どうしようもなくゴミのような運命を捨てて出会ったのは、幸福のファンタジーでした。けれど私は、饅頭よりも幸福が怖い
ぐちゃり、ぐちゃり。
頭の中に、音が響いてくる。
ぐちゃり、ぐちゃり。
それは、何の音だったか。
ぐちゃり、ぐちゃり。
今はもう、思い出せない。
ぐちゃり、ぐちゃり。
ただこの、どこまでも続く暗闇は温かくて。寂しくて。
ぐちゃり、ぐちゃり。
永遠に続くような陶酔を、私に齎してくれる。
ぐちゃり、ぐちゃり。
ああ、願わくば今日もまた、幸せでありますよう──
○○○
朝9時。二度寝の時間。
ベッドの上に零した牛乳は、ひび割れた砂漠の様相を呈している。
私はガンガンと、まるでトンカチで殴られているような吐き気を堪えながら、まだ登らない太陽を探して階段を降りて行った。
「あら、ニワトリは死んだのかしら」
気だるい、やる気の出ない朝。
焼きすぎて炭になったトーストひと齧りして、目玉焼きを、ぺろりと胃に流し込む。
それから水を飲んで、テレビを眺めた。
「今日はいい天気です。そうです。明日もずっといい天気ですね」
くだらないバラエティ番組を垂れ流しているくらいなら、ずっと天気予報でもしてればいいのに。
そう、心の中で毒づく。
誰にも聞かれない。それでいい。
納得したから、学校へ行くことにした。
「今夜はカレーよ。お隣の田中さんがね」
私はひどく耳障りな異音を無視しながら、靴を履いて、靴下を脱いだ。
ドアを開ける。
上を見る。
やっぱりそこに太陽は無くて、ただ青いだけの天井が、無感動に広がっている。
知りたくもないな。あの天井の向こう側なんて。
私はたった四畳半の心の隙間をうめる事でさえ、ままならないのだから。
地面を睨みながら、歩き出した。
「何かくる」
赤。あるいは黄色。あるいは青。
団子三兄弟の足元でマネキンになっていた私は、音を聞いた。
車の音、エンジンの音、タイヤが擦れる音。死んでいる音。
だけじゃない。
ほんの少しだけど、生きている音も聞こえた。
「呼んでる」
分かった。そして、歩き出した。
白い弁当海苔を踏みしめると、団子三兄弟のお仲間さんがこちらをじっと見てくる。
視線が、私の首根っこを掴んでくる。
構うものか。
私はあなたを守っているのに、あなたは私を守ってくれやしない。
そっぽ向かれて泣きついたって。あなたを許しはしない。
私はひとりで、呼ぶ声に応えるんだ。
「馬鹿やろーーーーー!!!」
唾を飛ばすのは、車。
窓から般若の生首が突き出している、車。
ちょっとびっくりしたけど、でもそんなの全然怖くない。
このままずっとマネキンでいるよりは、ずっと平気。
だから、踏む。白い海苔を。
やがて、止まる。黒い川の真ん中で。
止まってるけど、死んではいない。これは、生きている「止まる」。
止まってるけど、前へ進んでいる。
そんな確信をもって、私は左を向く。
目の前に迫る般若の車、もう逃げられない。
逃がさない。絶対に。
私は般若を睨んで、運命を睨んで、私を睨んだ。
へのかっぱ。殺せるものなら、殺してみろ。
私は絶対に、生きているように生きてやる。
そして。
「ぐしゃり」
潰れた。
○○○
白い、白い、牛乳の世界。
浮かぶ私は、どこへ行く。
幼い日の、あのおばあちゃんの膝が恋しくて。
私はよちよちと、上へ泳いでいく。
やがて、水面にたどり着くと、光る人影を見た。
「やあ、おはよう。麗しきマドモアゼル」
光る人影は、恭しく腰を折る。
失礼なやつだ、と思った。
名前は、顔だ。顔は、私だ。
出会い頭に私を否定するこいつは、悪魔に違いない。
私はそいつのあいさつに、唾を吐いて答えた。
「あいや、失礼。私の悪い癖だ。佐藤カエデさん。ごめんよ」
ふむ。少しはマシになった。
けど、まだまだ不十分。
私はこいつのために二酸化炭素を吐くより、そこらで昼寝をしていたい気分なのだ。
ならミルクに浮かぶのも、悪くないか。
「あなや、これまた失礼。私はkamiだよ。覚えなくてもいいけどね」
