「死」
生きる意味について考えることは多々あった。
だが、それら全ては自問自答と空虚な妄想。
人類史の哲学の起源にして永遠のテーマである「死」について平凡な高校一年生が理解できるはずもなかった。
親に「私立高校に行ったら大学までは保証できない」
と言われ、県内で偏差値的に中位ぐらいの公立高校に通っている。
正直大学進学に興味はなかったが将来の選択肢を少しでも多く残しておくことに越したことはないだろう。
僕は幼少期から運動が得意ではなくどちらかというとインドアだった。
家で本を読むのが趣味だ。
だが、ネットが使えるようになってからは読めない漢字も検索できるようになり、様々な哲学などを学んだ。
突然だが哲学とはとても良いものである。
誰もが疑問に思うが絶対に解明できないこと、そんなものがテーマだから考える人の好奇心を尽かさない。
だって、あなたが、「死」とは何か。と言われて独りで自己完結させることができてもほかの人間の多くを納得させることは難しいだろう。
なぜならそれは人其れゼれ考え方が違うからだ。
「脳死は死」
という人もいれば
「人々から忘れられたときそれは初めて死である。」
と考える人もいる。
考えの違いは人が個人である限りは生まれる当然の現象である。
それは時に争いをもたらし、人を悲しませる。
国教が無い日本人にはあまり馴染みがないかもしれないが宗教戦争もその類の一つである。
時に日本人の多くはこういう事を思っている。
「なぜ、宗教の違いでここまで対立するのか」
これは宗教に入っていないから言えることではないかと思う。
僕は宗教に入っていないし、どちらかというと神とかそういうものには否定的な立場である。
曰く、「宗教は信じる終わりを解いてくれるものである。」
曰く、「宗教とは未知の説明をしてくれるものである。」
僕の解釈としては、宗教とは解明できない未知の事象を説明だてるものだと思う。
先ほどの「死」にしても、「人間はどこから来たのか」などというテーマすらも宗教の教えで説明できる。
そう、宗教とはその人の人生観でもあると思うのだ。
ここまでで不愉快になった人は
全く宗教に詳しくない僕の戯言だと思ってほしい。
だが、宗教にはこのように信者にとっては人生の一部のようなものなのだ。
だから排斥しようとする。
当然だ。
なぜなら人間は異物を嫌う。
年頃の(若しくは年頃を経験した)皆さんはニキビが嫌だろう。
それはニキビが異物だから。
だってほおっておいても何の害もない。
異物を排斥しようとするのは人間の本能である。
だから口で如何に「差別反対」などと抜かしておいても本能的に異物を嫌っている。
人間は未知を好む。
学習本能というやつだ。
だが、同時に未知を恐れる。
既知の情報は安全なものだ。
なぜならその情報を知ろうとした先駆者がいるから。
だが未知は違う。
未知を既知に変えるためにはどれだけの犠牲を伴うのであろうか。
そんな損得勘定はできない。
だから未知は恐ろしい。
一方あげられる功績が歴史に名を残すようなものになることも多々ある。
分かりやすいものでいえば原子論だ。
化合物は原子が結合した分子から成るものであると。
ドルトンという名前くらいは聞いたことがあるのではなかろうか?
この原子論は実は哲学的な思考から始まっていることをご存じだろうか?
哲学などにより「不思議」と言われたものを解明していっているのが現在の科学といえよう。
こんなどうしようもないことを考えているうちに月は沈み今日も平凡に日は登るのであった。
「死」について
今日はなにか楽しいことが起こらないかなぁ
僕は何時ものように未来に期待していた。
無論、何も動かずにただ無為に時を過ごす人間にそんなことは起こるはずがない。
当然である。
自分から新しい物を求めないからである
今の流れていく時間に満足しているわけではない。
だが、なんというか。
そう、思春期の男女を思い浮かべてほしい。
告白したいけど今の関係を壊しかねない。
そんな感じだ。
こんな一丁前のことを考えているが、筆者の僕は思春期真っただ中の高校一年生である。
好きなことは読書、サイクリング、スマホゲームまぁ、いろいろあるが恋愛には生まれてこの方一つの縁もない。
だが、そんな僕にも想い人の一人くらいは居る。
中学の頃の同級生で無論、告白なんてできなかったが。
さて、僕は、毎日に変化を求めていると書いた。
だが、それはリスクが大きいのではないかと。
そこで僕はその変化を起こすために多くの時間を費やして考えた。
いつも見る朝、平凡な時間を変えるために。
そのために僕が考えた最強の後ろ盾。
「常に行動するときに、一月後に死ぬと仮定する。」
本来この手はあまりよろしくないのかもしれない。
なぜなら自暴自棄になりかねないからだ。
だが、臆病な僕にはかなり有効な手であった。
ああ、何をしても後を考えなくていいのか
と考えると非常に気持ちは楽になった。
ここまで読んでくれた方の中には居ないかもしれないが、この世界の最期に想うことというタイトルでライトノベルのそれや恋愛小説のそれと考えた人もいるだろう。
このタイトルの示す、「世界の最期」が何かをここで説明させてもらう。
これは感染に僕の価値観での物の見方なのだが、人はいつか死ぬ。
その死は他者から見たら一個人の死に過ぎない。
だが、死んだ当人から見たらどうであろうか?
