最後の出勤日
今日でこのバイトも最後か。
ここでバイトを初めて早一年。
大学生の俺にとって、バイトは日常の一部と化していた。それどころか、シフトが割と多くて、学生とバイト、どっちが本業なのかもわからなくなるほどに、ここでの仕事が俺の体に染み付いたように思える。
そんなここの仕事も今日が最後の出勤日。
来月の給与明細のことや、退職してからの時間の潰し方など、思うことは様々だが、それらはすぐに一つの考えによって頭の片隅に追いやられる。
今日もあの子はいるだろうか。
いつからかわからないが、店で細いDQNに絡まれていたのを助けてから、気づけば常連になっていて、たまに世間話もする仲になっていて、呼び鈴も押さずに、俺が近くの席を通るのを見計らって控えめに手を伸ばして、俺がご注文はと尋ねると嬉しそうな顔でメニューを開きながら話しかけてくるあの子。
どこから出回ったのか、俺が今月で辞めると聞いて、とても悲しそうな顔で、「もう2年くらい、続けてくださいよ」と言ったあの顔が未だに忘れられない。
それから俺が出勤する時は必ずいつもの禁煙席で俺を探す彼女の姿があった。
もしかしたら毎日来ていたのかもしれない。
今日もきっといるんだろうな。
制服に袖を通して、タイムカードに最後の出勤を打刻する。
仕事仲間から、最後にお前と組めてよかったぜ、今度は客として来てください、という言葉を背中に受け、ホールの仕事に入る。
木曜日の17時。この時間帯の客層はドリンクバーとちょっとした料理を頼んで耐久戦を繰り広げる高校生、大学生が多めで、主婦の方々は家事や買い物がどうとかで、ほとんどいない。
その中で俺はいつもの窓際、角の禁煙席に目を向ける。
あの子は、いないようだ。
いつもは俺より早く来ているのに。
しかし、今は仕事中。
俺はもう一人のホールスタッフとともに、オーダーを取り、空いた席を片付け、店を出る客の会計をこなす。
すれ違いざまにその同僚が、今日はあの子、こねーのかなと言うので、さあね、と短く話題を切る。
別に彼女が来ないことにどうこう言うつもりもない。
あくまで他人の俺たちに、お互いを拘束する権力なんて存在しないのだから。
ただ、最後の日も、彼女には俺の日常であり続けてほしかったな。
19時になった。
後2時間で俺はここの従業員ではなくなる。
あの子の席は未だに空いたまま。
今日は来ないのかもしれない。
最後の挨拶はどうしようか、そういえば制服もクリーニング出さないと、などと思っていたその時、店の扉が開く音がする。
いらっしゃいませと言いながら、案内に向かった同僚が、あ、少々お待ちください。ご注文承りまーすと言って、突然Uターンして俺が片付けているテーブルの隣のテーブルの客のいるところにやってきた。
お待たせしました。ご注文承ります。
え?とってないです。
あ、失礼しました。
珍しいミスだなと思っていると、そいつは俺の後ろを通り過ぎる時、俺に聞こえるように確かにこう囁いた。
あの子が来た。と。
食器を重ねる手を止めて、入り口を見る。俯いて肩までかかる髪を垂らして、壁に寄りかかって待っているあの子が、確かにそこにいた。
同僚は俺に背を向けながら二本指を立てて、呼び鈴が鳴らされた席へと歩いていく。
行ってやりな。
そう言っているような気がした。
ありがとう。
同僚に感謝しながら、あの子の元へ向かう。
お待たせしました。お一人様でよろしかったでしょうか?
彼女はふっと顔を上げて、俺を確認すると、嬉しいような悲しいような、微妙な笑顔ではい、と答えた。
お席の方、ご案内いたします。
ご注文が決まりましたらこちらのベルでお呼びください。
はい。
ありがとうございます。
いつもの席へと案内して、テンプレートなやりとりをすませる。
口を一の字に結んだまま、黙って俺を見る彼女に、失礼します。と言って先ほどの空いた席の食器を片付けに向かう。
しかしその席はすでに綺麗に片付いており、新たな来客を待っていた。
大丈夫っすよ。今日は客入り少ないから、先輩の仕事は俺がやっときます。
19時に入っていた少しガタイのいいホールの一人が、ニカッと笑いながら俺に言う。
悪い。
短く告げて、あの子の席へと向かう。
ベルを鳴らさない彼女は、俺がいつ通りかかるかと見ていることだろう。
彼女の席へ向かい、その前を通り過ぎようとすると、彼女はいつものように控えめに手を伸ばして俺を呼ぶ。
ご注文ですか?
