4-3
「やっぱり月の光が足りない……」
手元の小瓶の底をのぞきこんで、イーヴィーはひとりごちた。
薄暗い台所の作業台の上には、大小のガラス瓶がいくつも並んでいる。来週と再来週の分の子守唄を調合しているところだ。後は材料を混ぜ合わせながら夢を紡ぐだけなのだけれど、肝心のオトリギソウの葉に落ちた月光が、ほんの一、二かけらしか残っていない。これではレシピに指定されている分量の半分にも満たない。
窓越しに夜空を見やると、青白い面の月は、かじりかけの林檎のような、いびつな姿を見せている。満月ではないけれど、月の光は十分強いし、雲もない。どうせ冬の間に使う分のストックを作らないといけないから、今夜、まとめて採取すれば手間が省ける。
まだ九時を回ったばかりだから、チェルシー薬草園まで往復しても、今晩中に煎じ茶を作ってしまえる――。
「ちょっくら行ってきますか」
イーヴィーは、エプロンのリボンに手をのばした。
(ひょっとして、道、まちがえた?)
月の光をたんまりと集めて、軽い足取りでチェルシー薬草園を発ってから約十分の後。
ふと違和感に襲われて、イーヴィーは足を止めた。薬草園から家まではまっすぐの一本道だ。本当ならそろそろ自宅の近くのはずなのに、インクのような闇に染まる通りは、なんだか様子が違う。
帰り道だと思い込んで、実は全く違う方向へと向っていたらしい。もうじきパブも閉まる時刻で、イーヴィーの家の近辺なら劇場や夜会帰りの馬車くらいしか通らないはずなのに、なぜだかちらほらと人通りがある。
その時、ふいに風向きが変わり、馴染みのない匂いが彼女の鼻をついた。すえたような汚水とゴミの悪臭に混じって、麦酒とジンが苦く香り、それに肉食の花めいた脂粉の匂いが重なる。その段になって、イーヴィーは悪い予感が的中したことを知った。
(やだっ! フラムの方に来ちゃってる!)
まずい。チェルシーの北西、ロンドンの郊外に位置するフラムは、イーヴィーの住むお屋敷町とは正反対の労働者の町で――娼館と賭博場が集まる盛り場だ。
きびすを返して来た道を戻ろうとした時、むんず、と尻尾をつかまれた。思わず「ふぎゃっ?」と甲高い悲鳴をもらす。
(なっ、なにっ?)
「チビ猫」
下町訛りの子供の声が聞こえた。
「待てよ、チビ猫」
声の主は、すり切れたブカブカの大人の服を着た、八歳くらいの男の子だ。身をすくませたイーヴィーを、その子は手を不器用な手つきでつかみあげた。
「ここにいてくれよぉ」
一生のおねだりでもするような声音に、ジタバタと暴れていたイーヴィーははっとした。
「今日は給料日だからよぉ、父ちゃんが賭場で賃金全部すっちまわねえように、連れて帰んなきゃなんねえんだ」
少年の視線をたどると、横町の突き当たりに、《南十字星》という名前のパブの看板が見えた。開けっぱなしの戸口からは、明るい光と床にまかれたおがくずと一緒に、酒焼けした歌声や野太い笑い声が路上にこぼれている。
察するに男の子の父親は、温かくなったふところから、いくばくかの安酒を買って給料日を祝っているのだろう。酒も飲めない子供が一人でパブに入ったところで、亭主につまみだされるのが関の山だ。だから彼は、路上でじっと父親が出てくるのを待つしかないのだ。温かな夜なのに、イーヴィーのお腹に回された細い腕は震えていた。寒いのではなく、恐いのだ。
(そりゃそうよね、こんなに暗いんだもん)
人攫いが息を殺して待ち構えていそうな暗い路地や、黒い何かがぞろりと這い出してきそうな物陰。イーヴィーだって、この姿じゃなければ、きっと恐い。
「でもなあ、待ってなきゃあ母ちゃんに叱られんだ。ぶったたかれんのはかまわねえけどよ、晩メシ抜きはこたえるからさぁ」
