持しながら、パタパタと扇をはためかす。
「まあ、そうでしたの。わたくしもまねいたしましょうかしら」
「ええ、ぜひそうなさいませ」
「はあっくしょん!」
リンジーが派手にくしゃみした。
「あら、どうなさいましたの? まあー、レディ・リンジー、お髪におっきな蛾が。きっとこの燐粉のせいですわね」
しっしっ、と虫を追うフリをして、ダメ押しにバッサバッサとあおいでおく。
「それでは皆様、よい夕べを。ごめんあそばせ」
鼻をムズムズさせているリンジー一行に一礼すると、イーヴィーはその場を離脱した。
(こっ、こわかったぁ…………!)
リンジーたちから見えない場所にたどり着いたら、緊張の糸が切れて、その場にへたり込みそうになる。
(さて、勝率は五分五分――)
柱の陰からうかがうと、陰険女王サマ御一同が、ぼ~っと突っ立っているのが見える。
(う~ん、どうかなぁ………)
さきほど扇子に仕込んでまき散らした白い粉。あれはもちろん、『レシピ』を見て作った魔法の粉なのだけれど、その魔法にはある条件がかけられている。
リンジーがあの夜、口にしたある言葉――それが本心だった場合だけ、その魔法は発動する仕掛けになっている。
『恋をしたことも、殿方に心ときめかせることもないまま、お嫁に行くのかと思うと、なんだかとっても寂しくて……』
あれが虚言だったのなら、彼女は相当の演技派だと思う。
(でも本音なら、ちょっと同情しちゃうもんね)
だから、レシピに『本心を吐露するときの気持ち』を思い浮かべるように、と指定された箇所で、あえてあの時のリンジーの横顔を選んだ。
(でも、効果は出ていないみたいだし……)
やっぱりあれも嘘だったんだ、と味気ない気持ちで背を向けようとした時、地を這うように低い声がイーヴィーの耳を打った。
「リ――ン――ジ―――――――――」
「なによ?」
取り巻きの一人が、悪酔いでもしたように目を据わらせている。
「あんたのそのデコルテ、八割方は詰め物でできてるの、知ってるんですからね!」
リンジーの豊満な胸元を指さして、彼女はいきなり言い放った。
「キャ、キャサリン? な、なにを……、お、お、お黙んなさい! わたくしが八割なら、あなたなんか百二十パーセントでしてよ!」
甲高い声で怒鳴り返しておいて、リンジーは自分の口から転がり出た予想外の言葉に、呆然としたように口をパクパクさせた。
「だっ、だれの胸がえぐれているですって~! 本当のことでも、言って良いことと悪いことがある、ってお父さまとお母さまに教わらなかったの!」
きいい~、とハンカチをかんで悔し涙を流すキャサリンの隣で、派手な顔立ちの娘が、「フン」と鼻で笑った。
「貧乳どもが大きな顔してるんじゃないわ! ばれてないって思ってたのなら、ちゃんちゃらおかしいわよ! お―――っほっほっほ、おめでたいわね~」
キャサリンとリンジーは、同時に、ぎっ、と鬼の形相で、高笑いする娘に睥睨した。
「レベッカ! 厚化粧で地味顔をごまかしてるだけのクセに、あつかましいっ!」
「そうですわ! 白粉の塗りたくりすぎで、その内、顔にヒビが入りましてよ!」
一斉に罵倒されて、レベッカの顔色は、厚化粧の上からでも分かるほどどす黒くなった。
「い、言ったわね……! わたくしの卓越した技術をバカにしたわね……!」
「ああもう、目クソ鼻クソね。あたくし、優しいから本当のことを言ってあげちゃうわ。リンジー、あなたよりフィッツロイ家のシンシアの方がよっぽど美人よ。かないっこないからいびり倒すなんて、あなた可哀想な人ねえ。あ、そうそう、キャサリンとレベッカ、あんたたちの顔レベルはもちろん論外よ、ろ、ん、が、い! きゃはっ、あ―――――っ、すっきりしたぁ―――――!」
焦げ茶の髪の小柄な少女が、にらみあう三人をせせら笑った。いつもは取り巻きの筆頭格をつとめている子だ。
「エレン、わ、わたくしがいびり倒したなんて、人聞きの悪い! 言葉は正確にお使いなさい! わたくしが自分の手を汚すわけないじゃない!」
「きゃはっ、正直なのは良いことだわ。舞踏会で彼女の足を引っかけて転ばせたのは、あたくしですもんねえ。そのせいで、新品のお靴のリボンが取れてしまったのよ? このあたくしがそんな汚れ役をしてあげているのに、あなたはふんぞり返って高見の見物ばっかり! サイッテーよね! きゃはっ、また言っちゃったわ、あたくし」
「いつもはペコペコして、『ハイ』しか言わないくせに、なに急に饒舌になっているのよ、エレン! 嘘おっしゃい! わたくしは……、わたくしは……笑って見ていただけよ!」
リンジーの唇を飛び出した言葉に、エレンは勝利の雄叫びをあげた。
「きゃ――――――ははは! 語るに落ちたわね! ホント、人使いが荒いわよね、あなた。パクストン家のイヴリンの時だって、使用人みたいにお台所に行かされて、パンチにジンを混ぜたのよ! どうせバレたら、エルマー家のネリーの時みたいに、下っ端のせいにするつもりだったんでしょ?」
実際にあの夜、イーヴィーにパンチを運んできたのは、そう暴露したエレンだった。
(っていうか、やっぱりネリーの噂はリンジーの仕業っ?)