はい。
メニューを見出す彼女。
俺は待つ。
いつものように、嫌そうな顔もせず。
暑くなってきましたね。
ええ、アイスが美味しい季節ですね。
ふふっ、それじゃあこの季節限定アイスを一つ。
かしこまりました。
後は…
世間話をしつつゆったりと注文をする、最後の日常。
この日は客入りがすくない日だし同僚たちが俺の仕事を肩代わりしてくれているので、この時間を邪魔するものはいない。
そんな日常もデザート、主食、サイドメニューを頼み、ついに終わりが訪れようとしていた。
彼女の沈黙を受けて、注文を繰り返す直前、彼女は後、と追加注文をした。
メニューを指差さず、俺の服を指で掴む。
後、店員さん。
彼女の瞳は俺の顔をまっすぐ見つめている。
少々お待ちください。
俺は注文を確認せずに彼女から離れた。
お待たせいたしました。こちらが…
彼女の席に料理を並べる。
デザートは食後にお持ちいたしますね。
俯く彼女に業務的にそう告げて仕事に戻る。
彼女が食べ終わるまでに、俺の勤務が終わらないことを祈って、スタッフルームで一息つく。
よし。
俺は勢いに任せてメモ用紙を破り取った。
20時になった。
彼女の席の料理は綺麗に片付けられており、残った皿が俺にデザートをもってこいと言っているようだ。
デザートを取り出して彼女の元へと向かう。
お待たせいたしました。季節限定アイスです。
ご注文は全てお揃いでしょうか。
彼女は首を横に振る。
俺は構わず続ける。
それでは、ごゆっくりどうぞ。
伝票を丸めて伝票入れに入れる。
彼女の席を離れるとき、後ろの方で鼻をすする音が聞こえたが、振り返らずに、同僚たちと終了間際まで仕事をし続けた。
時刻は20時52分。
この場にホールとしていられるのも後3分だ。
彼女はまだ席に座っていて、だいぶ前に落ち着いてか
ら食べ終えたアイスの器だけが取り残されている。
後3分の間に、彼女が会計に行ってくれればいいが。
20時53分。
まだ彼女は席を立たない。
食器を持つ手に汗がにじむ。
20時54分。
目を腫らした彼女がついに伝票に手を伸ばす。
伝票に重ねられた端の破れたメモ用紙に彼女が気づく。
20時55分。
メモを見つめた彼女が俺を探す。
最後に目があったその時、俺は少し満足したような笑顔を見せて、店から姿を消した。
これが3ヶ月前の出来事。
慣れとは怖いもので、3ヶ月もすれば、俺がバイトだったことが嘘なのではないかと思えるほどに、あの店でのバイトは俺の日常から消え失せた。
将来のことをうっすらと考えながら、怠惰な日々を送る毎日。今の俺の日常だ。
そして今、俺は再びあの店に来ている。
今日はホールスタッフではなく、一人の客として、店の入り口に立っている。
今日は最後の出勤日に俺と組み、それから一ヶ月後に辞めたという同僚の提案で、2人で退職祝いをしようということになった。
待ち合わせをして、店に入ると、ガタイのいい元同僚が笑いながら俺たちを席へと案内してくれた。
ドリンクバーのみを先に頼み、話に花を咲かせる。
と言っても、同じ大学に通う友人である元同僚のこいつと話すのは、いつもと変わらない教授の愚痴や、周囲の恋愛事情など。
話も一区切りつき、トイレに行く時に、なんとなく気になってあの席を見る。
子連れの家族が、楽しそうに食事を楽しんでいた。
トイレから戻ると、友人の姿はない。
店をぐるりと見回してもいないので、連絡を飛ばすと、ちょっと忘れもんしたから取ってくる。すぐ戻る。という返信がきた。
友人が戻るまでの時間を携帯を弄んで待っていると、ガタイのいい元同僚が俺の前まで来て、こういう。
こちらになります。
言っていることの意味がわからずに、顔を上げて、思わず目を疑う。
あの子だった。
彼女は俺の向かいに座って、恥ずかしそうに、けれどもまっすぐ、俺を見つめている。
元同僚はごゆっくりどうぞ。というと、俺に目配せをしてその場から去って行った。
なんで、どうしてここに、君が。
あの日の手紙の約束を、果たしに来ました。
俺の元へ、見慣れた友人が店の制服姿で料理を持ってやってくる。
お待たせしました。こちら季節限定アイスです。
片目をつむってニヤリと笑うと、友人は俺たちを置いて店の奥へと消えていった。
携帯が震える。
一通の通知。
僕からの退職祝い、迷惑じゃなかった?
後はお前次第だよ。
ははっ…。
笑いか、寒さか、それとも…。肩が震えるのを感じる。目頭が熱くなる。俺は溢れるものを抑えきれずに、顔を覆って腕を濡らした。
スタッフルームで同僚どもとハイタッチでもしているであろう友人に、泣きながらメールをうつ。
また、世話掛けたな。今度、俺も退職祝い用意してやるよ。それもとびきり豪華なやつ。
何度も打ち間違えながら、メールを送信して、溢れる涙と嗚咽が治まってから、今日まで俺のことを見ていてくれた彼女に、あの時最後に見せたような表情で尋ねる。
彼女とともに歩む新しい日常に胸を躍らせながら。
長らくお待たせしました。ご注文、お伺いいたします。
ご覧いただきありがとうございます。
バイトのどうしても暇な時間に、こんな話があってもいいんじゃないかとふと思ったので書いてみました。
飲食店こんなんじゃねーぞという方には全力でごめんなさい。