ふむ。神ではないのか。アテが外れた。
私は牛乳をぶくぶくと泡立てながら、再び沈んでいった。
「まてまてまて。君は死んだのだよ。そこに居ても、戻れやしない」
ん? なんだ、そうだったのか。
てっきり失敗したかと思っていた。神じゃないから。
「神もkamiも一緒さ。君の唾液がメープル=シロップでないのと同様にね」
ああ、そういう蘊蓄はどうでもいいんだ。
やるならスマートに、本題へと完結に。
余計なオプションは、犬にでも食わせればいい。
お前の声は好きじゃない。
「なら問おう。君は馬鹿になりたいか?」
光る人影が、私の顔を覗き込んでくる。
馬鹿にしたような表情で、口元に三日月を貼り付けて。
どうにもむしゃくしゃする。
はらのそこに、無理やり唐辛子を詰め込まれた感触。
うるさいな。耳障りだ。
うざったいから口元に下弦の月を貼り付けて、押し返す。
「答えるまでもない」
「十分だ。十分だよ」
人影は笑う。好物のケーキでも見つけたかのように。
「今から君に、もう1つの運命をあげよう。なに、要らないのなら、またここに戻ってくればいい。私はずっと待っているよ」
ふむ。それは僥倖。
元よりそのつもりだったのだ。
ゴキブリも食わない私の運命からすれば、どんな運命も白金の輝きだから。
「是非もなし」
「じゃあ、手を取って。契ろう。新しい未来へ」
私の手に、光の指がそっと触れる。
温かい。
それが気に食わなくて、抓った。強めに。
「いいね。元気がいいよ。風の子だね」
「むかつく。嫌い」
「私は大好きだよ。とても」
光が強くなる。
白い牛乳が、更に白くなる。
やがて、私の視界も、光も、全部染まって。
私は再び、牛乳の底へ沈んでいった。
○○○
土の匂い。
葉の匂い。
獣の匂い。
生温い風、吹く。
「……今日はいい日だ」
目を開けた私にこんにちはしたのは、緑色の天井と、茶色い柱。
黄土色の床を優しく撫で、私は昨日までの私にさよならを告げる。
ああ、なんて夢物語。
私の運命は、美しくリサイクルされたようだ。
「ここには見たいものがたくさんある。目が腐らずに済む」
踏みしめる床には茶色い絨毯。
透き通る風には春の恋模様。
私の足はダンスを踊り、跳ねるステップに心が震える。
とてちてとてちてたんたんたん。
らんらんるんるんらんらんらん。
歌を書こうか。
詩を書こうか。
それとも、手紙を出そうか、昨日の私に。
自慢するには、うってつけだろう。
「青饅頭、みっけ」
長い長い廊下のちょっと先。
パーソナルスペースよりは少し外。
茶色い絨毯にそこだけ浮かぶ青い饅頭が、私の目を捉えた。
もちもちとした弾力のある肌に、私の心が吸い込まれる。
動く足は、私を饅頭へと運んだ。
「もーもたーろさんもーもたーろさーん」
きびだんごではない。
青い饅頭は私の足元で、猫のように震える。
友達を探す気配はない。
ご飯を食べる気配もない。
震える饅頭はマッサージチェアではないけれど。
それでも、私が腰を落ち着けてみようと思う程度には、魅力的だった。
「ふむ。さながら水信玄?」
柔らかく沈む私の腰には、ひんやりとした清涼感。
私はそのまましばし、時を旅した。
「しかし、あなたは知らないの? 私の歩く道を」
青い饅頭は答えない。
ただ震える。
震える。
ふるふる。
ふるふる。
ふるふるふるふるふるふるふるふるふるふるふるふる。
「そこで何をしている」
右から音がした。
なので、左を向く。
茶色い柱が数本見える。その木目を、目でなぞる。ぐるぐる。
今日はいい天気です。
「何をしているのかと聞いている」
「私は桃太郎ではありません」
「見ればわかる。貴様は魔の使い手か?」
「魔?」
「青饅頭は、喰らうものだ」
「友達のような、知り合いのようなものだよ」
「ならば魔の使い手ではないのか」
「桃太郎じゃない」
「話にならんな」
灰色のため息が、辺りに充満する。
私は首を傾ける。間違えた?