イーヴィーは怒りのこぶしを握った。
「そうよ! ~っ! じゃなくて! わたくしが本当に言いたいのは、その、その、その通りよ――――――っ!」
衆人環視の中、リンジーは必死で否定しようとした。けれど魔法がそうさせなかった。
ハアハアと肩で息をするリンジーに、取り巻きの嘲笑が降り積もる。
「ほらね! そうやって自分だけ良ければいいのよ!」
「エレン、二枚舌のブリっ子が良いこと言うじゃない! もっと言ってやって!」
「そうよ、化粧をバカにするんじゃないわよ!」
「胸に穴が開いていたって、人権はあるんですからね!」
「あなたたち、わたくしの取り巻きをするしか能がない、バカばっかりのクセに生意気よ! あなたたちだって面白がってやってたでしょ! ――そうですわ、これはクーデターね! あなたたちの陰謀ね! わたくしを陥れようったって、そうはいかなくてよ!」
「あなたバカ? 思いつきに決まってるでしょ! その減らず口、閉じてあげるわ、リンジー!」
エレンが飛びかかったのを引き金に、つかみあいの喧嘩が勃発した。
「な、なにをやっておるか! おお! 神よ…………」
騒ぎを聞きつけて、リンジーの父親のダンビー伯爵が駆けつけたが、髪飾りだの袖のレースだのをむしり合いながら、すさまじい形相で取っ組み合う娘たちの勢いに、手をつかねて立ちつくしてしまう。
「いやはや、まさしく猫のケンカ(キャットファイト)だね」
ぞっとしないという調子でつぶやく誰かの声がイーヴィーの耳に入った。キイキイと金切り声で罵り合う様は、確かに猫を彷彿とさせる。だけれど彼女は、ちょっとムッとした。
(失礼な)
猫族に常ならぬ縁のある者として言わせてもらえば、本物の猫のケンカの方がずっと文明的だ。
けれど自分は、とんでもないもののタネをまいてしまったらしい。
(ど、どうしよう、こんなはずじゃなかったのに……)
ここは体を張ってケンカの仲裁をするべきだろうか。修羅場のあまりの迫力に腰が引けつつ二の足を踏んでいたら、脇からのびてきた手にいきなり口をふさがれた。
「……っ!」
そのままさらわれるように出窓に引っ張り込まれた。カーテンを閉じられた出窓の中は、外からは姿が見えない。
「だれっ?」
振り返ると、そこには笑いをこらえるアーサーの顔があった。
「何をしたのかな、イーヴィー?」
この騒動の元凶が自分だと、彼にはとうにバレていたようだ。
(あきれられていなくて、よかった……)
この状況をむしろ楽しんでいるような彼の様子に、取りあえず一安心する。本当は彼のいないところでこの計画を実行したかったのだけれど、エスコート役として今日の夜会について来てしまったのだ。
「あのね、レディ・リンジーたちに、十分間だけ素直になれる魔法をかけたの」
神妙に罪状を白状すると、アーサーは灰色の瞳を軽くみはった。
「……………それだけ?」
「ええ」
「僕はてっきり、悪魔を召喚して憑依させたんだと思ったよ」
カーテンの向こうからは、まだ物騒な気配が伝わってくる。時々聞こえる「いい加減にしろ!」「勘当するぞ!」という怒号は、リンジーの父のダンビー伯爵のものだろう。
確かに、大した伏魔殿だ。
「そろそろ十分過ぎる頃なんだけど……」
壁際の柱時計の文字盤をすがるように見て、イーヴィーは魔法がすみやかに切れることを祈った。
『無垢な十分間』――。
本音を告げる勇気がなかったり、引っ込み思案で恋心を告白できなかったりする人の背を押すためだという、能書き通りなら人畜無害なレシピだ。
「リンジーが意地悪なのは、彼女が不満だらけだからだと思ったの」
家のために涙をのんでお嫁にいくとか、そんな健気な子じゃ決してない。でも彼女の悪意の底には、自分や周囲への(部分的にはかなり自分勝手な)いらだちがあると思う。
「だからガス抜きをさせたらいいって思った?」
「うん。ついでにちょっとだけ人前で失言して、決まりの悪い思いをしてもらえたらなあって……」
「君らしい、前向き、かつ建設的な仕返しだね」
「でも、破壊力ありすぎよ。どうしよう………」
「まあいいじゃないか。レディ・リンジーは年貢の納め時なんだよ」
「え?」
目を上げれば、アーサーは人の悪い笑顔を浮かべている。
「まさか、アーサー――」
知っていたよ、と、こともなげに彼はうなずいた。
