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「ちょっと待っててください」
煙るような秋雨の降る庭先から書斎に入るなり、ぷるる、と小さく身震いした黒猫姿のイーヴィーを見ると、アーサーはあわてたように言い残して隣室に消えた。
と思うと、タオルを手に戻ってきた。
「失礼」と、短く断ると、彼はイーヴィーの湿った毛並みを丁寧な手つきでふきはじめた。
(わ! な、なにするの……!)
自分でできると言おうにも、この姿のままじゃニャアとしか言えない。
小さく尖った両耳から頭、背中、長い尻尾。一通りふき終えると、今度は「右手を出してください」とうながされた。
(しまった、足の泥、落としてくるの忘れてた!)
足裏についていた土で、純白のタオルが汚れてしまったのを見て、イーヴィーは決まりの悪い思いをした。けれどアーサーは気にしたそぶりも見せず、残りの脚も手早く清めてしまうと、にっこりと笑った。
「これで大丈夫ですね。あまりぬれていなくてよかった。冷えたでしょう? 何か温かいものを頼みましょう」
「大丈夫よ、ベリオル卿。今日はすぐに帰りますから」
呼び鈴を鳴らそうとするアーサーを、ようやく人姿に戻ったイーヴィーは急いで止めた。
「お母さまに内緒で外出してるの。だから見つかる前に戻らないといけないの」
「そうですか? 気が変わったらいつでも言ってくださいね」
「ありがとう。――あのね、今日来たのはこれを渡すためなの」
「これは……お茶?」
イーヴィーが差し出した紙袋の中には、綿モスリンの子袋に小分けした子守唄の煎じ茶が十包ほど入っている。
小さじ一杯ずつ、お茶をモスリンの袋に縫い込めて、口を閉じた糸は長く残して、持ち手代わりの紙片に結わえつける。そんなふうにティーバッグ状にしたのは、イーヴィーのアイデアだ。その方が使いやすいだろうと思って、昨日夜なべしてお裁縫した。
「そうよ。あの、無理にはすすめないけど、『レシピ』に悪い夢を追い払うお茶の作り方がのってたの。それで、もしよかったら、試してもらいたくて……」
彼にお茶を渡したいなら、訪問の約束を取って、正面玄関からたずねればいいのに、煎じ茶が出来上がったら、いてもたってもいられなくて来てしまった。
「あなたが作ったんですか?」
「作るって言っても、混ぜ合わせるだけで、子供だましみたいに簡単なものですけど……あ、一応わたしも味見したけど、味は悪くなかったわ。だから、その、気休めに……」
月夜の冒険と縫製は、『混ぜ合わせる』作業とは直接的な関係がないので、難易度の評価からは除外しておくことにした。面映ゆいのでわたわたしながらアレコレ口走っていると、ていねいに袋の口を閉じたアーサーは、ふわりと微笑んだ。
「ありがとう、イーヴィー。本当にうれしいですよ」
「飲むのはいつでもいいけど、夜、寝る前に飲むと、一番効果があるわ」
「寝る前ですね。わかりました」
ちょっと迷ってから、やっぱりイーヴィーは言っておくことにした。
「……えっと、それからね、もし別の夢が見たくなったら教えて、下さい……」
「え? ……ひょっとして、あなたが作った夢を見せてもらえるのですか?」
改めてたずねられると恥ずかしくなって、ボッと顔が熱くなった。
「う、うん、そ、そうなの。悪い夢の代わりになる夢を考えなきゃならなくて……」
実はこれが、子守唄作りの一番の難所だった。丸一日、散々迷った末に決めた夢だったのだけれど、今でも自分の選択には、まったくもって自信がない。
「それは楽しみですね」
「だ、だからっ、あんまり期待しないで!」
バタバタと無意味に手を振り回しながら声をひっくり返らせるイーヴィーを、アーサーは何だか楽しそうに眺めている。
「もしかして、夢の中であなたに会えますか?」
「それはわからないわ。自分で飲んでみた時は、夢だけだったし……」
夢の中でもう一人の自分に会うというのも、どうかと思うし。
「それは残念」
「い、いいじゃない! わたしなんかに会ったって面白くないでしょう? ……わたしみたいな、色黒の太めの子より、ほっそりして綺麗な人が出てくる夢の方が楽しいに決まってるし……」
先日の野良猫の台詞がよみがえって、なかば独り言のようにつぶやく。
それでもアーサーには、ちゃんと聞こえていたようだ。
「何を言っているんですか。こんなに華奢で可愛いのに」
なぐさめてくれる甘い言葉も、今は何だか空虚に聞こえる。
「だって、太めって言われても、わたし、文句も言えないし……」
うなだれて力なく笑う。今日はマーサに頼んで、いつもよりもぐぐっとコルセットの紐を締めてもらったのだけれど、ペルシャ絨毯に落ちる影は、イーヴィーのささやかな努力など嘲笑うかのごとく凹凸に乏しい。
「誰です? そんなひどいことを言ったのは?」
「えっ?」
がし、と肩をつかまれて、イーヴィーはきょとんとアーサーを見上げた。灰色の瞳がいやに真剣な光を浮かべている。
「どこの誰が、あなたにそんな暴言を吐いたんですか?」
「それを知ってどうするの?」
「撤回させます。あなたを侮辱するなんて許せませんから。相手が男性なら、ことと次第によっては決闘を申し込みます」
「け、決闘っ?」
何をこの人はいきなり言い出すんだ、とイーヴィーは目じりが痛くなるくらい目を見開いた。真剣に怒っているアーサーを見ていたら、逆に自分は冷静になってきた。
「えーと……、それは無理だと思いますけど」
「なぜですか?」
「通りすがりの野良猫でしたから……」
そう答えた時の彼の顔は見ものだった。たっぷり数十秒は真顔で絶句した後、彼は髪をかき上げると、ようやく言葉を取り戻した。
「猫……ということは、あなたも――」
「はい、猫でした。あなたが猫に変身できない以上、決闘は無理だと思います」
「はは、そうですね。あれはあくまで対等な者同士がするものですからね……」
苦笑いしながらも、アーサーは微妙に立ち直れていない表情だ。
「あの、べリオ……、じゃなくて、………ア、アーサー」
「なんですか? イーヴィー」
「ありがとう。わたしのために怒ってくれて、うれしかったわ」
照れくさかったのでやや早口に言うと、「それじゃ、雨もやんだみたいだし、帰るわね」と身をひるがえして変身のステップを踏み始めた。
「待って、イーヴィー」
彼女の腕をすばやくつかんで引き寄せると、アーサーはひょいとかがんで、彼女の頬にキスを落とした。
「!」
真っ赤になって頬を押さえたイーヴィーに、悪戯が成功したような得意気な笑顔で、アーサーは片目をつぶった。
「あなたが無事に家に帰れるおまじない」
「もう! 魔法なんて使えないくせに! ……………でも……」
「ん?」
「………ありがとう」
やっとのことでお礼をつぶやくと、火照る頬を黒い毛並みで隠すように、イーヴィーは大特急で変身した。
帰り道、雲間からもれる陽光が、なんだかやけにまぶしかった。
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