「ここは尊き庭だ」
「部屋と廊下でしょう?」
「いいや、庭だ。そして貴様は、空き巣の如き大罪人だ」
「あなたがいるじゃない」
「だから、未遂だ。故に神の慈悲」
「なるほど」
「来い。私と踊れ」
「あいあい」
連れ立って私の手を引く銀の甲冑。
金色の尻尾が、頭の後ろで揺れている。
狐?
油揚げは、家に置いてきた。
「追い出しても良いのだがな。尊き方は、貴様の囀りを御所望だ」
「ぴーちくするならお麦をちょーだい」
「図に乗るな、大罪人」
「なら、私の喉は枯れたまま」
「…………来い」
5枚の扉を押し開けて、私はチェアの上に乗る。
長くて大きいはんぺんの上に、白い皿がひとつ、ふたつ。
さらにその上には、麦よりも極上の馳走の宴。
鼻唄を歌いながら、私は銀の楽器を躍らせた。
「気は済んだか」
「あなたはきっと、素敵な女神」
「違う。誇り高き番人」
「私はカエデ」
「なに?」
「あなたはジョニー? ステファン? キャサリン? ルッコラ?」
「……リーセラだ」
「リーセラ。リーセラ、リーセラ」
「うるさい。早く行くぞ」
銀のリーセラは私の手を引き、赤い絨毯の上でダンスを踊る。
すたすたらんらんすたすたた。
カラフルな蛍達が、私の目の前を飛び交う。
それにつられて首を回すと、私を引く手の力が強くなった。
「見るべきものは、それではない」
「あんなに綺麗なのに?」
「尊き方に比べれば、小石にも満たん」
「なら期待しましょ。クリスマスイブの夜更けに」
やがて蛍のたくさん付いた扉の前に立つと、銀のリーセラは数回ノックした。コンコン。
小気味良く、2回。
ふむ。
どうせなら、キリ良く10回ノックしたらどうだろうか。
コンコンコンコンコンコ……
「やめろ。何をしている」
「乱数調整?」
「無礼者め。斬られたいのか!」
「私はバイト代の半分を家に入れるくらいには、孝行者だよ?」
「貴様……」
「やめなさい」
鈴、と。
愛らしい響きが聞こえた。
「た、尊き方……」
「その者が、我が客人ですね」
「はっ! 恐れ多くも、尊き方よ」
「あなたは相変わらずオリハルコンですね……」
例えば人は、妖精と言うものを目にしたとき、その胸にどのような感動を抱くのだろうか。
現代人のおよそ99.9%が知らない答えを、私は今、はっきりと知ることが出来た。
桃色のヴェールに彩られた、甘い甘い芸術品。
ふわりと漂う春の匂いが、私の、心の奥へと染み込む。
ああ、そうか。
私は理解した。
目の前の妖精が、彼女こそが。
桃太郎だ。
「きびだんごは要りませんか。青いきびだんご」
「なっ!?」
私は懐に手を入れ、青い饅頭を取り出した。
これで私はあなたの家臣。
鬼ヶ島へ、一泊二日のペア旅行。
「お気遣いなく。今日は、ブリオッシュの気分ですの」
「そうですか」
「貴様! 一体どこから!」
「え? だって友達だよ?」
「ふざけるな!」
銀のリーセラはおかんむりのようだ。気難しいな、ゆとり世代は。
銀の剣が、私の胸に迫る。当たれば、きっと痛い。
まあでも仕方ないか。新しい運命には、新しい障害がつきものだ。
対価の無い幸福など、幸福とは呼ばない。
腐り落ちるくらいなら、私はいっそ、またあの白い牛乳に。
「やめなさい」
鈴、と。
リーセラが、マネキンになった。
「リーセラ。私に刃を向けるつもりですか?」
「そ、そのようなことは……」
「客人は、私をもてなす様にもてなしなさい。いいですね?」
「……はい」
銀の剣が遠ざかる。
私は青い饅頭を撫でながら、痴話喧嘩を傍観する野次馬の気分を味わっていた。
「それで、あなたは?」
