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4. 迷子の心

今回はちょっと長めです。

「ホントにほんっとうに一昨日(おととい)はごめんなさい! 一度ならず二度までもあんなお目汚しをしちゃって……。お詫びのしようもないですっ!」

(とほほ、彼には謝ってばっかり……)

 場所は、ガラス天井から午後の日差しがゆるやかに差し込む、モードレッド家の優雅な温室(オランジェリー)。太陽に温められた空気は、ほんのりとオレンジの花の香りがする。

 隣の籐の椅子に座るアーサーに向かって平身低頭しながら、イーヴィーは内心、深い深いため息をついた。お詫びの印になるのなら、反省文を二百ページくらい書いたって構わない。

「イーヴィー、謝られると僕が困ります」

 と、本当に困っている様子でアーサーは顔をゆがめた。

「僕がちゃんとあなたをエスコートしていれば、あんな事態を招くことにはならなかったのですから、責任を感じているんです。その上あなたに謝られたら辛いです」

「でもアー…、いえベリオル卿(ロード・ベリオル)、あなたにわたしのエスコート役をお願いしたわけでもないし、それにわたし、言い訳のしようのない振る舞いをしたわ……」

 時間が経つにつれて、あの夜の記憶は、難破船の破片が海岸に打ち上げられるように断片的に戻ってきた。

「何があったのか憶えているのですか?」

 灰色(グレイ)の瞳が軽くみはられた。

「はい、部分的には……。あなたに散々駄々をこねたでしょう? それでお水を飲ませもらって、それから眠り込んでしまって……」

(ああ、なんてことを……!)

 口にするだけでも頭がゆで卵になりそうだ。

「何か、その、……他に憶えていることはありませんか?」

 たずねるアーサーがどことなく不満そうだったので、イーヴィーは、何かとんでもない狼藉をまだ忘れているのか、と青ざめた。

「ま、まさか、わたし、他にも……?」

「あ、いえ。責めているんじゃないです。ただ、ちょっと確認したかっただけで……」

「?」

 彼らしくもなく歯切れの悪い口調だった。

 けれど首を傾げていると、「特に憶えていないのなら、それで良いんですよ」と妙に強い口調で言い重ねられて、その話はなんとなくそこで中断となった。


「……あの、ひとつ教えてもらいたいことがあるんですけど……」

「なんでしょう?」

 ライムの香りを効かせたチーズケーキをあらかた食べてしまった頃、イーヴィーは前から気になっていた話を切り出した。

「まだ、夢を見ますか?」

 子守唄の(ララバイ)煎じ茶(ティザーヌ)で悪夢は晴れたはずなのに、この間も気分が悪くなっていたアーサー。

「……そうですね……、あなたに誤魔化しても仕方ないか」

 認めたくなさそうにアーサーは肯定した。

「やっぱり、煎じ茶じゃ効かないんですか?」

「いえ、そうじゃありませんよ。その逆で、あなたのお茶を飲んでいない時に、夢や息苦しさが戻ってくるんです」

「あの……、ひょっとして、今も、ですか?」

 おそるおそる、イーヴィーはたずねてみた。実は先ほどから、またあの憶えのある感覚に襲われている。顔に枕を押し当てられているように、息をするのが苦しい。

「はは、あなたには嘘はつけませんね……」

 降参、という風に青い顔で笑ってみせたアーサーの首の周りには、またも黒い影のようなものが巻きついている。けれど今日はいつもよりも、その影はくっきりと見える。そしてそれは、ヘビが尾を引くように、温室のガラス扉の向こうに消えている。

「アーサー、あなたはそこで休んでいてちょうだい!」

「え? イーヴィー? どこに……」

「今ね、影がはっきり見えるの! だから、どこから来てるのか突き止めてみせるわ!」

 ぱっと立ち上がったイーヴィーはそう言い残すと、廊下に走り出た。

「まって下さい、イーヴィー! 一人では――」

 アーサーの声が追いかけてきたが、イーヴィーは足を止めなかった。今なら影の源を突き止めることができる。夢中でいくつかの角を曲がって、行き合った執事が驚いて足を止めたのも無視して、階段を駆け上る。

「ここだわ! ここから来てる……!」

 肩で息をしながら彼女が声を上げたのは、二階の廊下の突き当たりにある扉の前だった。

「ちょっと待って下さい。今鍵を開けますから」

 追いついたアーサーはそう断ると、ジャケットから鍵束を取り出して扉を解錠した。

「温室にいて!」と何度か肩越しに言ったのに、具合はそんなに悪くないからと言い張って、結局彼はついてきた。ここは彼の家だし、イーヴィー一人で奥に入るわけにもゆかなかったので、結果としてそれで良かったのだけれど。

