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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

どうしようもなくゴミのような運命を捨てて出会ったのは、幸福のファンタジーでした。けれど私は、饅頭よりも幸福が怖い

作者: 佐藤カエデ



 ぐちゃり、ぐちゃり。


 頭の中に、音が響いてくる。


 ぐちゃり、ぐちゃり。


 それは、何の音だったか。


 ぐちゃり、ぐちゃり。


 今はもう、思い出せない。


 ぐちゃり、ぐちゃり。


 ただこの、どこまでも続く暗闇は温かくて。寂しくて。


 ぐちゃり、ぐちゃり。


 永遠に続くような陶酔を、私に齎してくれる。


 ぐちゃり、ぐちゃり。


 ああ、願わくば今日もまた、幸せでありますよう──






○○○





 朝9時。二度寝の時間。

 ベッドの上に零した牛乳は、ひび割れた砂漠の様相を呈している。

 私はガンガンと、まるでトンカチで殴られているような吐き気を堪えながら、まだ登らない太陽を探して階段を降りて行った。


「あら、ニワトリは死んだのかしら」


 気だるい、やる気の出ない朝。

 焼きすぎて炭になったトーストひと齧りして、目玉焼きを、ぺろりと胃に流し込む。

 それから水を飲んで、テレビを眺めた。


「今日はいい天気です。そうです。明日もずっといい天気ですね」


 くだらないバラエティ番組を垂れ流しているくらいなら、ずっと天気予報でもしてればいいのに。

 そう、心の中で毒づく。

 誰にも聞かれない。それでいい。

 納得したから、学校へ行くことにした。


「今夜はカレーよ。お隣の田中さんがね」


 私はひどく耳障りな異音を無視しながら、靴を履いて、靴下を脱いだ。

 ドアを開ける。

 上を見る。

 やっぱりそこに太陽は無くて、ただ青いだけの天井が、無感動に広がっている。

 知りたくもないな。あの天井の向こう側なんて。

 私はたった四畳半の心の隙間をうめる事でさえ、ままならないのだから。

 地面を睨みながら、歩き出した。


「何かくる」


 赤。あるいは黄色。あるいは青。

 団子三兄弟の足元でマネキンになっていた私は、音を聞いた。

 車の音、エンジンの音、タイヤが擦れる音。死んでいる音。

 だけじゃない。

 ほんの少しだけど、生きている音も聞こえた。


「呼んでる」


 分かった。そして、歩き出した。

 白い弁当海苔を踏みしめると、団子三兄弟のお仲間さんがこちらをじっと見てくる。

 視線が、私の首根っこを掴んでくる。

 構うものか。

 私はあなたを守っているのに、あなたは私を守ってくれやしない。

 そっぽ向かれて泣きついたって。あなたを許しはしない。

 私はひとりで、呼ぶ声に応えるんだ。


「馬鹿やろーーーーー!!!」


 唾を飛ばすのは、車。

 窓から般若の生首が突き出している、車。

 ちょっとびっくりしたけど、でもそんなの全然怖くない。

 このままずっとマネキンでいるよりは、ずっと平気。

 だから、踏む。白い海苔を。

 やがて、止まる。黒い川の真ん中で。

 止まってるけど、死んではいない。これは、生きている「止まる」。

 止まってるけど、前へ進んでいる。

 そんな確信をもって、私は左を向く。

 目の前に迫る般若の車、もう逃げられない。

 逃がさない。絶対に。

 私は般若を睨んで、運命を睨んで、私を睨んだ。

 へのかっぱ。殺せるものなら、殺してみろ。

 私は絶対に、生きているように生きてやる。



 そして。




「ぐしゃり」




 潰れた。






○○○




 白い、白い、牛乳の世界。

 浮かぶ私は、どこへ行く。

 幼い日の、あのおばあちゃんの膝が恋しくて。

 私はよちよちと、上へ泳いでいく。



 やがて、水面にたどり着くと、光る人影を見た。


「やあ、おはよう。麗しきマドモアゼル」


 光る人影は、恭しく腰を折る。

 失礼なやつだ、と思った。

 名前は、顔だ。顔は、私だ。

 出会い頭に私を否定するこいつは、悪魔に違いない。

 私はそいつのあいさつに、唾を吐いて答えた。


「あいや、失礼。私の悪い癖だ。佐藤カエデさん。ごめんよ」


 ふむ。少しはマシになった。

 けど、まだまだ不十分。

