望みしは(三十と一夜の短篇第53回)
いつも夢見ていた。美しい調度品に囲まれ、花々で部屋を飾り、香りの良い紅茶を伴に、詩の朗読や音楽、お芝居を心から味わう。肌触りの滑らかな衣服を纏い、凝った細工の宝玉で身を飾り、鏡の中の姿に満足する。
華やかな場所に赴けば、声を掛け、手を取り、舞踏に誘ってくれるのは、優雅で高貴で、教養溢れる美青年。
マグダレナは亜麻色の髪に青い目をした美しい少女だ。リンデンバウム伯爵家の三女で、当主夫妻に溺愛されている。年頃に相応しい甘く、軽やかな将来を胸に抱いている。高望みはするなと注意するのが躊躇われるほど、マグダレナの容姿は優れ、声も小鳥が歌うようだ。
少女は夢と現の境無く、屈託ない日々を過していた。歳の離れた長姉に侯爵家の当主との縁談が出たばかりで、結婚はまだ遠い、それでいていつか迎えられるであろう憧れだった。
――黒い髪をしたエレオノールお姉様が二十代半ばになって侯爵家にお輿入れするのだから、きっとわたくしは二十歳くらいになったら伯爵家以上の家柄の貴公子から妻にと望まれるに違いないわ。
マグダレナは単純にそう思い込んでいた。
ところが姉の結婚式が済んでもいないうちに、マグダレナに縁談が舞い込んできた。一体どんな素敵な男性が自分を見初めたのだろうと、胸が躍った。呼び出した娘に父は告げた。
「おまえも見知っているだろう? 紡績に携わっている商会の持ち主でこの屋敷にも出入りしているオットー・フォン・アレティンが是非おまえを妻にと申し込んできた」
父は何の問題もない、よい縁組だと言外に告げている。母は黙って娘を見詰めている。マグダレナは足元が崩れていく気分だった。
アレティンの顔は確かに見知っている。しかし、かれがマグダレナに結婚を望むなど有り得ない。
「アレティンは商人ではございませんか!」
「いや、アレティンは父親の代に戦功で騎士の位を賜った。下位とはいえ貴族だ」
「わたくしはまだ十五です。アレティンは四十近いのではございませんの」
「いや、三十と七とだったかな。四十になっていない。充分にまだ若い」
「お父様はアレティンが当家の婿に、わたくしの夫に相応しいとお考えなのですの?」
父は肯いた。
「勿論だ。おまえと結婚できるのなら、今後我が家を支えてくれると約束してくれた。エレオノールの嫁入り支度や数々の物入りで手元不如意なのも全て面倒を見てくれる。我が家にとってもおまえにとっても得なことばかりだ」
父が何を言っているのか理解できなかった。いや理解したくなかった。
「マグダレナ、急なお話で驚いたでしょうが、縁談とは家と家との契約です。あなた一人で決めるものではありません」
母は父と同意見だと、マグダレナは落胆した。
兄のベルンハルトと次姉のフェリシアが両親に抗議してくれたが、聞き流された。長姉のエレオノールは微塵も感情の揺れを見せなかった。
「あなたは是非にと先方に望まれたのよ。幸運に思いなさい。
アイゼンハルト侯爵家とでは結婚に際して取り交わす条件が厳しくてお父様がご苦労なさっているけれど、アレティン家はあなたの持参金は一切必要ないし、生活に不自由はさせないと約束すると言っているそうじゃないの。
それもこれもお父様が代々の資産を減らし、お母様の財産も使ってしまって、わたくしたちの婚資の工面を難しくしてしまったから。
マグダレナ、あなたはわたくしの縁談を止めろと言い切ってくれるのかしら? フェリシアと一緒に三人、尼になるか老嬢として一生独身で暮らすか、その覚悟があるのかしら?」
フェリシアは病勝ちの身で、誰とも縁付かないだろうと家族から思われている。寝室と書斎を往復するだけの日々を過し、時に青白く浮腫んだ顔を見せる次姉。そんな姉と、この屋敷で虜囚のように暮らす未来は考えたくない。
「あなたはわたくしだけが恵まれていると思っているの?」
「だってエレオノールは侯爵夫人になれるのでしょう?」
顔立ちこそマグダレナとよく似ているが、黒髪に灰色の目のエレオノールは華やかさより落ち着きを感じさせる。
「あなたはお父様とお母様からいつも気に掛けてもらっていたでしょう。わたくしたち上の三人が屋敷に置いてきぼりにされても、お父様のお芝居見物のお供をしてきました。お出掛けをすれば、欲しいものをねだって手に入れてきました。
世間で親は末っ子を可愛がるというらしいけど、本当にその通り。普通扶育係に任せられる貴族の子女なのに、あなたはお父様とお母様の膝の上を独占してきています。あなたは今までわたくしたち以上に恵まれてきています。