「この棚の上よ」

 イーヴィーは爪先立って、収納棚に置かれているものを指さした。イーヴィーの背丈より上の棚で、黒い霧はとぐろを巻いている。何かの拍子にうねうねと動く様が、本物のヘビみたいで気持ち悪い。

「……その鏡ですか……」

 窓のないこの部屋は、アーサーが収集品の保管に使っているところだという。天井まで届く作り付けの収納棚がずらりと並んでいる。

「鏡?」

ほの暗い中、イーヴィーは隣に立つアーサーを振り返って、ついでに彼の顔色を確認した。大丈夫。今は元気そうだ。

「ええ。そうです」

 アーサーは腕をのばすと、ほこり除けにかけられていたフランネル地の布を取り去った。現れたのは、きらびやかに装飾された、お盆ほどの大きさのいびつな楕円形の鏡だった。鏡面を縁取る金の浮き彫りが、いぶされたようにくすんでいるのが時代を感じさせる。

「十六世紀のヴェネチア鏡です」

 短く答えると、アーサーは鏡を手に取って、イーヴィーにも見えるように、戸口脇に置かれていたコンソール・テーブルに載せた。

「アーサー、気をつけて……!」

 悪夢の元凶らしきものにいとも無造作に触れた彼に、ヒヤリとする。

「ちょっと触るくらいでは、何も変わらないと思いますよ」

「でも……!」

 どす黒い煙のようなものが、鏡からもうもうと立ち昇っているのが見えるこっちは、気が気じゃない。

平然としている彼は、優しげな外見に似合わず、肝が据わっている。

(そう言えば大陸巡遊旅行(グランド・ツアー)中に、闇市場に入り込んで売り飛ばされそうになったんだっけ、この人……)

 前言撤回。彼は賢そうな外見に似合わず、さらっと無茶をする人だ。

「先月、クリスティーズのオークションにかけられる予定だったものですが、訳あって出品が取りやめになったんです」

 それがなぜ彼の家にあるのかしら、と疑問に思っていると、彼女の顔にちらりと視線を走らせたアーサーはくすりと笑った。

「理由が気になる、という顔ですね。――この先の話には、僕の依頼人のプライバシーが関わってきますから、決して口外しないで下さい」

「分かったわ。誰にも言わないって約束する」

 彼の目をまっすぐ見て誓うと、目元を和らげて彼もうなずいた。

「オークションが中止されたのは、この鏡は盗品だという申し立てがあったからです。ヴェネチアにダンドロ家という古い貴族の家があるのですが、そこの当主から、この鏡は一七九六年にダンドロ家の屋敷から不当に持ち去られたものだと訴えられました。ご存じのように当時のイタリアは戦時下で、治安も悪かったですからね」

「ナポレオンの軍隊に占領されたから?」

 フランスで革命が起きた後、フランスとヨーロッパの他の国の間で大きな戦争が起こったことは、女家庭教師(ガヴァネス)のミス・グリナウェイから歴史の時間に教わった。

「そうです。戦時中の混乱に便乗して、悪事を働く者も増えました。この鏡もそうした者の手で盗まれたとダンドロ卿は主張しているんです」

「その……、それはフランス軍に持ち去られたってこと?」

 パリのルーブル美術館には、そうして持ち帰られたイタリアの美術品がたくさんあると、いつか聞いたことがある。

「いいえ。フランス軍に接収されたものでしたら、返還請求をしても認められることはまずありません。これが接収品ではなかったことは、パリに問い合わせて確認済みです」

「あなたが問い合わせたの?」

「ええ。僕がこれを預かっているのは、ダンドロ家の当主の主張の裏付けと、これが本当にその鏡かどうかを鑑定するためです」

 アーサーが、あちこちから相談を受けるくらいの目利きだという噂は本当だったらしい。

(うわあ、かっこいいなあ……)

 と、あさっての方角にズレかけた意識を目前の現実にひっぱり戻す。

「ええと、それで、鑑定はもう終わっているの?」

「ええ、ほぼ」

(なぁんだ、よかった……!)

