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1. レシピとマタタビ


星屑林檎(スターダストアップル)(悲しい心に)

【一】林檎の芯を、ぺティナイフなどを使って取りのぞく。くり抜く時、底が抜けないように注意すること。

【二】林檎の空洞に星屑(スターダスト)(三十七ページの作り方参照)を隙間ができないようにぎっしりと詰め、カルヴァドスやシードルなどの林檎酒を小さじ一杯かける。さらにその上から砂糖(できればザラメのような粒子の粗い砂糖)を大さじ一杯半ふりかける。星屑の詰め方が甘いと焼き上がりの食感がカスカスになるので、小さいスプーンなどを使って少量ずつ詰めてゆくと良い。

【三】天板に林檎を並べ、中火のオーブンの中段で、砂糖がアメ色に焦げるまで焼く。

【四】焼き上がったら熱いうちに、カスタード・ソースを添えて出す』


(なんだか美味(おい)しそう……)

 そういえば、もうじき午後のお茶(アフタヌーンティー)の時間だ。

 何気なく開いたページのレシピが目に入ったせいで、蚤の市めぐりに夢中で忘れていた空腹感が復活して、イーヴィーのお腹は、きゅうぅ、とお行儀の悪い音を立てた。

(やだ!)

 もう十七歳になるというのに、これではレディ失格だ。お昼ごはんだって、ちゃんとデザートのプディングまで食べてから家を出てきたのに。

 あわてて周囲を見回すが、向こうで折りたたみ椅子に腰かけている、露店の店主らしき老人は、パイプをくわえたまま推理小説に没頭しているし、イーヴィーの背後をひっきりなしに通り過ぎてゆく人の流れも、青いボンネットの少女のささやかな粗相に(とどこお)った気配はない。

 ほっと安堵の息をつくと、イーヴィーはスミレ色の瞳を店主に向けた。新品の銅貨と同じ色の髪に縁取られた小さな顔は、愛らしさとあどけなさと気の強さを足して、三で割ったような印象だ。

 ちょっとめずらしい色味の髪と瞳は自分でも嫌いじゃなかったけれど、年頃の娘相応の色香が備わってくれれば、と鏡を見るたびに思ってしまうことは、親友のネリーと彼女だけの秘密だ。

「ミスター、このご本はおいくら?」

 自分で料理することはほとんどないイーヴィーだけれど、焼き林檎のレシピに『悲しい心に』などと書き添えてあるのが、秘密めいていて心惹かれた。簡単な手順なのに丁寧に作り方が説明されていることにも、料理の手作業への愛を感じる。

 だから買ってみることにした。メイド頭(ハウスキーパー)のマーサには苦い顔をされるかもしれないけれど、焼き林檎くらい、自分で作ってみたっていいじゃない?

 ネリーはひどい失恋をしたばっかりだし。

「その箱の中のは五冊で二ペンスだよ」

(あら安い!)

 パイプの老人は、本から目も上げずに答えた。話した拍子に、白い髭に囲まれた口から、ぱふ、と煙がもれて、夕闇の()りはじめた空気に、きれいな輪っかを作って消えた。

「こちらのご本だけでいいんですけど――」

 一ペンスにまけてもらえませんか、と続けようとしたら、ちらりとこっちを見た店主は、気のない様子で応じた。

「その辺から何か適当に選んでくれや」

 一冊だけでも二ペンス、と言われると思っていたイーヴィーは、何とも大らかな返事に拍子抜けした。商売っ気のないおじいさんだ。

(大丈夫なのかしら、この人……)

 場所が場所だけに、他人事ながら彼の台所事情が心配になる。

 ここはヴィクトリア女王陛下が治める大英帝国(グレート・ブリテン)の都――ロンドンと言えば、世界中から最新の技術と知識が集まる大都会(メトロポリス)だけれど、その南はバーマンジーで開かれる蚤の市は、もちろん古いものばかりが集まる場所だ。

 底の抜けたヤカンや欠けたお茶碗みたいなガラクタに混じって、サザビーズやクリスティーズでオークションにかけたら、軍艦が買えそうな値がつくような、正真正銘の古美術品がひょっこり潜んでいることもある。

 なにせ、ここで日の出から日没の間に売り買いされた品物には、中世から連綿と続く開放市場(マーケットオヴァート)の法令が適用されるから、来歴とは無関係に購入者の所有権が保証される。

 平たく言えば、ここで買ったものが盗品だったと後で判明しても、元の持ち主に返さなくていいのだ。

 そんなうろんな『掘り出し物』目当てに専門の買い付け人も出没するからか、ロンドンの他の蚤の市と違って、バーマンジーでは売る側も百戦錬磨の玄人が多い。

 だから、よく言えばプロ意識が強い、悪く言えば欲の権化のような出店者が多いというのに、この白髪のご老人には、お客より密室殺人事件の犯人の方が重要らしい。

 今日は蚤の市めぐりをするから、と手持ちの中では一番地味で古い、茶色のドレスを着てきたけれど、生地や仕立てを見れば、イーヴィーが何不自由ない暮らしをしているお嬢さん、つまり上等のカモだとわかりそうなものを。

 ひとしきり木箱を物色してから、彼女はためらいがちに声を上げた。

「えーっと、その、他のご本はわたしの趣味とは、少し、方向性がちがうんですけど……」

 木箱の中に並んでいたのは、チェスの指南書や三十年前のジンバブエの地図、ギリシャ語で書かれたパンフレットに、カミツキガメの飼育書やハーモニカの楽譜などなど。

 どれもイーヴィーには用のないものだし、かといって本棚の肥やしにするためだけに持ち帰るのもしのびない。世界は広いから、中にはカミツキガメの飼育書を喉から手が出るほど欲しがっている人だっているかもしれない。

「それじゃこれでも持ってっとくれ」

 どっこい、しょ、と店主は大儀そうに立ち上がると、木箱の横に置いてあったブタの貯金箱を手に取って彼女に持たせた。

 手のひらに乗るサイズのピンク色の陶器の子ブタは、口に四つ葉のクローバーをくわえて上機嫌に笑っている。

(うん、ちょっと可愛いかも……)

 小銭貯金をするような年頃はもう卒業したけれど、子ブタも四つ葉のクローバーも、幸運を運んで来てくれる縁起の良い(ラッキー)アイテムだ。

「いいわ、それじゃこのブタさんをいただいていくわ」

「まいどあり」

 ちゃりん、と二ペンス銅貨を銭箱に投げ込むのもそこそこに、老人は再び椅子に沈み込むと読書を再開した。


 家に帰ってから、イーヴィーはその不思議に気がついた。

 とりあえず暖炉のマントルピースに飾ろうと、バッグから取り出した時に分かったことだが、ブタの貯金箱にはすでにコインが入っていた。手に取って揺らすと、ちゃらんちゃらんと硬貨がぶつかり合う音がするのでそれは確かだ。

 問題は、その小銭がどうやってブタのお腹に入ったかだ。貯金箱には、本来背中にあるべき硬貨の投入口も、貯まったお金を取り出す穴もついていなかった。

「まさか、ブタが自分から口を開けてコインを飲み込んだわけじゃないわよね?」

 イーヴィーは首をひねって疑問を口にしたが、彼女がその答えを手にするまでには、今しばらくの時間がかかることになる。


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