2-8
お花を摘みに行ったイーヴィーが、会場に戻ろうとしたところ、背後から気位の高そうな声がかかった。
「ミス・イヴリン・パクストン、ちょっとよろしいかしら?」
(げっ)
振り向いた瞬間、イーヴィーはヘビでも見かけたように身をすくませた。
社交界のいじめっ子、リンジー・マクハーストだ。
(しまった! 今日、来てたんだ……)
マダム・ウィロウの夜会は、それこそ身分を問わずに様々な人たちが招待される、肩肘張らないものだ。だからイーヴィーも気安くお招きに応じたのだけれど、マダムがリンジーの父親のダナビー伯爵とも親交があることをすっかり忘れていた。
(なんて不運……)
反射的に腰が引けそうになるのを、ネリーの泣き顔を思い出してぐっと踏みとどまる。
リンジーは裕福な伯爵家のお姫さまで、ツンとした感じの金髪美人――なのはいい。正直かなりうらやましいけれど。取り巻き兼引き立て役の女の子たちをゾロゾロと連れ歩く女王サマな性格も、ご本人と腰巾着がそれで幸せなら、まあ好きにすればいいと思う。
問題は彼女が、気に食わない相手を、陰険なアノ手コノ手を使って徹底的にいじめ倒す、ひねくれ曲がった根性の持ち主だということだ。
リンジーの介入がなければ、ネリーの恋はもう少し明るい道のりをたどったかもしれない。そう思うとイーヴィーは、目の前のクリスマスツリーみたいに着飾った姿を張り倒したくなる。
六月のウッドハースト家の園遊会で、ネリーはサー・ウィリアム・キングスリーが落としたカフスボタンをたまたま拾った。それがきっかけで彼と親しくなったネリーは、彼に立て続けに三度、舞踏会でダンスに誘われた。
前からあこがれていた彼に優しくされて、ネリーの人生はそれこそ薔薇色一色に染まったのだけれど、そんな親友のささやかな幸せが女王サマの逆鱗に触れたのだ。
愛想が良くハンサムなサー・ウィリアムは、社交界でも人気のある独身男性の一人だ。ではリンジーが彼に恋しているかというと、そうではない。ただ彼が、リンジーから三歩と離れていない場所でネリーにダンスを申し込んだことが、彼女の虚栄心をいたく刺激したのだ。
それで彼女は、とんでもなく底意地の悪い噂を流した。ある日の若い女性ばかりのお茶会の席で、リンジーは『ここだけのお話ですが、わたくし、びっくりな噂を聞きましたのよ』と、切り出したそうだ。その場にいたチャーチ家のアナベルから聞いた話なので間違いはない。
「皆さまご存じ? ミス・ネリー・エルマーは、サー・ウィリアムに恋焦がれてらっしゃるそうよ」
スモークサーモンのサンドイッチをあらかた食べ終えた少女たちは、季節のベリーが乗せられたプチフールにのばしかけた手を止めて、一斉に彼女を振り返った。たいがいの女の子は、ラズベリーのタルトと同じくらい、恋にまつわるゴシップに目がない。
「まあ、お可愛らしいじゃない?」
「それがちょっと困ったことをなさってるのよ」
「一体何をなさったの?」
「わたくしの口からは、とても申し上げられないわ……」
うっかり口が滑ってしまった、という困惑顔で口ごもれば、聴衆の好奇心はいやおうなく高まる。予想通り「そこまでおっしゃっておいて、言わないなんて反則ですわ」「ええ、お聞かせくださらないと!」「誰にも言いませんことよ」とせっつかれると、リンジーは「ここだけのお話ですわよ」と断って、先ほどの逡巡が嘘のようにあっさりと話を続けた。
「ほら、引っ込み思案で大人しい方って、思いつめるとわたくしたちには予想もつかないことをなさる場合があるでしょう? ミス・エルマーはあの通りのおしとやかな方ですから、ご自分はサー・ウィリアムの奥様になられるって思い込まれて、それをご家族やお友だちに吹聴なさっているそうよ」
「まあ、本当ですの?」
「ええ。おまけにわたくし、さらにとんでもないことをうかがいましたの。サー・ウィリアムのお屋敷のメイドを買収して、彼の使い古しのシャツやリネンを手に入れられて、それをハンカチや――」
ここでリンジーは、わざとらしく声をひそめた。
「――下着に作り変えて身につけてらっしゃるそうよ。それも、サー・ウィリアムの匂いが残っているからって、メイドにお洗濯を厳禁なさって!」
「まあ! まさかそんな……」
その場には、さすがに困惑顔で疑いを差し挟む娘もいた。けれどリンジーは、もっともらしいディーティールを付け加えて、そんな彼女たちの疑念を封じた。
「これは本当の事ですのよ。わたくしの小間使いのベッキーは、ミス・エルマーのお家のメイドの一人と従姉妹同士ですの。ほら、ミス・エルマーはお裁縫が苦手でらっしゃるじゃない? 実際に縫い仕事をさせられたのがその従姉妹のメイドで、ベッキーは彼女からこのことを聞かされたんですのよ」
ネリーがお裁縫が大の苦手なのも、リンジーの小間使いに、親友の家で働いている従姉妹がいることも本当だ。一割の本当を混ぜ込むことで、根も葉もない中傷もぐっと真実味を帯びる。女の嘘の常套手段だと分かっていても、だまされてしまうことが多いのも悲しい現実だ。
おしゃべり盛りの若い女の子たちの『ここだけのお話』がそこだけでとどまるはずもなく、そのお茶会から数日後には、ネリーの『片想い』の話はロンドン社交界のすみずみまで広まっていた。
イーヴィーを含めたネリーの友人や家族は、ゴシップの火を消そうとがんばったのだけれど、噂の足の方がはるかに速かった。
その日を境に、夜会でネリーにダンスを申し込む男性の数はガクンと減ってしまった。
そしてイーヴィーがくやしくてたまらないのは、サー・ウィリアムがその噂を真に受けてしまったことだ。ソールズベリ家の音楽会でネリーに挨拶されたサー・ウィリアムは、まるで汚い野良犬でも見るような目で彼女を一瞥すると、露骨に顔をそむけたのだ。
(レディ・リンジー、今度は何をたくらんでるの?)
星屑林檎のおかげで元気を取り戻したとはいえ、今でもネリーは、『ウィリアム』という名を聞くだけで、足の甲に針を突き立てられたような痛々しい顔を見せる。
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