第5話:先生の言葉、私の心理
★★
「そうね……どこから話を進めたものか……」
先生が、うーんと声を出しながら悩んでいる。
気持ちは分からないでもない。
リアクションしにくい内容である事は、話した自分がよく分かっている。
私でさえも、話した言葉にどのような返事が返ってくるのか予想できない。
ここから先は、先生の真の言葉を私は耳にすることになるのだろう。
それが正しかろうと、間違っていようと、それがこの空間で行われた言葉の真実に辿り着いてしまう。
私は先生に全てを託した。
信頼をしたからこそ――人生の決断を委ねたのだ。
★★
「まず結論から言うと――」
「はい」
「その目標には、ちょっと素直に同意しかねるかなぁ……」
「えっ……! な、何ででしょうか!?」
私は驚いたように言う。
「今の話を聞く限りだと、その友達が描いた絵に感銘を受けて、自身も絵の道を純粋に極めたいっていうことでしょ?」
「……は、はい」
恐る恐る、私は答える。
「それってさ、プロ野球選手になりたいけど、どうすればプロになれるか知らないから、とりあえずプロが居る場所に行けば何とかなるよね、っていう考えに聞こえるんだけど……違う?」
「…………」
「そう、感じない?」
「…………」
「……否定しないは肯定の証。一旦、そう捉えるわよ」
先生は淡々と言葉を口にする。
どのような結論であったとしても、私は言葉を受け入れる覚悟をしたばかりだというのに、既に心が折れそうになっている。
「あらら……なんだか腰に回されている手の握り具合が弱々しくなっているようね。お願いだから、絶対に手を離さないでね」
「…………」
「これも、肯定ということにさせてもらうわよ」
返事を返さない私に対し、先生が言う。
先ほどまでとは違い、話の進め方が少し強引な感じがする。
「……さて、早速あなたの夢を組んであげられないところから展開させてしまった私なんだけど、その答えを出した事についてはもちろん理由があるの。聞いてくれる?」
「……理由、ですか?」
私は泣きそうになりながら、先生に訊く。
「ええ、理由――流石に、あなたの今のエピソードを聞かされた上で、それを何の理由も無しに一蹴してしまうほど、私の心は汚れてはいないわ」
「は、はぁ……」
ならば、最初から心を折るような言い方は控えて欲しい。
「あなたの夢は、とても綺麗で素敵。無口なあなたからは想像もできないような、真っ直ぐな意志を持った強い目標よ――どうか、誇りに思って欲しい」
先ほどよりも、少しだけ優しそうな声で、先生が私にそう言った。
「……でも、その夢を、先生は否定するんですよね?」
「否定……何を言っているの? 私はあなたの夢を否定してなんかいないわよ」
「えっ……! で、でも、さっきは――」
「――『素直に同意はできない』と、私はそう答えたの。その言葉に、完全なる否定の言葉は存在している?」
「…………」
『同意はできない』
つまり、肯定しにくいという言葉の表現。
確かに否定はしていないが――
「……いじわる」
そう言わずにはいられなかった。
「うふふ……ごめんね。でも、私が今出せる結論は『肯定を迷っている』というのが実際のところだったりするのよね」
「迷ってる……」
いつもスパッと物事を言う先生にしては、結論を出しかねているというのは珍しい現象かもしれない。
「そう、迷ってる――私の教え子が、交通事故という苦難を乗り越えて、そこから更に羽ばたいていきたいという強い目標を持っているんだもの。全力で応援したいに決まっているじゃない」
「…………」
「あなたは中学校に入ってから、一生懸命に絵を書いていたことに関しては、私も知っている。人の心に感動をもたらしたいって言いながら、いつも『人と風景』をモチーフにして描いていたもんね」
「…………」
「あなたの描く絵は本当に綺麗――身近な場所を表現しているにも関わらず、どこか異世界に飛ばされてしまったかのような、新鮮で不思議な雰囲気を感じる」
「…………」
「絵に対して常に真剣に目を向けて、六年間というブランクすら取り戻してしまいそうなほどに」
「じゃ、じゃあ……どうして――」
「逆に訊くわよ。そんな素敵な絵を描けるというのに、どうしてあなたは『今』このタイミングで海外に行ってしまうの?」
今――?