「カエデ。佐藤カエデ」
「カエデさん。私はメルシィですわ。こんにちは」
「こんにちは、メルシィさん。挨拶は大事ですね」
「ええ、大事です。とても」
メルシィは頬を隠し、上機嫌に歌う。
それから私は彼女に誘われ、彼女の鳥籠へと入って行った。
「あなたは、卵から生まれたんですの?」
「いえ、鶏の腹から」
「あら、それは素敵ですね」
「そうでもないですよ。好景気だったことなんて、一度もない」
「それでも羨ましいですわ。私、今まで空を飛んだ事がありませんもの」
「空を飛んでも、撃ち殺されるだけですよ」
「でも、飛べないよりはマシです」
他愛のない話に花を咲かせ、紅茶が唇を湿らす。
麗らかな日差しに包まれたひとときが、私の心を優しく融かしていく。
私の心が、融けて、溶けて、水になって。
滴り落ちて、溢れ落ちる青饅頭。
震える、青饅頭。
ふるふる。
「その子は、お友達ですか?」
「はい、お友達です。でも、片思い」
「そう。応援しますわ」
「ありがとう。あなたも女神様」
「も?」
「リーセラも女神」
「あらあら」
「なっ……!」
リンゴが食べたくなった。どこかに生えてないかな。
蜜がたっぷり入ってるの、1年分くらい。
「これからは、女神リーセラとお呼び致しましょうかね」
「おやめください。私は誇り高き番人」
「そう。残念ね」
「あの、リンゴはありませんか?」
「無いですわ。どうして?」
「リーセラがリンゴです」
「まあ、本当」
「貴様……!」
「リーセラ?」
「……いえ、何も」
私と妖精メルシィと銀のリーセラは、それからたっぷり数時間。あらぬ太陽が30度傾くまで。
ふわりと至福のひとときを、とくとくと味わっていた。
やがて青い天井には墨が溢され、黒く染まる。
その天井に針で穴を開け、向こう側を覗こうとしているのは、一体誰なのだろうか。
今日もまた、月の形は変わっていく。
「黒いですね」
「ええ、黒いです。あれは、夜の帳」
「まぁるい模様は、月?」
「ええ、tsukiです」
「そうなんだ」
「さて、今夜はいかが致しましょう。私の鳥籠に、共に囚われてみますか?」
「尊き方!! お戯れが過ぎます!!」
リーセラが、般若の物真似をする。
似てない。下手っぴ。
たぶん、私の方が上手く出来るだろう。
「リーセラはやっぱりオリハルコンですね……」
「メルシィ。リーセラは欲しているんだよ」
「なっ……」
「そうなのですか?」
「違う! 違う違う違う違います!!」
「違うみたいですわ」
「メルシィは純粋だね」
うん。やっぱり、リーセラはリンゴの物真似の方が上手だ。
天下一品。美味しいリンゴ。蜜も多い。
それから私は私だけの新品の鳥籠(餌付き)を貰って、そこにずっと籠っていた。
鳥籠の外に、首だけを出して、深呼吸。
肺に流れ込むのは、あのチリと埃だらけの淀んだ気配ではなくて、もっと透き通った、透明な雰囲気。
ああ、やっぱり、この運命は素晴らしき運命だ。
私は心の中で、あの般若の車にお辞儀をする。
それから、私は目が疲れるまで、黒い天井に開いた穴の数を数えていた。
ひとつ、ふたつ、みっつ……
無数の穴は、私を退屈させる事がない。
やがて。
天井の墨汁はオレンジジュースで洗い落とされ、その色は再び青く、青く、染まっていった。
○○○
あれから、大地が5回は回っただろうか。
自転ではなく、公転。あらぬ太陽の回りをぐーるぐる。
ああ、そうそう。
ここは地球だそうだ。
分かりやすくて助かるね。
「カエデ、また饅頭か」
私が廊下で饅頭に昼寝していると、リーちゃんが顔を覗き込んできた。