自儘にならぬのを、わたくしの所為にしないで欲しいわ。
わたくしがこの縁談でうれしいのは一つだけ、この屋敷を出ていけることです」
マグダレナは悄然として長姉から引き下がった。
兄は父と言い争い、遂に家を出ていくと宣言した。友人や親戚、どこか滞在できる別宅などの当てがあるのかと思いきや、自ら働いて稼ぐと言っている。
「金の無心をしてのらくら暮らすのは父と同じだ」
マグダレナには失望と不安しかない。
「自分の人生だ。マグダレナは結婚が嫌なら、別の生き方を選ばなければならない。その気があるなら一緒に行こう」
兄から言われても、別の生き方を想像できない。働くと言ってもピンと来ない。身の回りにいる侍女のように人の世話をしたり、教師になって芸事や物事を系統立てて教えたり、軽んじられるのではないかと恐ろしく、そんなことはしたくない。そもそも男性と違って女性が働く場が少ない時代だ。世間を知らない貴族の娘は考えが及ばない。
「座して運命を待っていたら、運命から与えられた事柄に抗議できない。嫌ならば勇気ある行動が大切だ」
兄にとって正論なのだろうが、マグダレナには正論ではなかった。イングランドやスペインで女性が君主の座に就いたと言われても、それは血筋と法の定めるところで、踏み越えていく努力と関りがない。イングランドのヴィクトリア女王は十八、九歳、スペインのイザベル2世はまだ乳歯が残っている幼さだ。月と星では元から大きさも輝きも違っている。
愚図愚図と萎れている間に、兄は行方を知らせずに家を出た。
意気は良いが、何事も不慣れな青年が誰にも頼らずに暮らしていけまい、そのうち尾羽打ち枯らして戻ってくるだろうと、父は高を括っている。
――兄の気が知れない。
そう考えながら、マグダレナは置いていかれたと感じた。
母は動転して嘆くばかりだが、姉たちは違う。どうやら次姉のフェリシアは兄ベルンハルトの計画を打ち明けられていたらしく、衝撃を受けた素振りがない。兄の言動を理解できる次姉が判らない。自力で屋敷を出ていったと兄を褒め、羨むような口調の長姉の気は尚更判らない。
――もう誰も助けてくれない。誰も味方してくれない。
アレティンはもう自分との結婚が決まったと思い込んでか、屋敷に頻繁に出入りするようになり、エレオノールの嫁入りの品々の目録や式次第の打ち合わせに口を出す。やがてはマグダレナに結婚指輪はどんな宝石をあしらったらいいかと尋ねてくるようになった。
「仕事場は屋敷とは別にありますから、結婚したらあなたは屋敷で好きなようにして過していただけます。音楽会やお芝居にお好きなだけいらしてください。必要なお衣装や小物は幾らでも用意しましょう。難しく考えないで、将来の楽しいことだけを夢見てください」
オットー・フォン・アレティンは悪い男ではない。マグダレナが硬い表情で言葉少なにしているのを、少女らしい内気と恥じらいと捉えて、穏やかに対してくれる。マグダレナを妻にしたい一心で、落ちぶれた家門に、マグダレナに、好意を金銭で示そうとする。身分と年齢の差を埋めるのにはそれしか方法を知らないのだろう。
――嫌だと言い張り続けても、お父様は聞き入れてくださらないし、お母様は面倒事を持ち込まないで言わんばかり。アレティンはわたくしを妻にできると信じているよう。わたくしが結婚したくないと言ってみても、気紛れとしか受け取らない。
父とアレティンを恨んだところで事態を変えられない。アレティンとの結婚を断ったら、リンデンバウム家は経済的に立ち行かなくなってしまうと、何度も父から告げられた。断って、貧乏暮らしに耐えられるのか、家族を惨めにさせたいのかと言われ続けて、羽ばたきを忘れた鳥のように、思考が小さく凝り固まった。
――諦めて結婚するしかないのだわ。
エレオノールに続き、マグダレナは華燭の典を挙げた。
アレティンの屋敷の女主人となったが、娘時代と同じく、マグダレナは気楽な毎日を過ごせた。貿易や投資を扱う大きな商会のあるじである夫は毎日仕事場に出掛け、マグダレナは街角の店の女将のように店頭に立つ必要はない。たまに宴の席で夫の顧客の夫婦と挨拶を交わす程度で、気苦労はない。顧客に爵位の高い貴族はいない。
マグダレナは自分の好きに仕立て屋や飾り職を呼び出して、服や宝飾品を作らせ、それらを身に着けて劇場を回った。侯爵夫人の長姉や実家の両親よりも贅沢に振る舞える。劇場や招待された宴席で、羨望の目で見られ、褒めたたえられ、マグダレナは有頂天になった。夫は忙しいし、遊びを知らない。詰まらない男だ。