 私はこいつのために二酸化炭素を吐くより、そこらで昼寝をしていたい気分なのだ。

 ならミルクに浮かぶのも、悪くないか。


「あなや、これまた失礼。私はkamiだよ。覚えなくてもいいけどね」


 ふむ。神ではないのか。アテが外れた。

 私は牛乳をぶくぶくと泡立てながら、再び沈んでいった。


「まてまてまて。君は死んだのだよ。そこに居ても、戻れやしない」


 ん? なんだ、そうだったのか。

 てっきり失敗したかと思っていた。神じゃないから。


「神もkamiも一緒さ。君の唾液がメープル=シロップでないのと同様にね」


 ああ、そういう蘊蓄はどうでもいいんだ。

 やるならスマートに、本題へと完結に。

 余計なオプションは、犬にでも食わせればいい。

 お前の声は好きじゃない。


「なら問おう。君は馬鹿になりたいか?」


 光る人影が、私の顔を覗き込んでくる。

 馬鹿にしたような表情で、口元に三日月を貼り付けて。

 どうにもむしゃくしゃする。

 はらのそこに、無理やり唐辛子を詰め込まれた感触。

 うるさいな。耳障りだ。

 うざったいから口元に下弦の月を貼り付けて、押し返す。


「答えるまでもない」

「十分だ。十分だよ」


 人影は笑う。好物のケーキでも見つけたかのように。


「今から君に、もう1つの運命をあげよう。なに、要らないのなら、またここに戻ってくればいい。私はずっと待っているよ」


 ふむ。それは僥倖。

 元よりそのつもりだったのだ。

 ゴキブリも食わない私の運命からすれば、どんな運命も白金の輝きだから。


「是非もなし」

「じゃあ、手を取って。契ろう。新しい未来へ」


 私の手に、光の指がそっと触れる。

 温かい。

 それが気に食わなくて、抓った。強めに。


「いいね。元気がいいよ。風の子だね」

「むかつく。嫌い」

「私は大好きだよ。とても」


 光が強くなる。

 白い牛乳が、更に白くなる。

 やがて、私の視界も、光も、全部染まって。

 私は再び、牛乳の底へ沈んでいった。





○○○




 土の匂い。

 葉の匂い。

 獣の匂い。

 生温い風、吹く。


「……今日はいい日だ」


 目を開けた私にこんにちはしたのは、緑色の天井と、茶色い柱。

 黄土色の床を優しく撫で、私は昨日までの私にさよならを告げる。

 ああ、なんて夢物語。

 私の運命は、美しくリサイクルされたようだ。


「ここには見たいものがたくさんある。目が腐らずに済む」


 踏みしめる床には茶色い絨毯。

 透き通る風には春の恋模様。

 私の足はダンスを踊り、跳ねるステップに心が震える。

 とてちてとてちてたんたんたん。

 らんらんるんるんらんらんらん。

 歌を書こうか。

 詩を書こうか。

 それとも、手紙を出そうか、昨日の私に。

 自慢するには、うってつけだろう。


「青饅頭、みっけ」


 長い長い廊下のちょっと先。

 パーソナルスペースよりは少し外。

 茶色い絨毯にそこだけ浮かぶ青い饅頭が、私の目を捉えた。

 もちもちとした弾力のある肌に、私の心が吸い込まれる。

 動く足は、私を饅頭へと運んだ。


「もーもたーろさんもーもたーろさーん」


 きびだんごではない。

 青い饅頭は私の足元で、猫のように震える。

 友達を探す気配はない。

 ご飯を食べる気配もない。

 震える饅頭はマッサージチェアではないけれど。

 それでも、私が腰を落ち着けてみようと思う程度には、魅力的だった。


「ふむ。さながら水信玄?」


 柔らかく沈む私の腰には、ひんやりとした清涼感。

 私はそのまましばし、時を旅した。


「しかし、あなたは知らないの? 私の歩く道を」


 青い饅頭は答えない。

 ただ震える。

 震える。

 ふるふる。

 ふるふる。

 ふるふるふるふるふるふるふるふるふるふるふるふる。


「そこで何をしている」


 右から音がした。

 なので、左を向く。

 茶色い柱が数本見える。その木目を、目でなぞる。ぐるぐる。

 今日はいい天気です。


「何をしているのかと聞いている」

「私は桃太郎ではありません」

「見ればわかる。貴様は魔の使い手か?」

「魔?」

「青饅頭は、喰らうものだ」

「友達のような、知り合いのようなものだよ」

「ならば魔の使い手ではないのか」

「桃太郎じゃない」

「話にならんな」


 灰色のため息が、辺りに充満する。

 私は首を傾ける。間違えた?