それは正しく世界の終わりである。
主人公が死んでしまってはもう物語を紡ぐことはできない。
その人と同じ埋め合わせなんてできないのだ。
もし、僕が死んでしまったら、僕はその世界が僕が死んだことで終わってしまったと解釈する。
だって、死んだ後に世界が動いているかなんてわからない。
自分から見た世界は常に自分中心で動いている。
その中心がなくなったのだから。
逆に言えば、生きている限りは世界は終わらない。
そう信じて疑わない。
さて、現在時刻は深夜三時というところだ。
僕が何を考えているか、まぁ、解るはずがないけど、こんな疑問を提唱してみたくなる程度には孤独である。
今日は何かが変わるかな。
そう考えている。
でも、悲しいことに僕がどれだけ頑張ったところでなぜか僕の世界は変わらない。
友達と映画を見てもどこか虚しい。
空虚、空回りをしている。
そんな表現が正しいだろうか。
きっと僕の世界が変わるときには多くの人が悲しむだろう。
だから僕は世界を変えるを望まない。
遠い昔にそんなことを考えていた記憶がある。
それは比喩ではなく、こんなに語彙はなかったかもしれないが幼稚園の頃にはこんな志向だった。
幼稚園の時に、自分の世界が変わることはどうやら人にとって良くないことだと思った。
なぜなら、みんながパニックになっている(ハチか何かに園児がさされた)のが幼稚園の頃に一番楽しかった記憶だからだ。
思えば昔は奇特な少年だった。
或いはこんな時間にこんなものを書いている今こそ真の意味で奇特なのかもしれない。
付き合いの古い幼馴染のお母さん方は口をそろえてこう言う。
「愛想があってよい子だった」と。
ああそうだろうとも。そう振舞っていたのだから。
そんな愛想が良い僕は昔から日常が嫌いだった。
退屈は不倶戴天の仇である。
人は退屈を紛らわすために様々な遊びを開発した。
だが、幼稚園で遊んだその遊びの多くはじゃんけんでしかなかった。
別にじゃんけんで勝敗が決まるからではない。
ゲーム自体が運の勝負でしかないといいたいのだ。
ババ抜きなどにしても、ある程度卓越すれば表情が表に出ることもなくなる。
体を使った遊びが得意なら少しは認識が違っていたのかもしれないが。
僕は新しいステップに進むたびに変化を期待した。
それは小学校に進学した時もまた然り。
今までの生活から変わることで楽しみを見出せるのではないかと。
確かに楽しかった。
初めは。
だんだんつまらなくなる。
やっぱり単純だと思うようになる。
こういう事を起こすことを見越してこういうルールで縛る。
それは合理的。でも楽しくない。
なんというか。
意外性がない。
そして学校や社会では意外性は求められない。
異物として排斥される。
僕はこんな世界が大っ嫌いだ。
昔から今に至るまで。
さて、人間が一番幸せなのはいつだろう?
僕は寝ている時だと思う。
現実から解き放たれ、夢を見れる。
そしてその状態は死んでいる状態に等しいものだと考える。
というか、そうであってほしい。
輪廻転生なんて勘弁願いたい。
せっかく退屈な世界を追われても、結局戻ってくるなんて地獄でしかない。
でも、人が眠るのには限界がある。
ずっと眠っていたいと思う。
でもそれは叶わない。
臆病な僕は未知というものに阻まれてそれをできない。
また、眠った人に干渉することはできない。
だから日々の眠りを大切にしている。
さえ、突然だが僕の名言を紹介しよう。
これは友人の恋を実らせた一言でもある。
「人生というタンクの水は日々減っている。それが尽きる時がお前の終わりだ。それは次の瞬間かもしれない。だから今を大切にしろ。行動しろ。」
本当に、自分で言っておいて何様だよと思う。
しかもかなり恥ずかしいセリフを。あの時はよく真顔で言ってのけたものだ。
そして、よく笑わなかったなと思う。
読者の皆さんがありがたいことにこの拙い文章を読んでくださっている間にも、読み手の皆さんの人生の一瞬には僕の文章を読んだ時間が蓄積されます。
時間を無駄にしないようにしてくださいね?(笑)
さて、こんな恥ずかしいセリフを知れっと吐いた僕はタンクの水を垂れ流し、水が尽きるのを待っています。
なるべく早く尽きると嬉しいです。
冒頭のいずれの「死」についても、このタンクの水については言えることです。
僕の「死」についての見解はさっきのものです。
皆さんがどう思うのかは非常に気になるところであります。