「確証はなかったけれどね。あの夜、レディ・リンジーと一緒に、一杯しか酒を飲まなかったと君は言っていたのに、強いジンの匂いを漂わせていたからね」
「う……」
あの時の醜態を思い出して、イーヴィーは目を泳がせた。
「僕の知る限りでも、レディ・リンジーには色々と前科があるんだ。僕も近いうちに、ダンビー伯爵に話をするつもりだったんだよ」
「そうだったの……」
「でも、君が魔法を使ってくれて助かったよ」
「え?」
「まあ、ちょっと扱いが難しい問題だから、どう切り出すか迷っていたんだ」
「どういうこと?」
「怒らないって約束してくれるなら話すよ」
イーヴィーが約束すると、彼は少し気まずそうに口を開いた。
「実はね、あの夜会の少し前に、レディ・リンジーとの縁談を断ったんだ」
「そうだったのっ?」
たしかに、家のつり合いを考えれば十分あり得る話だ。
「そう。だから君が一杯食わされたのは、僕のせいなんだ」
いったん言葉を切って、アーサーは表情を改めた。
「ダンビー伯爵に断る時に、つい、口がすべってね。意中の女性がいるからこの話は受けかねるって言ってしまったんだ。もちろん君の名前は出さなかったけれど、僕の君への態度を見ればすぐにわかることだからね。それで君にとばっちりが行ってしまった。本当にごめんね。僕がちゃんと気をつけていれば、あんなことにはならなかったのに」
「いいわよ、アーサー。だってあなたは見事にフォローしてくれたじゃないの」
「未然に防げれば一番良かったんだけどね……」
「もう気にしないで」
「そういう優しい君を愛してるよ」
「もう! またそんなことを――」
「しっ!」
照れ隠しに声を上げそうになったイーヴィーの唇を人差し指で押さえると、アーサーはもう片方の手で『静かに』と身ぶりで示した。
「どうやら他にも、魔法にかかった人がいたみたいだね」
うながされて耳を澄ますと、ジェシーの切羽詰まった声が聞こえた。
「ミス・エルマー、もう一度言います。俺はあなたのことが好きであります。どうか俺との結婚を考えて下さい」
「まあ、キャンベル大尉……」
(ジェシー! やるじゃない!)
イーヴィーは心の中で、幼馴染の快挙を万歳三唱した。彼はずっとネリーが好きだったのに、彼女の前に出ると照れてしまって、ろくすっぽ会話さえできなかったのだ。挙げ句の果てに、ネリーがまぶしくて直視できないからと、隣の見慣れた平気な顔ばかり見ては、ダンスを申し込んで逃げるという体たらく。
「彼の意中の女性は君の親友だったんだね」
耳元でささやいたアーサーに、イーヴィーは満面の笑顔でうなずきかえした。
「そうよ。なのにすっごく照れ屋で不器用だったから、全然アプローチできなかったのよ」
「君に対しては随分積極的に見えたけどな」
憮然とした表情で言われて、イーヴィーは、あっ、と小さく叫んだ。
「あの赤い薔薇のことを気にしてたの? あれももちろんネリー宛よ。直接贈るなんて考えることさえできないから、わたし経由で彼女に見せてほしいって送ってよこしたの」
「紛らわしい照れ方だな」
人騒がせな、と呆れ顔でため息をつくアーサーが可愛くて、くすくす笑っていると、「声が聞こえてしまうよ」と口を手でふさがれて、ついでのように腰に腕を回された。
(やきもち、焼いてくれてたんだ)
今思えば、ジェシーが側にいる時のアーサーは、なんだかいつも機嫌が悪かった。原因がわかると、不謹慎だけれど、ちょっとうれしい。
「キャンベル大尉、お申し込み、本当にありがとうございます」
おっとりと答えるネリーの声が飛び込んできた。突然の求婚に動揺するかと思いきや、思いの他落ち着いている。そういえばジェシーは、彼女が気負わずにおしゃべりできる数少ない男性の一人だ。
ネリーの親友としても、彼女の恋人には、ジェシーの方が、サー・ウィリアムよりずっとふさわしいと思う。人の噂を鵜呑みにする上に、使用人に手をつけて駆け落ちするような男より、不器用でも優しくて面倒見が良くて、そして何より心からネリーを大切に思っているジェシーの方が、彼女を幸せにできるに決まっている。
リンジーが起こした風評被害事件の時も、ジェシーはイーヴィーたちと一緒に、噂の火消しに奔走してくれた。むろん彼は、一言だってネリーにそんなことは言わないけれど。
(ネリー、ジェシーに何てお返事するの?)
