4-5
(え……?)
目覚めるとそこは、眠りに落ちる前と同じ、粗末なベッドの端っこだった。
イーヴィーの話を最後まで聞いたブタ氏は、『吾輩も助太刀してしんぜよう』と約束してくれたけれど、しょせん彼は陶器の貯金箱。
(夢の世界の住人じゃ、どうにもならないわよね……)
現実の状況は、イーヴィーが何とか打開しないと変わりやしないだろう。
子供たちの寝息に、トビーの『父ちゃん』のいびきと『母ちゃん』の歯ぎしりが重なる。平和であたりまえの、夜の物音。
(今、どうしてるかなあ、アーサー)
今夜はよく眠れているだろうか。悪い夢にうなされてはいないだろうか。彼の灰色の瞳を思い出したら、じわりと目頭が熱くなった。
(やだ、ほんの一日ぽっちしか経ってないじゃない)
昨日煎じ茶を届けに行ったイーヴィーに、別れ際アーサーは『ありがとう』と言って、また頬にキスしてくれた。軽く抱きしめられたように思ったのは、自分の錯覚だったのかもしれないけれど、それでもうれしくて、帰り道猫姿でスキップして――。
ぱた、ぱたた、と目の粗いシーツに涙がシミをつくった。ひっく、と小さくしゃっくりあげる。
(猫は泣かないのに。こんなとこ見られたら、怪しまれちゃう)
――帰ろう。
唐突に、強く思った。トビーは悲しむかもしれないけれど、やっぱり帰りたい。
うす汚れた窓ガラスの外が、ほんのりと茜色に染まっている。夜明けだ。本物の猫ほど夜目がきかないイーヴィーにもわかる。
彼女の首につながれた物干しヒモをしっかりと握りしめたまま、トビーは深い寝息をたてている。今なら、抜け出しても気づかれないだろう。
そおっと、ヒモを揺らさないように細心の注意を払って、イーヴィーは結び目をほどいた。猫の手では人間のように器用に作業できなくて苦心したけれど、十分ほど格闘したら、ヒモはぱらりとシーツに落ちた。
(よかった……――――ごめんなさい、ほんとうにごめんなさい、トビー)
彼が今度は本物で、自分よりずっと可愛い猫に出会えることを祈りながら、イーヴィーは窓枠に飛び乗ると、割れたガラスを覆っている帆布の隙間から外へ出た。
(さて、どうしよう?)
変身を解くべきか少し迷った。まだ薄青い闇に沈む裏路地は、しんと静まり返って人の気配はない。けれどここは、イーヴィーのような若い娘が一人で歩いて良い街ではない。今日はお金も持って来ているから、もう少し安全そうな場所に移動して、それから人に戻って辻馬車で帰ろう。
行動の指針が決まったら、残るは実行のみ。
ぴんとしっぽを立てると、イーヴィーはでこぼこの石畳を小走りに進んだ。
二つ目の角を曲がった時――。
「イーヴィー!」
ひどく懐かしくて優雅な、けれど今は冷静さのかけらもない声が響いて、直後天地がひっくり返ったかと思うような勢いで抱き上げられた。
(え? アーサー? アーサーなの?)
本当は大声でそう確かめたかったのだけど、口から出たのは「にゃー、にゃああーん!」というやたら切羽詰まった鳴き声だけだった。
「ああ良かった! 無事なんだね?」
こくこくと首が振り切れそうな勢いでうなずき返すと、彼はほっと吐息をもらして、抱きしめる腕を深くする。
「ピンクの子ブタが夢枕に立ってね、事情があって君がフラムに足止めされているって知らせてくれたんだ。心配でたまらなくなって、この辺りを探し回っていた」
(ブタ氏……、アーサーに知らせてくれたんだ……)
役に立たないなんて思ってごめんなさい、とイーヴィーは魔法仕掛けの貯金箱に心の中で謝った。どうやってアーサーの夢に現れたのか知らないけれど、そのお陰で彼はこうして駆けつけてくれた。
(アーサー、一晩中、探してくれたんだ……)
疲れがにじむ顔色に、胸が一杯になった。
このままだとお礼も言えないので、変身を解こうと彼の腕から降りかけた時、泣きそうな幼い声が耳を打った。
「タフィー!」
(トビー?)