大人の口ぶりをまねた、伝法な口調で少年はぼやいた。彼の言葉を裏付けるように、ぐー、とトビーのお腹が空腹を訴えた。
「だからチビ猫、一緒に待ってて。いい子にしてたらさ、オレのミルク、半分やるからさ」
そして少年は、「オレ、トビーってんだ」と自分の名前を教えてくれた。イーヴィーは、「タフィー」と命名された。砂糖とバターとナッツで作る、柔らかなキャンディーだ。
「一度だけ食ったことがあんだけどさ、天国みてえにうまいんだぜ。口に入れたら、くにゃってしてさ、雪みてえに舌の上で溶けんだ。いい名前だろ?」
(………………)
生まれてから、たった一度しかタフィーを食べたことのない人生。そんな人生を送る子供こそ、魔法が使えたらいいのに。
ふとそう願った途端、彼の腕を振り切って家に帰ることが、ひどく残酷なことに思えて、出しかけていた爪をそっと引っ込めた。
(う――――……っ)
そのミルクは、イーヴィーが飲み慣れたものとは似ても似つかない、酸っぱくて水っぽい代物だった。水っぽいのは、値段を安くするために水で薄めているからだろう。おまけに混ぜ物までされているのか、チョークでもかじったような粉っぽい後味がしつこく残る。
それでもトビーは自分の分を、まるで極上のココアみたいに喉を鳴らせて飲みほした。本当はもっと欲しいのに、我慢して分けてくれたんだ、と気づいたら自分のえり好みが恥ずかしくなって、イーヴィーはお皿のミルクを一生懸命カラにした。
トビーの家は、パブからすぐのところにあった。七人家族が住んでいる、裏路地の傾いた家には、台所と食堂と居間を兼用している部屋と、寝室の二間しかない。煤で黒ずんだ天井には何本もの物干しヒモが渡され、洗濯物が乾かされている。扉の向こうの寝室からは、喧嘩している幼い声。
食卓に上がったのは、茹でたジャガイモに塩漬けの鱈とチーズを混ぜて焼いただけの料理。それがトビーの家のお夕食の全てだった。
トビーの父親は酔いが回ったのか、食べるだけ食べると早々に寝床に入って寝てしまった。暖炉の前の椅子に座った、まだ二十代だろう若い母親は、繕いものをしながら、トビーの弟らしい小さな子に何やら小言を言っている。
(チャリティ・バザーのお手伝い、今度からもっとちゃんとやろ……)
パクストン夫人は、同じ教区の裕福な家の婦人たちと一緒に、年に数度、慈善のためのバザーを開催しては、その売上金で教区の困窮家庭を支援している。それ以外にも、季節の変わり目には、衣料品や食料品をバスケットに詰めて、そうした家を訪問している。
イーヴィーも母親に誘われて何度か、慈善婦人たちの会合に顔を出したのだけれど、そのたびにおばさま方の誰かが、『イヴリンさんにお似合いの男性がいるのですけどねぇ』と、息子や甥やいとこの息子やら、要するにどの一族にも一人はいる不良在庫を紹介しようとしてくるのがわずらわしくて、このところ足が遠のいていた。(お母さまいわく、まともな独身男性が、そんな裏ルートで紹介されるはずもないのだ)
母のお供をして訪れた家庭に較べると、トビーの家は、かなりましな暮らしをしている部類だ。けれども労働者の生活は、ちょっとしたことであっという間に傾いてしまう。例えばトビーの父親が病気や怪我で働けなくなったら、一家はたちまち路頭に迷う。そうしたらトビーのような小さな子だって働きに出ないと、ジャガイモや酸っぱいミルクさえ口にできなくなるのだ。
カラになった素焼きのお皿をじっと見つめて、イーヴィーは申し訳なさに身をすくめた。
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