我知らずイーヴィーは、両手を祈るように握りしめていた。これじゃまるで自分がプロポーズしたみたいだ。
「あの、私、とてもうれしいのですけれど、お申込みにきちんとお答えするには、あなたのことを良く知らないんです」
「それは、俺のことを知ってもらえたら、俺との結婚を真剣に考えてもらえるということでありますか?」
「はい。ですからこれからは、もっとお話ししましょう? 私のことも知っていただきたいですし」
(おお! 積極的!)
こんな提案をするネリーは、イーヴィーも初めてだ。ひょっとしたら彼女にも、ちょっとだけ魔法がかかっているのかもしれない。
「はい、喜んで!」
「それでは、もう少し落ち着けるところにまいりません?」
「賛成です。ここにいては、流れ弾に当たる危険がありますからね」
二人の声が遠ざかると、口からアーサーの手をはがして、イーヴィーは詰めていた息を吐いた。何というか、もう一声欲しい展開だったけれど、二人の距離はぐっと縮まったみたいだ。
「…………しまったな」
「え?」
傍らでぼそりとつぶやいたアーサーは、どこか悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「僕も魔法がかかったことにすれば良かった」
「なんで?」
イーヴィーが首をかしげると、彼は手をのばして、彼女の頬にそっと手を添えた。
「その方が、ずっと言いやすいから」
「何が言いやすいの?」
「秘密」
はぐらかされて、イーヴィーは眉間に皺を寄せた。ややあって、はっと目をみはる。
「アーサー、わたしに何か言いたいことがあるの?」
「あるよ」
「言いにくいことって、何かわたしに苦情ね!」
「身に覚えがあるの?」
「ありすぎてどれかわからない……」
「例えば?」
何気なくたずねられて、イーヴィーは切羽詰まった顔で考え込む。
「ええと、この間あなたの家でお茶した時に、あなたの分までチョコレートのタルトを食べちゃったでしょ? え? それはちがうの?」
「ちがうに決まってるよ。だって僕が上げるって言ったでしょ?」
「それじゃ、猫姿で遊びに行った時に、書斎のカウチを毛だらけにしたこととか……?」
「それも忘れていいよ」
「じゃ、この間作った夢で、わたしが昔掘った落とし穴に、あなたが落ちたこと?」
「あれは君が掘ったの?」
「うん。ウィルを落っことしてみたくって……、だからわざとじゃないのよ? 本当よ! ……って、アーサー! なんで笑うのっ? 人が真剣に反省してるのに!」
最近、特に思うけれど、アーサーはかなりの笑い上戸だ。
「ごめんごめん、違うよ、苦情じゃないから安心して。近いうちに君の家を訪問するから、その時になったらわかるよ」
「近いうち? うちに来るって……」
彼はしょっちゅうパクストン家を訪ねているのに、何を改まって言うのだろう。
「えっ、もしかして――」
ある可能性に思い至って、口にしかけると、珍しくあせった様子で止められた。
「ダメだよ、それ以上は言わないで」
「なんで、とか、いつ、って聞くのもダメ?」
「ダメ。これ以上僕の勇気をぐらつかせないでほしいな」
「わかったわ」
彼が大袈裟に不安そうな顔をしてみせたのがおかしくて、ケラケラ笑っていると、彼の指が再び唇に触れた。
「しーっ、静かに」
顔を近づけた彼が、ダメ押しをするように唇を重ねてくるまで、さほど長くはかからなかった。カーテンの向こうでは、いまだに場末の魚市場のような怒号が飛び交っているのに、薔薇の香りのする雲に包まれているような幸せな気持ちになるのは、きっと恋の病で頭がおめでたくなっているからだ、とイーヴィーは思うことにした。
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