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「お待たせ~! 今日のお茶菓子は焼き林檎よ」
お盆を持たせたメイドを後に従えて、イーヴィーは応接室の扉を開いた。
「まあ、ほんと? うれしいわ」
イーヴィーより幾分か音程の低い声で、ネリーはおっとりと応じた。
にこにこと笑う彼女の目元を青く縁取るクマを目にして、イーヴィーは心の中でため息をついた。
(やっぱり、まだあまり眠れないのね……)
一か月経って噂はようやく下火になったけれど、人々の記憶からアレが消えるまでには到底足りない。ネリーが人前に姿を現すたびに、興味本位の視線やささやき声は再燃する。
(彼女は何も悪くないのに!)
たぶんイーヴィーは本人以上に、親友の受けた不当な仕打ちに憤っている。
ネリーとは、初めての舞踏会で知り合った。素敵な出会いがあるかしら、と期待に胸弾ませて出かけた舞踏会だったのに、自分にダンスを申し込む男性が一人も現れなかった、不運な夜だ。
よりによって人生初の舞踏会の日、イーヴィーの母親がギックリ腰になってしまい、イーヴィーの監督者役は、急遽マーガレット叔母さまに変更された。元からあまり気の効く人ではない叔母さまは、会場に着くと『さ、楽しむのよ!』とイーヴィーの肩を叩いて豪快に笑うと、自分はさっさとおばさん仲間のゴシップの輪に入ってしまった。
叔母さまは娘がいないから知らなくてもしょうがないのだけれど、社交界に娘がデビューする時には、しかるべき男性をみつくろい、彼らがダンスを申し込むように根回しするのが、その監督者の役目なのだ。
大して財産も人脈もない家の娘にすすんで関心を持つ男性が社交界にいるはずもなく、ろくに知り合いもいない会場でぽつんと立っているのは、誰も拾ってくれない捨て猫のように心細かった。
華やかに円舞する男女を眺めながら、泣きそうになるのを我慢していたら、同じように社交界に初めて出る娘が着る白いドレス姿で壁の花になっていたネリーと、ふとした拍子に目が合った。
どちらからともなく笑えてしまって、それから残りの時間、ワルツもカドリールも忘れておしゃべりに花を咲かせた。
おかげでイーヴィーの生まれて初めての舞踏会は、一度もダンスをしないまま閉幕してしまったけれど、親友に出会えたのだから、それでお釣りが来ると思っている。
なめらかな亜麻色の髪に、いぶされたようなオリーブグリーンの瞳のネリーは、大人しくて引っ込み思案なために地味な印象を与えがちだけれど、笑顔はとびきり可愛い。そして、底抜けなくらいにお人好しだ。
人前、特に男性の前では口数が少なくてうつむきがちな彼女だが、打ち解けた相手には思いの外お茶目で世話好きだ。
「イーヴィー、その手はどうしたの?」
「え? あっ、な、なんでもないわ。ちょっとお手紙の封筒を開く時に切っちゃったの」
ささっと親友の視界から左手の包帯を隠しながら、イーヴィーはやや早口で答えた。
実は林檎をくり抜こうとした時に手を滑らせて、人差し指をさっくり切ってしまった。勢い良く血が出てびっくりした割には、あまり痛くなかったので良かったけれど。
「お医者さまには見せたの?」
「ううん、大したことないから。何日かしたらなおっちゃうわ」
「でもそれじゃダンスの時に困るでしょう? 明日のラモンド家の舞踏会はどうするの?」
「うーん、わたしとしては、別に休んでもかまわないというか……、あ―――っ! でも、どうしよう……」
頓狂な声を上げたかと思うと、イーヴィーは憂鬱そうな顔で黙り込んだ。
手のケガを口実に夜会をサボろうかと思っていたけれど、休んだら休んだでお母さまのお小言が大変だ。
『ラモンド家の夜会を欠席する? まあ、なんてもったいないことを! あそこは独身の若い男性が沢山いらっしゃるのよ? イヴリン・パクストン、あなたはもっと自覚を持って行動するべきです。嫁き遅れてもいいのですか?』――等々。
きっと小一時間はお説教される。