振り向くと、トビーは路地の真ん中に立ちすくむようにして、アーサーの腕の中のイーヴィーを見つめていた。
「サー、お願い、タフィーをつれてかないで!」
黒猫を抱いているのが身なりの良い紳士だと気が付いて、トビーは悲壮な顔つきに変わった。
「イーヴィー。ひょっとしてこれが、君が家に帰れなかった『事情』?」
彼女にしか聞こえない声で、アーサーはたずねた。彼女がうなずくと、「わかった、僕に任せて」という言葉と一緒に、ぽん、と温かい手が頭に乗せられた。
「坊や、君がタフィーと呼んだのは、この子かい?」
「そうです、サー。タフィーはオレが昨日見つけたんだ」
アーサーは膝を折って少年と視線の高さを合わせると、穏やかな声音で説明した。
「あのね、坊や、イーヴィーは僕の大切な子なんだ。昨晩散歩に出て、そのまま帰って来なかったから、心配になってずっと探していたんだ」
「それじゃ、タフィーはサーが飼ってんの?」
「ただの飼い猫じゃないよ。僕にとって、彼女はこの世に二つとない、かけがえのない存在なんだ」
自分が置かれている状況も忘れて、イーヴィーはどきんとした。
(やだ、なに意識してるの! 猫というか、お友だちとして大切ってだけでしょ!)
猫姿でよかった。黒い毛並みがなければ、今の自分は、茹でエビみたいに真っ赤な顔をしているにちがいない。
「それじゃ、すごい大事なの?」
涙をこらえながら、トビーはアーサーに確かめた。
「ごめんね、そうなんだ」
「タフィー、じゃなくてイーヴィーにも、サーは大事な人なの?」
今度はイーヴィーをじっと見ながら、トビーは真剣にたずねた。こくん、とあまり猫らしくない仕草で彼女がうなずくと、トビーは小さな顔を、くしゃ、と泣き笑いにゆがめた。
「ごめんな、イーヴィー。サーのとこに帰りたかったんだな。ひきとめて悪かったよ……」
「イーヴィーが何事もなく無事に夜をすごせたのは、君が守ってくれたからだよ、トビー。ありがとう」
トビーの寝癖だらけのぼさぼさの髪をアーサーはなでた。
「お礼に、イーヴィーと同じくらい可愛い子猫をプレゼントするよ」
「ほんとに?」
見上げるトビーの顔は半信半疑だったが、押し隠せない期待に紅潮していた。
「ああ。男同士の約束だからね。何があっても必ず守るよ」
アーサーが片目をつぶると、トビーの小さな顔がぱっと明るくなった。
「あの、アーサー、もういいってば!」
「ダメ、下ろさない」
橙色に染まる朝焼けの町を、彼はイーヴィーを横抱きにしたまま歩いている。人の姿に戻ると、すかさずアーサーに再び抱き上げられてしまったのだ。
「でもわたし、どこも怪我なんてしてないし、歩けるんですけどっ」
お姫さま抱っこは、ロマンス小説の中に登場するたびに、ドキドキしてあこがれたシチュエーションだ。けれど。
(恥ずかしいっ、恥ずかしすぎる――――――――――っ!)
