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「これ……ですか……?」
意外そうに目を見開くと、彼は「失礼」と断ってから本を手に取った。慎重な手つきで何度かページをめくると、困惑したように眉根を寄せる。
「僕の目には、これは宗教説話集に見えますが……」
「えっ?」
アーサーの伏せられた長い睫毛に見とれていたイーヴィーは、驚いて腰を浮かせた。彼の背後に回ってのぞきこむと、ちょうど星屑の作り方がのっているページだった。
「ミス・パクストン、あなたには何が書いてあるように見えるんですか?」
「今は、星屑の作り方、です。ほらここに菊の夜露の集め方が書いてあって、こっちにはミントとローズマリーのシロップの作り方が説明してあります」
(どういうこと?)
不安で及び腰になりながら、彼の肩越しに記述のある箇所を順に指さしてゆく。
「そうですか……」とつぶやいたきり、アーサーは黙り込んでいる。
「……あの、あなたの目には、どう見えるんですか? ベリオル卿」
「アーサーと呼んでほしいな」とまた繰り返しながら、彼は紙面に目を走らせた。
「聖ジョージの奇跡譚が書いてありますね。表題ページには出版年や出版地は記載されていないけれど、紙の質、活字のスタイルと紙面のレイアウトから判断して、十七世紀末頃にアイルランドで出版されたものかな」
玄人らしい分析をしてみせる。
「これ、百年以上前の本なのっ? でもわたし、普通に読めましたよ」
思わずアーサーの肩をつかんで聞きなおしてしまった。綴りにも言い回しにも古めかしいところはなかったから、そんなに古いとは思いもしなかった。
(それじゃ、ブタ氏も百歳を超えているの?)
とんだ年寄りの古ブタだ。
「その時代には、英語の文法と綴りは今とほぼ同じものになっていますからね、読んでいてそれほど違和感は感じないと思いますよ」
「それじゃ、表紙は? わたしには、『レシピ』って書いてある茶色い布カバーだわ」
「僕には、だいぶん色が褪せた青い麻布のくるみ製本に、ローマン体の金字で表題が印刷されているように見えます。普及版の宗教書によくある装丁ですね」
人によって全く違う本に見えるなんて、どういう理屈なんだろう、と考え込んでいると、少し残念そうな口調が耳元で響いた。
「となると、この本自体に何か魔法がかかっていると考えるべきでしょうね。魔術に関わりのない人間に、この本の中身をうっかり知られないように」
「わたしの作り事だとは考えないんですか?」
灰色の瞳をのぞきこみながらたずねると、アーサーは笑いながらかぶりを振った。
「黒猫がチャーミングなレディに姿を変えるところを自分の目で見ましたからね、信じないわけにはゆきません」
先日の穏やかな対応の時も思ったけれど、彼はとても柔軟で切り替えの早い思考の持ち主だ。そして、わざとか無意識かしらないけれど、言葉に時々、一匙ほど余計にお砂糖がまぶす性分のようだ。
(チャーミング、って……)
お世辞よね、と片づけて聞き流すことにする。
「僕には読めないということは、僕には魔術を使うことはできないんでしょうね。残念」
パタ、と軽い音を立てて閉じると、アーサーは本をイーヴィーの手にあっさり返した。
彼は健全な好奇心の持ち主だけれど、詮索好きというわけではないらしい。そんな分析を咀嚼していると、ふい、とアーサーが彼女を振り仰いだ。
「時にミス・パクストン」
「はい、なんでしょう?」
笑みを消した彼の表情にどきりとする。なんてハンサムなの、この人。
「魔術もわからない平凡な僕ですが、今後親しくしてはいただけませんか?」
「えっ」
意表を突く申し出に、何をおっしゃるんですか、と突っ込みそうになった。『平凡』は、アーサーではなく、自分を形容するための言葉だ。
「だめですか?」
そうたずねる彼は何だか悲しそうだ。
「まっ、まさか! やっ、その、『親しく』だなんて、わたしの方こそおこがましいって思っただけで……。――はい、こちらこそ、その、喜んで……」
ばたばたと、むやみと手を振り回しながら、格好のつかない返答を絞り出す。
「ありがとう、ミス・パクストン」
やわらかく微笑むと、彼は宙にとどまったままだったイーヴィーの右手を取って、優雅な仕草で甲に軽く口づけた。
(わあ……、王子さま……)
彼が顔を伏せた拍子に、さらり、と栗色の髪が額に落ちて、端正な面立ちを柔らかな陰影で彩る。
うっとりと桃色の吐息を吐きそうになったイーヴィーは、はっと我に返って両目を強くしばたいた。本当は両手で思いっきり自分の頬をつねりたい気分だけれど、あいにく右手はアーサーの手の中だし、左手にはレシピを持っている。
暴走する蒸気機関車みたいに、彼女の心臓と妄想は、先ほどから勝手し放題だ。
(やだもう! 家出しないで、平常心! 帰ってきてちょうだいーっ)
何より、この親密そうな態勢がいけない。背後からアーサーにかぶさるようになっていたのを、唐突に取りやめて自分の席に戻ると、残念そうな笑顔が追いかけてきた。
(いけません、イヴリン・パクストン。夢は布団の中で目を閉じて見るものですよ)
母親の口ぶりをまねて言い聞かせても無駄だった。つい余計なことを考えてしまうのは、自分を映す灰色の瞳が魅力的すぎるからだ。
彼は魔法が使えない? いえいえとんでもない。これは立派な魔法ですとも。
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