イーヴィーもネリーも、いわゆる適齢期のお嬢さんで、去年の社交の季節に社交界にデビューしたばかり。はたから見れば、もらい手絶賛募集中の身だ。
イーヴィーの父はヨークシャーの男爵家の次男で、母は貴族ではないけれど、スコットランドの地方の名家の娘だ。というわけで、イーヴィーは肩書きこそ平民でも、血筋は悪くない。ちなみにネリーは子爵家の令嬢だ。
身も蓋もない言い方をしてしまうと、社交界の片隅で結婚相手を物色する分には、身の程知らずと陰口を叩かれることのない程度には、二人とも家柄が良いけれど、大貴族や社交界の華が集まる夜会に招待されるほどには実家の権力がない。
だから出かけるとは言っても、あまり身分の重くない人たちが出席する、肩肘張らない集まりが中心だ。
イーヴィーの両親が本腰を入れて彼女の嫁入り先を探し始めたのは去年からだ。三つ年上の長女、ソフィーがお嫁に行ったので、さて今度は次女の番、ということになったのだ。
十六歳の誕生日を控えた日から、大人の女性のように髪を結いあげるように言われて、次々とドレスを新調してもらえたかと思うと、『さ、いってらっしゃい』と件の舞踏会に送り出された。
そこそこ経済的に安定した、中の下あたりの貴族(でないと生活に困るので)か、裕福で育ちの良い中流階級(成り上がりだと社交界で苦労するので)。そのあたりに縁づいてくれれば、というのが彼女の両親の希望だ。
でもそれは、あくまで両親の希望だ。
そろそろイーヴィーにとって二度目の社交の季節が終わりかけていたけれど、『次女の結婚相手が決まらない!』と気をもむ両親とは裏腹に、同世代のお嬢さんたちが次々と婚約や結婚をしていっても、彼女はいたってのんきに構えている。
求婚してくれる相手が現れれば結婚したいけれど、そういう人がいなければいないで別にかまわない。イーヴィーにとって、まだ結婚は遠い日の漠然とした夢だ。
それより今、彼女の心を占めているのは、星屑林檎の出来栄えと目の前の親友だ。
「冷める前にどうぞ」と勧めてから、イーヴィーもナイフとフォークを手に取った。
「おいしい……」
しばらくして、ネリーがぽつりとつぶやいた。
「イーヴィー、これってどうやって作るの? 初めて食べるお味だわ」
「えっとね、ミントとローズマリーのシロップが使ってあるの。それを小麦粉とアーモンドの粉と混ぜてパラパラにしたのを林檎に詰めたのよ」
喜んでくれたのが嬉しくて、頬をゆるませながら解説すると、ネリーの視線が包帯に巻かれたイーヴィーの左手にちらりと流れた。
「それじゃ、その怪我は、林檎を切る時の名誉の負傷なのね」
「あっ!」
(し、しまったぁ……)
彼女を元気づけるために作ったのに、気を使わせてしまったら意味がない。とイーヴィーはあせったけれど、ネリーはくすくすと笑いだした。
「本当にありがとうね、イーヴィー」
「ネリー……」
作り笑いじゃない笑顔は一月ぶりだ。言葉を失っていると、ぱ、とネリーは両の手を合わせた。
「私ね、もうメソメソするのはやめるわ。一か月もべそをかいていたのですもの、いい加減にやめないと枕にキノコが生えてしまうわ」
「ネリー……、ほんとに?」
無理をしているんじゃないか、と半信半疑のイーヴィーを見て、ネリーはわざと難しい顔を作ると重々しくうなずいてみせた。
「噂も足の引っ張り合いも、社交界じゃ当たり前のことですものね。お母さまもおっしゃってたもの、『嫌がらせをされるうちが花ですよ』って。これくらいで立ち直れなくなっていたら、お婿さんなんて見つからないわ」
「ネリー、えらいわ……」
「えらくなんかちっともないわ。一月もウジウジしていたんですもの」
軽く肩をすくめて笑う彼女は、先ほどまでの打ちしおれた人とは別人のように前向きだ。
(ま、魔法みたい……)
親友の突然の立ち直りが信じられなくて、イーヴィーはパチパチと何度もまたたいた。
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