物語の中のお姫さまやお嬢さまは、ぽっと頬を染めるだけで王子さまに身も心も委ねられるというのに、とてもじゃないけれど可憐に大人しくなんてしていられない。いたたまれなくて、手足や口がついジタバタしてしまう。
「君が無事なのはわかってるよ。だから、これは僕のわがままだよ」
そう開き直られると、何と言っていいかわからなくなる。しばらくぐるぐると考えた末、イーヴィーは提案した。
「それじゃ、猫姿になるわ。その方が軽いでしょう?」
イーヴィーはどちらかと言えば小柄な方だけれど、それでも猫の数十倍は重いはずだ。それに、先週は火曜と木曜と金曜にお夕食のデザートをお代わりしちゃったから、ドレスのウェストがちょっときつくなったかな、と思っていたりする。
「うーん、僕としては、今の姿の君を抱いていたいんだけど」
「でも……! 恥ずかしいのよ!」
「大丈夫。誰も見ていないから、恥ずかしがることはないよ」
さわやかな笑顔で請け合われても、彼女の頬の温度は下がりやしない。
「わたしが恥ずかしいの!」
「馬車を待たせているところまで、あと少しだから」
「う……」
思いつくかぎりの反論をことごとく論破されて、イーヴィーは彼の腕の中で、借りてきた猫のように大人しくするしかなかった。
「家に着くまで一休みするといいよ」
御者にパクストン家の裏手に向かうよう指示を出すと隣に乗り込んで来たアーサーは、彼女の肩を引き寄せながらそう言った。彼の肩にもたれて眠れというのだろうか? とんでもない。そんなことをしたら頭に血が上って鼻血を出してしまう。
「え、遠慮させてもらいます!」
イーヴィーが振り切れそうな勢いで首を横に振ると、切なげなため息を返された。
「ブタ氏に聞いたよ。君が夜歩きしたのは、僕の薬の材料を集めにいったからだって。だからせめて、肩くらい貸すことを許してほしいな」
「でも、それは――」
口にする前に、彼女の言い訳は封じられた。
「わかってるよ。君がしたくてやったことだってね。だからこれは僕の気持ちの問題だよ。僕も何かしたいんだ」
(そんなの、フラムまで迎えに来てくれたことだけ十分なのに)
「あ、あなただって、一晩中走り回ってくたくたでしょ?」
できるだけさりげなく彼の腕を押し戻しながら言い返すと、彼の口元を悪戯っぽい笑みが走った。
「そうだね。でも、君が僕のわがままを一つだけ叶えてくれたら、僕は元気になれるよ」
嫌な予感がする。とても。それでも、やつれた風情の彼を邪険にあしらうなんてできなくて、イーヴィーはのろのろと問いを口にした。
「…………何をすればいいの?」
「キスして」
「えっ? ………ええええ――――――――っ!」
馬車の天井を突き抜けそうな声が出た。
「ちょっ……、そんな……、できるわけ――」
――ある。
頭のネジを一本、どっかで落っことしてきたような回答をはじき出した自分の思考回路は、きっと寝不足のせいで誤作動しているのだ。
そうそう、そうにちがいない、と結論づけるのもそこそこに、イーヴィーは覚悟の面持ちでアーサーに向き直った。目は合わせない。彼の灰色の瞳をのぞきこんでしまったら最後、もう言い訳のしようのない場所に唇が着地してしまいそうだから。
彼の肩に手をそえて背のびすると、そっと頬に口づけた。
ゆっくり――親愛のキスよりも一呼吸長く、そこに唇をとどめる。
「迎えに来てくれて、ほんとうにありがとう」
キスを終えると、頭も心臓も、オーバーヒートした蒸気機関みたいに焼けつきそうになっていた。
そろそろと引き下がろうとしたら、イーヴィーの体は、いきなりのびてきたアーサーの腕に絡め取られた。
「アーサー?!」
とまどいの声を上げると、沈黙を求めるように、唇を人差し指で封じられた。いつもは冷たい指先が熱い。
「あと少しだけ、このままで……」
かすれた声での懇願にあらがうすべを、イーヴィーは知らなかった。沈黙を了解の印ととったアーサーは、彼女の頭を胸に押しつけるように抱き寄せると、ぎゅっと腕に力を入れた。
こうして王子さまの二つ目の『わがまま』も、馬車が目的地に着くまでのひととき、かなえられる次第となった。
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