2-12
アーサー視点です。
夕刻、中国庭園を訪れたアーサーは、眺望を楽しむように東屋の朱塗りの欄干にちょこんと乗っかっている黒猫の姿を発見した。しばらくの間、階段の陰からそのほっそりとした後ろ姿を楽しんだ。
と、パシャン、と水面を叩いて水鳥が一羽、飛び立ち、その軌跡を追って振り向いた彼女と目が合った。
「ミス・パクストン」
イーヴィー、と呼びたいのを我慢して、そっと声をかける。
それまで、ぱたーん、ぱたん、と左右に大きく振れていた尻尾の動きがぴたりと止まった。その面に浮かんだ表情は、「しまった、見つかっちゃった」と言っているとしか思えないものだった。
はさはさはさ、と水鳥の羽音がまだ続いている。
「――ミス・パクストンですね」
なぜかアーサーには確信があった。黒猫の瞳が、スミレの花色をうつしたような紫だったからかもしれない。
すると「にゃあ」と黒猫は小さく鳴いて、さらにその返答を強調するように、こくり、とうなずいた。猫がうなずくところなど見たこともない。人間臭い仕草に、知らず口元がゆるむ。
「もしや、猫姿の時には話せないのですか?」
またも、こくり。
「お時間があるのでしたら、お茶に付き合ってもらえませんか?」
今度は、迷っているように首を傾げられた。
「ここの景色がお気に召しているのでしたら、こちらにお茶を運ばせますから」
しばらく置いてから、小さな黒い頭がためらいがちに縦に振られた。
その時アーサーは、彼女の大きな瞳の瞳孔が、猫にしてはやけに丸いことに気づいた。ひょっとしたら彼女は、夜目の利かない猫なのかもしれない。
(それなら、あまり引きとめたらいけないな)
暗くなったら一人で帰すつもりなどないが、送り届けて先日のような騒ぎになったら、彼女が気まずいだろう。
「それではすぐに支度をさせますから、少しだけ待っていてください」
身をひるがえすと、アーサーは足早に母屋への道をたどった。
アーサーが東屋に戻ると、人の姿に変わったイーヴィーは、欄干に寄りかかって、先ほどと同じように目の前に広がる蓮池の眺めを楽しんでいた。薄紅色の外出着に包まれた華奢な背中は、不思議と先ほどと同じ印象を与える。傍らの椅子には、服と同じ色の帽子が置かれている。
「この池には魚もいるんですか?」
「いますよ。コイとフナと、それから父の手元から逃げ出したカメが一匹」
くすり、と笑った気配に合わせて、細い肩が小さく揺れた。
蓮の花が浮く水面には、さざ波一つない。ヒレの生えた住人たちは午睡の時刻だろうか。
彼女が振り返った気配に視線を戻すと、「この姿に戻って大丈夫でした?」とやけに心配そうにたずねられた。
「もちろんですよ。むしろその姿の方が、あなたにとって安全でしょうね」
彼の言葉に、イーヴィーは怪訝そうに眉根を寄せた。
「それはどういうことですか、ベリオル卿?」
(今日はアーサーと呼んでくれないのか……)
詰められたと思った距離がまた開いていることに軽く落胆を覚える。返答に人の悪いからかいを織り交ぜてしまったのは、そのせいだということにした。
「猫姿のあなたを見ていると、抱き上げて愛でたくなって大変なんです」
本当は「猫舌でお茶を飲んでやけどしたら大変でしょう?」と当たり障りなく答えるつもりだったのに。
「なっ!」
「安心して下さい。人姿のあなたには、きちんと自制心が働きますから」
「もう! からかわないで下さい……」
そのまま彼女はうつむいて黙り込んでしまったので、アーサーは口を開いた。
「この庭はね、僕の父から母に宛てた恋文なんですよ」
興味を惹かれたのか、イーヴィーは面を上げた。
「母は船旅が苦手でね、体もあまり丈夫な方じゃないので、父が収集だ調査だと中国に出かける時は、いつも留守番をしていました。父は不器用なたちで、母に寂しい思いをさせていることをいつも気にしていたのに、なかなか表に出すことができなくて――」
話しながら、なぜこんな話をしているのだろう、と自分でも思う昔話だった。
「けれど、十回目の結婚記念日を迎える年に、父は母に内緒でこの庭を作って、彼女をここに連れてくると、『一緒に見たかった風景だよ』と言ったそうです。僕はまだ小さくて、その場にはいなかったから、母から後で聞かされたことですが」
「……ベリオル卿は、お父さまみたいに中国に行かれたりはしないの?」
「なぜかあまり心惹かれませんでした。父があれだけ傾倒した後では、僕の出る幕はないかなと」
「それじゃ、イタリアにはよく行かれるのですか?」
「よく、というほどではないですね。大陸巡遊旅行から戻ってからは、まだ一度しか行ってませんから。――意外ですか?」
こちらをじっと見る目が丸くなっている。
「ええ。てっきりお父さまみたいに、しょっちゅう留守になさってるのかと」
「行ってみたいですか?」
「え?」
「イタリアに。もちろん、他の場所でもいいですが、遠い空の下の国に」
「ええ、行ってみたいわ」
「どこがいいですか?」
「……やっぱり、イタリアがいいわ。一度自分の目で見てみたいの。アルプスを越えたら空の色が深くなるって、あなたが話してくれたでしょう?」
なにげなく口にしただけの言葉をおぼえていてくれたことに、不思議と心を揺らされた。
「連れて行ってあげましょう」
「え? 今何て?」
「なんでもありません。お茶がきましたね」
唇からすべり出た不用意な言葉は、まだ彼女に言うには早すぎるものだったので、ティーセットを持った執事が東屋の階段を上ってきたのにかこつけて、アーサーははぐらかした。
「ああ、彼には、あなたはこの庭に迷い込んだ蓮の花の精ということにしてありますから。――そうだね、ギブソン?」
彼女がちらりと心配そうに執事の顔をうかがったので、冗談めかして保証した。先日に引き続き前触れもなく現れた来訪者を、使用人がどう思うか案じているのだろう。
ギブソンは余計なことは決して口外しない。だから彼にお茶を運ばせた。
「左様でございます、旦那さま」
言葉少なに答えると、執事は手早くテーブルの上を整えて静かにその場を去った。
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