「ここは尊き庭だ」

「部屋と廊下でしょう?」

「いいや、庭だ。そして貴様は、空き巣の如き大罪人だ」

「あなたがいるじゃない」

「だから、未遂だ。故に神の慈悲」

「なるほど」

「来い。私と踊れ」

「あいあい」


 連れ立って私の手を引く銀の甲冑。

 金色の尻尾が、頭の後ろで揺れている。

 狐?

 油揚げは、家に置いてきた。


「追い出しても良いのだがな。尊き方は、貴様の囀りを御所望だ」

「ぴーちくするならお麦をちょーだい」

「図に乗るな、大罪人」

「なら、私の喉は枯れたまま」

「…………来い」


 5枚の扉を押し開けて、私はチェアの上に乗る。

 長くて大きいはんぺんの上に、白い皿がひとつ、ふたつ。

 さらにその上には、麦よりも極上の馳走の宴。

 鼻唄を歌いながら、私は銀の楽器を躍らせた。


「気は済んだか」

「あなたはきっと、素敵な女神」

「違う。誇り高き番人」

「私はカエデ」

「なに?」

「あなたはジョニー? ステファン? キャサリン? ルッコラ?」

「……リーセラだ」

「リーセラ。リーセラ、リーセラ」

「うるさい。早く行くぞ」


 銀のリーセラは私の手を引き、赤い絨毯の上でダンスを踊る。

 すたすたらんらんすたすたた。

 カラフルな蛍達が、私の目の前を飛び交う。

 それにつられて首を回すと、私を引く手の力が強くなった。


「見るべきものは、それではない」

「あんなに綺麗なのに?」

「尊き方に比べれば、小石にも満たん」

「なら期待しましょ。クリスマスイブの夜更けに」


 やがて蛍のたくさん付いた扉の前に立つと、銀のリーセラは数回ノックした。コンコン。

 小気味良く、2回。

 ふむ。

 どうせなら、キリ良く10回ノックしたらどうだろうか。

 コンコンコンコンコンコ……


「やめろ。何をしている」

「乱数調整?」

「無礼者め。斬られたいのか!」

「私はバイト代の半分を家に入れるくらいには、孝行者だよ?」

「貴様……」

「やめなさい」


 鈴、と。

 愛らしい響きが聞こえた。


「た、尊き方……」

「その者が、我が客人ですね」

「はっ! 恐れ多くも、尊き方よ」

「あなたは相変わらずオリハルコンですね……」


 例えば人は、妖精と言うものを目にしたとき、その胸にどのような感動を抱くのだろうか。

 現代人のおよそ99.9%が知らない答えを、私は今、はっきりと知ることが出来た。

 桃色のヴェールに彩られた、甘い甘い芸術品。

 ふわりと漂う春の匂いが、私の、心の奥へと染み込む。

 ああ、そうか。

 私は理解した。

 目の前の妖精が、彼女こそが。



 桃太郎だ。



「きびだんごは要りませんか。青いきびだんご」

「なっ!?」


 私は懐に手を入れ、青い饅頭を取り出した。

 これで私はあなたの家臣。

 鬼ヶ島へ、一泊二日のペア旅行。


「お気遣いなく。今日は、ブリオッシュの気分ですの」

「そうですか」

「貴様! 一体どこから!」

「え? だって友達だよ?」

「ふざけるな!」


 銀のリーセラはおかんむりのようだ。気難しいな、ゆとり世代は。

 銀の剣が、私の胸に迫る。当たれば、きっと痛い。

 まあでも仕方ないか。新しい運命には、新しい障害がつきものだ。

 対価の無い幸福など、幸福とは呼ばない。

 腐り落ちるくらいなら、私はいっそ、またあの白い牛乳に。


「やめなさい」


 鈴、と。

 リーセラが、マネキンになった。


「リーセラ。私に刃を向けるつもりですか?」

「そ、そのようなことは……」

「客人は、私をもてなす様にもてなしなさい。いいですね?」

「……はい」


 銀の剣が遠ざかる。

 私は青い饅頭を撫でながら、痴話喧嘩を傍観する野次馬の気分を味わっていた。


「それで、あなたは?」

「カエデ。佐藤カエデ」

「カエデさん。私はメルシィですわ。こんにちは」

「こんにちは、メルシィさん。挨拶は大事ですね」

「ええ、大事です。とても」


 メルシィは頬を隠し、上機嫌に歌う。

 それから私は彼女に誘われ、彼女の鳥籠へと入って行った。


「あなたは、卵から生まれたんですの?」

「いえ、鶏の腹から」

「あら、それは素敵ですね」

「そうでもないですよ。好景気だったことなんて、一度もない」

「それでも羨ましいですわ。私、今まで空を飛んだ事がありませんもの」

「空を飛んでも、撃ち殺されるだけですよ」

「でも、飛べないよりはマシです」


 他愛のない話に花を咲かせ、紅茶が唇を湿らす。

 麗らかな日差しに包まれたひとときが、私の心を優しく融かしていく。

 私の心が、融けて、溶けて、水になって。

 滴り落ちて、溢れ落ちる青饅頭。

 震える、青饅頭。

 ふるふる。


「その子は、お友達ですか?」