「うん。今回は桃色の饅頭。素敵でしょ?」
「桃色か……」
「あげないよ?」
「い、要らん! 斬って捨てるぞ!」
「やっぱりリンゴだよね。リーちゃん」
「リーセラだ!!」
あれから、私は饅頭を集めた。
青い饅頭、赤い饅頭、緑の饅頭、黄色い饅頭……
いつしか、饅頭の海でプールが出来るようになっていた。ざぶん。
どうやら、私は元々、饅頭の友達だったらしい。
「しかし、これだけの饅頭……やはり、カエデは魔の使いではないのか?」
「桃太郎はメルシィだよ?」
「それはもういい」
「饅頭は友達。今はもう両思い。やったね!」
私は桃色の饅頭を持ち上げて、くしゃっと笑う。
リーちゃんのため息は相変わらずだけど、灰色じゃないから、多分間違ってない。
……あ。
そう言えば、リーちゃんも友達なのかな。
「ねぇ」
「なんだ」
「リーちゃんは、饅頭?」
「私は誇り高き番人だ」
「誇り高き番人の、饅頭?」
「……勝手にしろ」
「やった!」
「うわっ!」
リーちゃんも友達だった。
私はリーちゃんに抱きついて回る、メリーゴーランド。プライスレス。
あとあと、メルシィも友達かな。今度桃色の饅頭を、あげてみようか。
「それで、リーちゃんはなんでここに」
「麦だ」
「麦? ああ、もうそんな時間」
「尊き方も待っているぞ」
「本当!? 急いで!」
「あ、おい!」
私は茶色い絨毯を踏みしめる。
小気味よく、リズミカルに。
たんたんたたたすたたんたん。
流れる緑の天井と、茶色い柱が、私にこんにちはと言う。
こんにちは。
挨拶は素敵だね。
踊りながら、後ろを振り返る。
「まて、待て! まずは着替えろ!」
「あははっ。ねぇ、リーちゃん」
「なんだ!」
「桃太郎の話、知ってる?」
「知らん!」
リーちゃんはふらふら踊りながら私についてくる。
これが、フラダンス?
私も真似をしてみる。ふらふら。
「あははっ。桃太郎はね、お供を連れて鬼ヶ島に行くんだよ」
「何の話だ!」
「それでね、私やっぱり、桃太郎だったみたい。お供はいないけど、桃太郎だったみたい」
リーちゃんのふらふらがへろへろになってきた。
うーん、流石にそれは難しいな。
仕方ないから、立ち止まって、待ってあげる。
「それでね、桃太郎は鬼ヶ島に行かなきゃいけないの。ひとりでも、絶対に」
「だから、何の話だと……」
「だから」
土の匂い。
草の匂い。
幸福の匂い。
ここの匂いは素晴らしいものだ。
私を幸せに、ただ幸せにしてくれる。
願わくば、この幸せを、ずっと感じていたいと思う。
「私を、鬼ヶ島へ連れて行って。リーちゃん」
「鬼ヶ島?」
けれど、私は知っている。
対価の無い幸福なんてないと。
幸福だけの幸福はいつか幸福でなくなると。
幸福のスパイスは、不幸であると。
いつまでも幸福でいたいならば、どこまでも不幸でなくてはならないと。
当たり前の幸福に価値はない。
得難い幸福にこそ、価値がある。
その幸福を手に入れるためなら、私は。
「──私の胸を、あなたの剣で貫いて。リーちゃん」
喜んで、私の運命をドブに捨てよう。
○○○
白い、白い、牛乳の世界。
浮かぶ私は、どこへ行く。
ありし日の、あの饅頭の肌触りが懐かしくて。
私はふるふると、浮かび上がっていく。
やがて、水面から顔を出すとそこには、光る影がいた。
「ごきげんよう、麗しきマドモアゼル佐藤カエデ」
光る影は尊大に頭を下げる。
うざったいやつだ。
余計なオプションは、犬に食わせろと言ったのに。
「ああ、これは失礼。それで、気に食わなかったかな?」
「ううん。とても美味しかった」
