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3. 子守唄

(うそ、猫って夜目がきくんじゃなかったの?)

 パチパチと目をしばたいて、イーヴィーは暗い夜の庭を見渡した。これでは人間の目と大して変わらない。視点が低くなった分、木や茂みが大きくなったようで、黒いかたまりとしての迫力は三割増くらいだ。

 それでもその上には、銀のお盆のような満月が煌々と輝いている。

(あれが欲しいんですもの、行かなくっちゃ)

 月を見上げて、ぴっ、と敬礼のように尻尾を立てると、イーヴィーは暗闇の中に足を踏み出した。


 夜のチェルシー薬草園(フィジック・ガーデン)は、お昼に下見に来た時とはまるでちがう姿を見せていた。やわらかな月光を注がれて眠る草花たちは、海の底のような深い藍色の濃淡に沈んでいた。

(ここまではカンペキ。予定通りね)

 家の裏手の壁を乗り越えて、まっすぐの道を二十分。左手に現れる石壁に飛び乗って下りたところが、このチェルシー薬草園(フィジック・ガーデン)だ。ここは薬剤師協会が管理する、ロンドンでも伝統ある薬草園で、英国で露地栽培できる薬効植物ならたいがい揃っている。

『イーヴィー嬢ちゃんの目に見えたのは、悪い夢じゃろ』

 アーサーが倒れそうになった時、彼の周りに見えた、黒い(かすみ)のようなもの。

 その晩、夢で会ったブタ(ムッシュー・ピッグ)に「あれは何?」とたずねたら、彼はそう教えてくれた。別に夢見の悪い人みんながそんな不気味なモノにまとわりつかれているわけでなくて、アーサーのそれは、たちの悪い風邪にかかっているようなものだという。突然の喉の痛みや発熱のように、運が悪いとどこからともなくもらってしまうものらしい。

 中国庭園でアーサーにそう話したら、彼はしばらく迷った末に打ち明けた。

『眠ろうとする時や疲れた時に、先日あなたと一緒にいた時のような息苦しさに襲われるんです。眠りに落ちても、夢見が悪くて……。軽い神経衰弱(ノイローゼ)でしょうが、困ったものです』

 彼は明言を避けたけれど、もう長いこと症状は続いているらしい。風邪と同じように、『悪い夢』も時間が経てば自然と治るらしいけれど、アーサーはいかにも辛そうだった。悪い風邪と同じように、こじらせて肺炎みたいになっているのかもしれない。

 それで再度ブタ氏に助言をあおいだら、『悪い夢にはコレが一番じゃよ』と、『レシピ』に載っている薬をすすめられた。

その名も『子守唄の(ララバイ)煎じ茶(ティザーヌ)』。

 ラベンダーとかカモミールとか、鎮静効果のある色々なハーブを混ぜ合わせるだけの、一見簡単なレシピに見えたのだけれど、さすが魔女のレシピ、どっこいそうは問屋が下ろさなかった。

(カラハナソウは、三番目の列のチリチリした葉っぱの茂みのとなり、っと――)

 小さな黄色い花がブドウの実のように房になって垂れ下っている蔦植物が、今晩の第一のターゲットだ。

(これってやっぱりドロボウなのかしら? そうよね、お花を無断で頂戴してるんだから、お花ドロボウよね)

 人の姿に戻ったイーヴィーは、持参した小瓶にカラハナソウの花を集めながら、少々、良心の呵責をおぼえた。

 けれど、こうするしかなかった。麦酒(ビール)の苦みのもとになるホップもカラハナソウの仲間だから、園芸店で頼めば苗は簡単に買える。しかしそれでは、花期が終わってしまう。カラハナソウは、九月の上旬くらいまでしか花を咲かせないのだ。

 花は二十ほども採れば十分だ。

「ごめんなさい。来年からは自家栽培しますから……」

 ちょうど満開のカラハナソウは花房だらけなので、少々失敬したくらいでは、ここの園丁(ガーデナー)は気づかないだろう。

(次は、壁と反対側に二列進んだ右手の茂みね)

 足元がおぼつかない中、なかば手さぐりで回れ右して進み、目当ての植物の前まで移動すると、深呼吸して精神統一する。薬の調合は、次の作業が成功しないと不可能だからだ。

 別の広口の瓶を取り出すと、栓を外して、月明かりに薄青く浮かぶ葉に近づける。

(どうかできますように……!)

 緊張に震える指先でトントン、と楕円形の葉を小さくつつくと、燐光を放つウロコのような破片が葉からはがれて、パラパラと乾いた音を立てて瓶の中に落ちた。

(やったわ! ほんとにできた!)

 子守唄(ララバイ)の材料は、ラベンダーとカモミールの花を乾燥させたものがたっぷりに、カラハナソウの花と、オトギリソウの葉に落ちる月光をそれぞれ一つまみ。採取の仕方は先ほどの通りだが、実際にやってみるまで、本当にできるか半信半疑だった。

 自信がついたので、続けてもっと集めようとしたら、ふいにざざあーっと冷たい風が吹いて、あたりは一遍に闇に包まれた。

「えっ、そんなぁ!」

 見上げれば、月は分厚い雲の陰に隠れてしまっている。雲の切れ目も見えないから、すぐに顔を出してくれるとは思えない。

「今日は帰るしかないかしら……」

 できればもう少し月の光を採取しておきたかったけれど、時刻は午前三時をとうに回っている。うかうかと待っていたら、朝が来てしまうかもしれない。

(足りなくなったら、また取りに来ればいいか)

 オトギリソウは間違って食べると毒にもなる植物だから、ここみたいな薬草園でしかお目にかかれない。けれど幸い、チェルシー薬草園(フィジック・ガーデン)は家から目と鼻の先だ。

 小さくため息をつくと、イーヴィーは黒猫姿に戻るべく、その場で回り始めた。


読んでいただきありがとうございます。

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