「はい、お友達です。でも、片思い」

「そう。応援しますわ」

「ありがとう。あなたも女神様」

「も?」

「リーセラも女神」

「あらあら」

「なっ……!」


 リンゴが食べたくなった。どこかに生えてないかな。

 蜜がたっぷり入ってるの、1年分くらい。


「これからは、女神リーセラとお呼び致しましょうかね」

「おやめください。私は誇り高き番人」

「そう。残念ね」

「あの、リンゴはありませんか?」

「無いですわ。どうして?」

「リーセラがリンゴです」

「まあ、本当」

「貴様……!」

「リーセラ?」

「……いえ、何も」


 私と妖精メルシィと銀のリーセラは、それからたっぷり数時間。あらぬ太陽が30度傾くまで。

 ふわりと至福のひとときを、とくとくと味わっていた。

 やがて青い天井には墨が溢され、黒く染まる。

 その天井に針で穴を開け、向こう側を覗こうとしているのは、一体誰なのだろうか。

 今日もまた、月の形は変わっていく。


「黒いですね」

「ええ、黒いです。あれは、夜の帳」

「まぁるい模様は、月?」

「ええ、tsukiです」

「そうなんだ」

「さて、今夜はいかが致しましょう。私の鳥籠に、共に囚われてみますか?」

「尊き方!! お戯れが過ぎます!!」


 リーセラが、般若の物真似をする。

 似てない。下手っぴ。

 たぶん、私の方が上手く出来るだろう。


「リーセラはやっぱりオリハルコンですね……」

「メルシィ。リーセラは欲しているんだよ」

「なっ……」

「そうなのですか?」

「違う! 違う違う違う違います!!」

「違うみたいですわ」

「メルシィは純粋だね」


 うん。やっぱり、リーセラはリンゴの物真似の方が上手だ。

 天下一品。美味しいリンゴ。蜜も多い。

 それから私は私だけの新品の鳥籠(餌付き)を貰って、そこにずっと籠っていた。

 鳥籠の外に、首だけを出して、深呼吸。

 肺に流れ込むのは、あのチリと埃だらけの淀んだ気配ではなくて、もっと透き通った、透明な雰囲気。

 ああ、やっぱり、この運命は素晴らしき運命だ。

 私は心の中で、あの般若の車にお辞儀をする。

 それから、私は目が疲れるまで、黒い天井に開いた穴の数を数えていた。

 ひとつ、ふたつ、みっつ……

 無数の穴は、私を退屈させる事がない。



 やがて。

 天井の墨汁はオレンジジュースで洗い落とされ、その色は再び青く、青く、染まっていった。







○○○




 あれから、大地が5回は回っただろうか。

 自転ではなく、公転。あらぬ太陽の回りをぐーるぐる。

 ああ、そうそう。

 ここは地球だそうだ。

 分かりやすくて助かるね。


「カエデ、また饅頭か」


 私が廊下で饅頭に昼寝していると、リーちゃんが顔を覗き込んできた。


「うん。今回は桃色の饅頭。素敵でしょ?」

「桃色か……」

「あげないよ?」

「い、要らん! 斬って捨てるぞ!」

「やっぱりリンゴだよね。リーちゃん」

「リーセラだ!!」


 あれから、私は饅頭を集めた。

 青い饅頭、赤い饅頭、緑の饅頭、黄色い饅頭……

 いつしか、饅頭の海でプールが出来るようになっていた。ざぶん。

 どうやら、私は元々、饅頭の友達だったらしい。


「しかし、これだけの饅頭……やはり、カエデは魔の使いではないのか?」

「桃太郎はメルシィだよ?」

「それはもういい」

「饅頭は友達。今はもう両思い。やったね!」


 私は桃色の饅頭を持ち上げて、くしゃっと笑う。

 リーちゃんのため息は相変わらずだけど、灰色じゃないから、多分間違ってない。

 ……あ。

 そう言えば、リーちゃんも友達なのかな。


「ねぇ」

「なんだ」

「リーちゃんは、饅頭?」

「私は誇り高き番人だ」

「誇り高き番人の、饅頭?」

「……勝手にしろ」

「やった!」

「うわっ!」


 リーちゃんも友達だった。

 私はリーちゃんに抱きついて回る、メリーゴーランド。プライスレス。

 あとあと、メルシィも友達かな。今度桃色の饅頭を、あげてみようか。


「それで、リーちゃんはなんでここに」

「麦だ」

「麦? ああ、もうそんな時間」

「尊き方も待っているぞ」

「本当!? 急いで!」

「あ、おい!」


 私は茶色い絨毯を踏みしめる。

 小気味よく、リズミカルに。

 たんたんたたたすたたんたん。

 流れる緑の天井と、茶色い柱が、私にこんにちはと言う。

 こんにちは。

 挨拶は素敵だね。

 踊りながら、後ろを振り返る。


「まて、待て! まずは着替えろ!」

「あははっ。ねぇ、リーちゃん」

「なんだ!」

「桃太郎の話、知ってる?」

「知らん!」


 リーちゃんはふらふら踊りながら私についてくる。

 これが、フラダンス?