 安堵で肩の力が抜ける。依頼のために預かっているだけなら、さっさと返却してしまえばいい。鏡が彼の手元を離れたら、悪夢も消えるだろう。

「それなら、できるだけ早くお返しすることをおすすめするわ」

「それが、ちょっと困ったことになっていて、返すに返せないんです」

「え?」

「これがダンドロ家の鏡だということは、九割方確定しています。制作年代も特徴も、当主の主張や、実際に昔、鏡を見た人物の記述とも一致している。こうなると本来の持ち主に返すのが筋ですが、あちらからは、破損や盗難の危険を冒してまでイタリアに返送するくらいならこちらで売却してほしい、と指示されました。それで元通りオークションにかけることになったのですが――」

 アーサーが言葉を切ったことに、イーヴィーは嫌な予感を憶えた。

「――今度はクリスティーズの担当者が心臓発作で倒れて、彼の後任が決まるまで売却は延期、ということになってしまいました」

「なんてめぐり合わせの悪い……」

「その通りですね。だから、この鏡が呪われていると言われても、僕は驚きませんよ。何だか意地でもこの家に居座ろうとしているみたいで――」

「笑いごとじゃないわよ、アーサー!」

 彼があまりに平然としていることに焦れて、イーヴィーは彼に詰め寄った。

「わたし、とってもうさんくさいことを言っている自覚はあるわ。でもこの鏡は危険よ! お願いだから信じて! 何とかしてあなたの側から遠ざけないと……!」

「あなたの言葉を疑ってなどいませんよ。ただ、あなたの言う通りにすると、別の問題が発生してしまいます」

「どんな問題なのよ?」

 彼の上着の襟をつかむイーヴィーの両手を包み込むように握ると、アーサーはやんわりと彼女の指をほどいた。

「そうなると、どなた他の気の毒な人間が、僕と同じ目にあう可能性がありませんか?」

「……っ!」

 静かな声で指摘されて、イーヴィーはぐっと言葉に詰まった。彼の言う通りだ。

「でも……!」

 すがりつくように見上げる彼女の頬に、触れるものがあった。彼の指だった。ひんやりとした指先が、すべるように彼女の頬の輪郭をたどる。

「あせらなくても、オークションはいつか開かれます。そうなればこの鏡は当家を離れます。次の担当者が決まったら、いわくつきのものだとそれとなく伝えて置きましょう。――ああ、ついでに『呪い付きの鏡が出品される』という噂も流しておくかな。あなたも協力してもらえますか?」

 悪戯っぽくたずねられて、イーヴィーは首を傾げた。

「でもそうしたら、出品しても売れなくて困るんじゃ……?」

「世の中には物好きが多いんですよ。怪異つきの品物ばかり集める好事家とか、心霊現象を追い求めるオカルト研究者集団とか」

(そうか。そういう変人には不気味な呪いの鏡も垂涎(すいぜん)の的よね……)

 と、一瞬丸めこまれそうになったけれど、一番大事な点でお茶を濁されていることに、首を縦に振る寸前で気づいた。

「ダメよ! それじゃオークションが開かれるまで、あなたはそのままじゃない!」

 つまり、悪夢に取りつかれたまま。

「イーヴィー、僕の身を案じてくれるの? あなたは優しいね」

「心配よ! だって――」

 勢い込んで言いかけた言葉を、イーヴィーははっとして飲み込んだ。

「だって――何? 教えて、イーヴィー」

 優しく命じながら、アーサーは彼女のおとがいに指をかけて、そっと上向かせた。自分を映す灰色(グレイ)の瞳の深みに胸が苦しくなる。

「……だって……、わたし、あなたのために何かしたいの。あなたが苦しんでいるのを見ていると、つらくてたまらなくなるんだもの」

 黙って耳を傾けていたアーサーは、彼女が口をつぐむと、ふい、と顔をそむけた。

「………………」

「! また苦しいの、アーサー?」

 口元を片手でおおって深い息をついた彼を見て、イーヴィーは動転した。

(どうしよう! わたしが彼をここに連れてきたから……)

「………苦しいです、イーヴィー」

「それならどこかに座って! ええと……」

 あせって部屋を見回すが、ここには椅子のようなものは置いていない。と、肩に手が置かれた。

「苦しさの種類が違います」

「へ?」

 間抜けな声を上げて振り向いた先には、困ったような微笑があった。

「あなたがあまりに可愛いことを言うから、抱きしめてキスしたくなって。それを我慢するのが大変で苦しいんです」

「なっ! またからかって! もう知らないっ!」

(人が真剣に心配しているというのに、この人は!)

「ああもう、怒らないで、イーヴィー」

「わたしもう帰ります! お茶、ごちそうさまでした!」

 別の意味で濃くなった空気に、イーヴィーは彼の手を振りほどくと、真っ赤になって退散した。


読んでいただきありがとうございます。

お気に召していただけましたら、評価や「いいね」していただけると作者のはげみになります。

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