間髪入れずに、即答、即断。
こいつと同じ空気は、なるたけ吸いたくない。
「なら、何故戻ってきた?」
「美味しかったから」
「つまり?」
「私が美味しいと分かるのは、不味さを知っているから」
「なるほど、そういうことか。塩を舐めて砂糖を舐める……」
光る影は頷く。うんうん。
ああ、面倒だ。
一々酸素を無駄遣いしないと、こいつは受け答えすら出来ないのか。
ゴミのような運命でも、素敵な運命にも。
こいつだけは混ぜたくないな。
そう思う。
「それじゃあ君は、賢くなりたいかい?」
光る影の顔には、三日月。
私はそれを極力見ないようにしながら、牛乳にぷかぷか浮かぶ。
「足りない」
「え?」
「もっと賢く。大賢者、大天才。その先」
「それは……」
三日月が、くるんとひっくり返った。
いい気味だ。
そう言う顔なら、いくらでも見てやろう。
「今度こそ、潰れるかもしれないよ?」
「問題ない。どんな運命だって、私はちゃんとここに居るもの」
三日月が新月になった。
ああ、おかしい。
私はなんだか、歌を歌いたくなるのを感じた。
「ほら、私を連れていけ。ドブのような運命の、底の底へ」
「……分かった」
光る影は嫌そうに、手を差し出した。
嫌だろうね。知ってるよ。
私の運命は、お前の運命なんだから。
「願わくば、君が早く戻ってきますよう」
「断る」
光る手に触れる。
冷たい。
それを感じて、私はほくそ笑む。
お前には、やっぱりこっちの方が似合っている。
「さようなら、大嫌いな私」
「また会おう、大好きな私」
光が強くなる。
白い牛乳が、更に白くなる。
やがて、私の視界も、光も、全部染まって。
私は再び、牛乳の底へ沈んでいった。
○○○
血の匂い。
埃の匂い。
粘りつく風が、吹く。
「こんにちは」
私は赤茶けた床に。
群青色の天井に。
挨拶をする。
挨拶は大事だと、教わったから。
……誰に?
思い出せない。
「まあいっか。明日は来るもの」
鼻唄を歌いながら、私は千切れた絨毯を踏みしめた。
ぐちゃり。
「ぐちゃり?」
下を見る。足元を。
足。
足?
「ない」
足が無かった。
足だけじゃない、足首も。腿も、腰も。
まるで炎天下のアイスクリームのように、溶けて、崩れて、形を失っていく。
ぐちゃり。
「うんうん」
良かった。
正しく、ドブのような運命らしい。
そうでなくては、つまらない。
天井を、群青色の天井を見上げる。
あの天井に針を刺す人は、ここには居なさそうだ。
「それじゃあ、よろしくお願いします」
ぐちゃり。
私が崩れていく。
ぐちゃりぐちゃり。
輪郭が消えて、混ざり合う。
ぐちゃりぐちゃりぐちゃり。
鼻唄を歌う。らんらん。
「白い牛乳は、しばらくお預けね」
私はいつか、オリュンポスよりも高い、幸福の山へと登る。
私以外の誰も手にした事のない、至福の頂きへと至る。
その山を高くする為に、私は不幸の谷を深く掘って。
深く掘って。
深く掘って。
深く深く深く掘って。
「待っててね。リーちゃん。メルシィ。饅頭」
ああ、沈む。
暗い闇の底へ、どこまでも。
いつか浮かび上がる、その日を楽しみにして──
ぐちゃり。
ぐちゃりぐちゃり。
音が聞こえる。
ぐちゃりぐちゃり。
「ああ」
それは、何の音だったか。
ぐちゃりぐちゃり。
今はもう、思い出せない。
ぐちゃりぐちゃり。
ただこの、どこまでも続く暗闇は温かくて。寂しくて。
ぐちゃり、ぐちゃり。
永遠に続くような陶酔を、私に齎してくれる。
ぐちゃり、ぐちゃり。
ああ、願わくば今日もまた、いや──
ぐちゃり。
──明日もまた、幸せでありますように。