 私も真似をしてみる。ふらふら。


「あははっ。桃太郎はね、お供を連れて鬼ヶ島に行くんだよ」

「何の話だ!」

「それでね、私やっぱり、桃太郎だったみたい。お供はいないけど、桃太郎だったみたい」


 リーちゃんのふらふらがへろへろになってきた。

 うーん、流石にそれは難しいな。

 仕方ないから、立ち止まって、待ってあげる。


「それでね、桃太郎は鬼ヶ島に行かなきゃいけないの。ひとりでも、絶対に」

「だから、何の話だと……」

「だから」


 土の匂い。

 草の匂い。

 幸福の匂い。

 ここの匂いは素晴らしいものだ。

 私を幸せに、ただ幸せにしてくれる。

 願わくば、この幸せを、ずっと感じていたいと思う。


「私を、鬼ヶ島へ連れて行って。リーちゃん」

「鬼ヶ島?」


 けれど、私は知っている。

 対価の無い幸福なんてないと。

 幸福だけの幸福はいつか幸福でなくなると。

 幸福のスパイスは、不幸であると。

 いつまでも幸福でいたいならば、どこまでも不幸でなくてはならないと。

 当たり前の幸福に価値はない。

 得難い幸福にこそ、価値がある。

 その幸福を手に入れるためなら、私は。




「──私の胸を、あなたの剣で貫いて。リーちゃん」


 喜んで、私の運命をドブに捨てよう。







○○○




 白い、白い、牛乳の世界。

 浮かぶ私は、どこへ行く。

 ありし日の、あの饅頭の肌触りが懐かしくて。

 私はふるふると、浮かび上がっていく。



 やがて、水面から顔を出すとそこには、光る影がいた。


「ごきげんよう、麗しきマドモアゼル佐藤カエデ」


 光る影は尊大に頭を下げる。

 うざったいやつだ。

 余計なオプションは、犬に食わせろと言ったのに。


「ああ、これは失礼。それで、気に食わなかったかな?」

「ううん。とても美味しかった」


 間髪入れずに、即答、即断。

 こいつと同じ空気は、なるたけ吸いたくない。


「なら、何故戻ってきた?」

「美味しかったから」

「つまり?」

「私が美味しいと分かるのは、不味さを知っているから」

「なるほど、そういうことか。塩を舐めて砂糖を舐める……」


 光る影は頷く。うんうん。

 ああ、面倒だ。

 一々酸素を無駄遣いしないと、こいつは受け答えすら出来ないのか。

 ゴミのような運命でも、素敵な運命にも。

 こいつだけは混ぜたくないな。

 そう思う。


「それじゃあ君は、賢くなりたいかい?」


 光る影の顔には、三日月。

 私はそれを極力見ないようにしながら、牛乳にぷかぷか浮かぶ。


「足りない」

「え?」

「もっと賢く。大賢者、大天才。その先」

「それは……」


 三日月が、くるんとひっくり返った。

 いい気味だ。

 そう言う顔なら、いくらでも見てやろう。


「今度こそ、潰れるかもしれないよ?」

「問題ない。どんな運命だって、私はちゃんとここに居るもの」


 三日月が新月になった。

 ああ、おかしい。

 私はなんだか、歌を歌いたくなるのを感じた。