「……っ! ど、どういうことでしょうか……?」
少し強めの声で、先生が私に問いかけてくる。
「確かに、海外に行けば様々なものを見ることが出来るでしょう。見たこともない街、文化、自然そして人。海に囲まれた日本には無い、新しい何かを目の当たりにするでしょうね」
「はい。インターネットの画像ではわからないような、その場所に行かなくてはわからない特別な価値観を見ることが出来るのかもしれないと期待しています」
「それは肯定。私も一度だけだけど、海外旅行に行ったことがあるもの。感動は計り知れなかったわ」
「なら、どうして必要以上に海外へ勉強しに行くということに肯定をしてくれないんですか」
先生の言っていることは、私の夢や理念に対して肯定を続けている。
……なのに、なぜか海外へ留学したいということ”だけ”に躊躇しているのか、私は理解は出来ない。
悲しすぎて、もうよく分からない。
バイクに乗っていなかったら、今すぐ耳を塞ぎたいくらいだ。
「……一言で言うならば、そうね……あなたに、悲劇のヒロインのまま大人になってほしくないという事かもしれないわ」
「悲劇の……ヒロイン?」
どういうことだろう……?
「悲劇のヒロイン――交通事故で六年間という時が失われてしまったことを聞いた私は、このままの気持ちで海外に行ってしまっては、あなた自身が幸せになれないままになってしまうのではないかと懸念しているの」
幸せ……
幸せ……?
「あなたの絵については先ほど述べた通り、特別な魅力を感じる美しさがある――でも、一つだけどうしても引っかかってしまっていたことがあるの」
「引っかかり……ですか?」
「そう、引っかかり。今までは深く考えもしなかったけれど、あなたの絵には、どこか悲しみを感じるような雰囲気を時折感じる事があったの」
「悲しみ……? そ、そんな……私はそんな絵は――」
「……分かってる。あなたは人を悲しませるような絵は絶対に描かない。知っている」
私の言葉を遮るように、先生が否定する。
「これはあくまで私の想像にすぎないけど、あなたは悲しみを抱いているというよりも、幸せというものを、まだ知らないのかもしれないわね」
幸せを……知らない?
「……どういうことですか? 私が不幸せだと言いたいんですか?」
思わずカッとなって、強く言ってしまう。
「いいえ、否定よ。学校に通い始めてからのあなたは、とても恵まれた環境で生活を出来ていると思っている」
「なら、どうして……?」
「あなた自身が、あなたの幸せを持とうとしていないから……かしらね」
「…………」
私自身の……幸せ……?
私が、私の……幸せ……?
「あなたは周りからの幸せに恵まれた――だけど、それは自分自身の幸せとして受け取るというよりも、周りの期待に答えて、相手を幸せにしなくてはいけないという事を心の深層で考えていたのかもしれない」
周りの幸せ……?
「六年間という長い時間を辛抱強く待ち続けた周りの人達は、あなたがそこに『居る』ということだけに、ただ幸せを感じている。それを無意識に感じ取ってしまったあなたは、いつしか自分の幸せよりも、自分以外の人だけを幸せにすることを考えるようになってしまった」
「…………」
「あなたは自分以外を幸せにしようとするばかりに、いつしか自分自身の幸せが空っぽになって――ううん、幸せを知らない子になってしまった」
「…………」
「恵まれた環境だからこそ、普段の生活では気づくことはないでしょうけど、あなたは絵描きさん。心の描写が正直に現れるアーティストをしているからこそ、私が気づいたのかもしれない」
私自身の、心の描写……?
「だからこそ、私はあなたが自分自身の幸せを知らないままに、海外に行くことを肯定できなかった……のかもしれない」
……かもしれない?
「……ごめんね、言っていることが随分とバラバラになっちゃって……あなたの気持ちも勝手に推測するようなこともしちゃって。ダメな先生だね」
そう言って、ははっ……と力なく先生は笑う。
「でもね、あなたに幸せになってもらいたいという気持ちは本当。だって、今のあなたは、生きるという事を、本当に精一杯にしているんだもの」
「精一杯……私が?」
「ええ。そこらの学生よりも、ずっと自分自身の生きる目的、やりたいことを真に掴んでいて、それでいて純粋に真っ直ぐなんて、ほんとうに素敵。私が見習いたいくらいよ」
「…………」
私の生き方……自分の、幸せか……
「さてと、私が言えるのはここまでかな。後は、あなたの番」
「えっ……! わ、私ですかっ!」
突然の使命に驚いてしまう私。
「そうよ。私にあなたの人生を決定する権限なんて無いもの。私が言える限りの言葉を伝えたから、最後の決定はあなたがするの」
「え、えっと……」
「ゆっくりでいいから、本気で考えてね」
「…………」
幸せ……
私が、自分が……
『幸せ』か……
……………
…………
………