じきに妊娠が判明し、遊びに行けなくなった。夫は小躍りするほど喜んだ。結婚してすぐであり、マグダレナは稚さ過ぎて、喜びを感じなかった。
自分の体が自分のものとは思えなくなるくらい膨らんだ。こんな姿になって、無事出産を終えて、元の体型に戻れるのだろうかとマグダレナは溜息を吐く。夜中、お腹の子が動くと眠れない。仰向けにもうつ伏せにもなれない。寝返りを打つのも一苦労。
月満ちて、長く続く激しい痛みと汗と出血にまみれて、子が生まれた。夫から男の子だと聞かされて、マグダレナは安心した。
――これでアレティンの妻としての立場は安泰になる。それに男の子であれば、少なくとも女よりも生き方の選択の幅がある。
夫は息子のオスカーに乳母を雇ってくれて、赤ん坊に付きっきりならずに済んだ。体力の回復に努め、寝不足に悩まされない。赤ん坊の顔は毎日のように変わる。夫に似たと思えば、自分にそっくりに見える。楽しいし、可愛らしい。泣き止まなかったり、粗相をしたりすればすぐに乳母にオスカーを渡すが、できる限り側にいた。
乳母や召使いの他愛のないお喋りが自然耳に入る。
「厨房付きのシュザンヌが好きな人と一緒になるって本当なのかい?」
「あたしのいい人が今度指輪を贈ると約束してくれた」
好いて好かれて一緒になるのは財産を持たない、身一つの庶民だからできること。そう割り切っていながら、マグダレナは糸がほつれ、綾目が見分けられなくなったレース生地を纏った気分になる。夫は自分を愛していると言う。しかし、自分が同じ気持ちを夫に抱いているかと問われたら、何と答えたらいいか自信がない。
――そもそも愛とは何?
芝居や詩の中にしかないのかも知れない。
夫や子と一緒に実家に顔を出した時、執事の補佐をしている若い召使いが、フェリシアにうっとりしたやさしい眼差しを向けていた。肌に爪を立てられ引っ掻き回されているように、胸がざわついた。
――この気持ちは一体何?
マグダレナは胸にわだかまる感情を整理できない。消化しきれないままいつまでも身の内にあり、時に渦となって体中を駆け抜けた。
――判らない、判らない。虚ろなのに、何があれば充たされるのか判らない。
集めた宝飾品を並べて、その輝きを眺め、身を飾り、鏡の中の自分の姿を美しいと確認しても、心が浮き立たない。アレティンが掛けてくれる言葉は平板な気がした。胸を震わせるほど響いてこない。マグダレナが本当に欲しているものをアレティンも気付かない。
「恋愛なんて結婚してからすればいいのよ」
アレティンとの結婚の前に、慰めのつもりなのか、そんなことを囁く者がいた。やはり持参金が無くて、財産のある身分の高い、四十も年上の男性の後妻になると決まった同年齢の女性だった。修道院に入るにも持参金の多寡が待遇に関わる。図太くしたたかにならなければ、生きていけない。
――恋の相手は……、心は宝石のように金銭で贖えない。
平民や下級貴族の社会では既婚者が恋人を持つのに寛容ではないはず。
マグダレナは夫の気持ちに寄り添えるよう努力するか、それとも金銭で贖えるだけの物質を身の回りに集めるだけ集めようか、見えない天秤を揺らした。
「あなた、わたくしあなたの仕事のお話を聞かせて欲しいわ。あなたのご苦労をいたわりたいと思っても何も知らないんですもの」
夫は我が儘を言う子どもをあやすように答えた。
「マグダレナが気を遣う必要はない。あなたが明るく私を出迎えてくれれば、私の苦労は報われる。
それに食卓で仕事の話はしたくない」
マグダレナは肩を落とす。無論彼の女が為替や証券の話を理解できると夫が期待していないからだろう。
――神の前で結婚を誓い、子を生した妻に安心しきって、生活に夫は馴れてしまった。いつまでも少女のようであれと願っているのだろうか。
「それならオペラに行きましょう。来月イタリアの歌手が昴で公演するのよ。お仕事で忙しいならシラーの朗読会でも、別のお芝居でもいいわ」
「居眠りしてつねられて懲りたよ。お友だちか実家の父上を誘っていった方が面白いだろう」
マグダレナの身の内に、また音を立てて虚ろが拡がっていく。労苦も遊びも共にせず、どうして夫婦でいられるのだろう。
――明日、新しい装身具を誂える為に宝石店の外商を呼ぼう。
充足が束の間でもないよりましだ。
――わたくしが望むのはこんなものではない。でも愚かであってもそうせずにいられない。