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「愛らしいドレスですね。あなたの髪と瞳の色にとても良く合っている」
「そ、そうですか? ありがとうございます、ベリオル卿」
はにかみながら、イーヴィーは自分の姿を見下ろした。ネリーと二時間以上を費やして、厳選に厳選を重ねた装いは、忘れな草のような薄藍のアフタヌーン・ドレス。
『わたしを忘れないで憶えていてくださいね、というお願いを込めたドレスよ』
とはネリーの言葉だ。
イーヴィーとしては、アーサーには忘却の河に流してほしいことだらけだけれど、華やかすぎない色合いは変に力まずに着られるのがいい。ドレスの襟や袖口にあしらわれたクリーム色のレースは、マーガレットをかたどったもの。華麗な薔薇じゃなくて素朴な野の花なところが、自分らしさを表している、とイーヴィーは思う。
アーサーも先日とは違って、きちんと身なりを整えている。前回の、少しくだけたスタイルも魅力的だったけれど、こうして昼の正装に身を包んだ彼は、育ちの良さが引き立って、なんと言うか、とても優美だ。
そう、この小サロンを飾る美術品のように。
「ここにあるのは、僕の個人的な趣味で集めたものです。だからちぐはぐでしょう?」
彼女の視線に気づいたアーサーは、少し照れくさそうに笑って言った。
それでやっと気がついたけれど、白大理石製のマントルピースの上に飾られている白鳥と乙女の絵は、ギリシャ神話を題材にしたものなのに、その隣の壁には、ノアの箱舟らしきものを描いた、これはどう見ても宗教画が一枚。別の一画には、牧歌的な田園風景を描いた風景画が数枚。庭を望むフランス窓の横の壁にうがたれた壁龕には、イルカを抱えたキューピッドの小さな大理石像。
たしかにテーマも流派もバラバラだけれど――。
「でも、しっくりとくるわ」
雰囲気というか、作品のまとう空気感が、パズルのピースのように、ぴたりと合っている。明るい青空の下で歌う歌のような、ためらいのない調和。
「どの作品も裏表がなくて、朗らかな気分になるもの」
瑠璃色の空に抱かれた国だという、イタリア。万年雪に覆われたアルプスを越えたら、こんな晴れやかな気分になるのかな、と思いながら答えた。
「ありがとう。そうやって楽しんでもらえるなら、僕もうれしいですよ」
本当に嬉しそうにお礼を言われたから、かえって情けなくなった。両手で持ったティーカップにしょぼんと目を落とす。
「――ごめんなさい、教養がなくって」
「え?」
お茶に添えられた一口大のフェアリー・ケーキは、お砂糖で出来た色とりどりの薔薇が載せられているのがうっとりするくらい可愛い上に、スポンジにしみ込ませてあるラズベリーのシロップが隠し味になっていて、いくらでも食べてしまえる。
ここのお菓子のお味と同じくらい、美術品の価値も理解できれば、と思うと切ない。
「だって、本当はここに飾ってある絵や彫刻って、とっても美術的な価値の高いものなんでしょう? わたしみたいに何も分からない人間に見られるなんて、作品も気の毒よ……」
「何をおっしゃるかと思えば……」
返ってきた声は少し笑っていた。
「作者の名前や制作年代をきかずに作品を見て下さった方は、あなたが初めてですよ」
さりげないフォローは、きっと上手な社交辞令だ。それでもちょっとだけ救われた気分になれて、アーサーに質問を向けてみる勇気が出た。
「ベリオル卿も大陸巡遊旅行でイタリアにいらしたんですよね? どんなところなんですか? やっぱりレモンの花が咲き乱れて、オレンジが枝いっぱいに実を結ぶ国ですか?」
イーヴィーのイタリアのイメージは、女家庭教師のミス・グリナウェイに昔暗記させられた詩の受け売りだ。肝心の詩も作者の名前もきれいさっぱり忘れてしまったけれど、レモンの花が香り、金色のオレンジがたわわに実る葉影を、抜けるように青い空から吹く風が抜けてゆく――という冒頭の鮮やかな印象だけは今でも忘れていない。
貴族の子弟なら、教育の一環として必ず経験するという大陸巡遊旅行。その終着点、かつハイライトなのが、その美しい地、イタリアなのだ。
「ベリオル卿じゃなくて、アーサーと呼んでほしいな」
「えっ?」
さらっとそんな思わせぶりな前置きをしてイーヴィーを面食らわせると、アーサーは彼の旅行体験を色々と話してくれた。
彼はとても話上手だった。旅行中に美術品収集に目覚めたのはいいけれど、掘り出し物探しに熱を上げるあまり、怪しげな市場に足を踏み入れ、あやうく彼自身が『商品』にされそうになったこと。旅行に同行した心配症の家庭教師が、教え子の無茶のせいで帰国する頃にはすっかり頭が禿げてしまったこと。
そんな面白おかしいエピソードだけでなく、アルプスを越えて初めて目にした瑠璃色の空や、枝の間を渡る風にオリーブの木立がのぞかせる、葉裏の銀色の輝き――旅先で彼の目を打った、何気ない風景の印象も、彼は過不足のない、穏やかな語り口で描いてみせた。
「いいなあ。わたしが行ったことがあるのって、バースとイーストボーンくらいですよ」
話が一段落すると、イーヴィーは羨望のため息をもらした。バースの鉱泉もイーストボーンの白い砂浜も、それはとても魅力的だったけれど、まだ見ぬ異国には太刀打ちできない引力がある。
「それでもあなたには、普通の人間には見ることのできない世界が開かれている。そうじゃないですか?」
「それはまあ、そうですけど……、ただのありふれた黒猫の世界ですよ?」
せめてペルシャ猫かシャム猫みたいな、希少価値のある品種に化けられたらよかった。
「過小評価をしてはいけませんね。そのまま飼ってしまいたくなるくらい可愛かったのに」
(うっ!)
彼のひざに乗っかって、「ごろにゃーん」と甘えている自分の姿が、唐突に脳裏に浮かんで、イーヴィーは鼻血を吹きそうになった。
(は、はなしを、変えよう……)
刺激の強い想像は健康に悪い。
「そっ、そう! この前お話しした『レシピ』、今日持って来たんです」
平常心、平常心、とお題目のように心の中で唱えながら、イーヴィーは花模様を織り出したゴブラン織りのバッグから本を取り出す。
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