「ほら、私を連れていけ。ドブのような運命の、底の底へ」

「……分かった」


 光る影は嫌そうに、手を差し出した。

 嫌だろうね。知ってるよ。

 私の運命は、お前の運命なんだから。


「願わくば、君が早く戻ってきますよう」

「断る」


 光る手に触れる。

 冷たい。

 それを感じて、私はほくそ笑む。

 お前には、やっぱりこっちの方が似合っている。


「さようなら、大嫌いな私」

「また会おう、大好きな私」


 光が強くなる。

 白い牛乳が、更に白くなる。

 やがて、私の視界も、光も、全部染まって。

 私は再び、牛乳の底へ沈んでいった。







○○○




 血の匂い。

 埃の匂い。

 粘りつく風が、吹く。


「こんにちは」


 私は赤茶けた床に。

 群青色の天井に。

 挨拶をする。

 挨拶は大事だと、教わったから。

 ……誰に?

 思い出せない。


「まあいっか。明日は来るもの」


 鼻唄を歌いながら、私は千切れた絨毯を踏みしめた。


 ぐちゃり。


「ぐちゃり?」


 下を見る。足元を。

 足。

 足?


「ない」


 足が無かった。

 足だけじゃない、足首も。腿も、腰も。

 まるで炎天下のアイスクリームのように、溶けて、崩れて、形を失っていく。

 ぐちゃり。


「うんうん」


 良かった。

 正しく、ドブのような運命らしい。

 そうでなくては、つまらない。

 天井を、群青色の天井を見上げる。

 あの天井に針を刺す人は、ここには居なさそうだ。


「それじゃあ、よろしくお願いします」


 ぐちゃり。


 私が崩れていく。


 ぐちゃりぐちゃり。


 輪郭が消えて、混ざり合う。


 ぐちゃりぐちゃりぐちゃり。


 鼻唄を歌う。らんらん。


「白い牛乳は、しばらくお預けね」


 私はいつか、オリュンポスよりも高い、幸福の山へと登る。

 私以外の誰も手にした事のない、至福の頂きへと至る。

 その山を高くする為に、私は不幸の谷を深く掘って。

 深く掘って。

 深く掘って。

 深く深く深く掘って。


「待っててね。リーちゃん。メルシィ。饅頭」


 ああ、沈む。

 暗い闇の底へ、どこまでも。

 いつか浮かび上がる、その日を楽しみにして──




 ぐちゃり。




 ぐちゃりぐちゃり。


 音が聞こえる。


 ぐちゃりぐちゃり。


「ああ」


 それは、何の音だったか。


 ぐちゃりぐちゃり。


 今はもう、思い出せない。


 ぐちゃりぐちゃり。


 ただこの、どこまでも続く暗闇は温かくて。寂しくて。


 ぐちゃり、ぐちゃり。


 永遠に続くような陶酔を、私に齎してくれる。


 ぐちゃり、ぐちゃり。


 ああ、願わくば今日もまた、いや──







 ぐちゃり。


 ──明日もまた、幸せでありますように。




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