墓標
「この俺の拳は折れねえよ」
景士の頬に、刃の拳が突き刺さり、頬の肉が波打ち、波紋が浮き上がる。そのまま床に景士はぶっ倒れ、うつ伏せになったところから震えながら上体を起こす。
「刃っ!!!」
立ち上がったその背中に、硝子が呼びかけるが、今の彼にその声は届かない。彼の真っ白な瞳に映るものは、たったひとり。暗闇に喘ぐ友の姿。刀を拾い上げ、斬りかかる景士のその太刀を、足で踏みつけて土台とし、そこから景士の胸元にもう一発拳骨をお見舞いする。刀から思わず手を放して、後ずさりした後。猛々しい咆哮を上げて、刃の頬を殴りつける。頬の内側をかみちぎり、吐血するも、ゆらりと不敵な笑みを浮かべてみせる。すると景士は逆上し、唸りを上げて拳を振り下ろす。それを右手でつかんで、景士の身体ごと引き寄せて、体重をかけて押し倒し、ごろごろと床を二三度転がって取っ組み合う。そこから刃を押しのけて、何とか組手はほどけたが、なおもしつこく刃が食い下がってくる。互いが互いに唇を噛み切って、あざだらけの身体で荒い息を立てながら見合う。
「…こ…殺せよ…俺を殺してくれよ…
なぜ、殺さない。先生を殺したのは…この俺だぞぉおっ!」
「誰が…お前の思い通りになんかさせるかよ…
先生がいなくなったからなんだ?
あの人がいなくても、お前が血迷ったくらい、俺で止められる…。
俺が…お前を止めてみせる」
「…ぬかせぇ、この餓鬼がぁああっ!」
景士が再び咆哮を上げ、刃に殴り掛かる。
彼の眼にも、刃と同じくある過去の景色が見えていた。
景士の耳元で銃声が聞こえる。その銃声を直接聞いたことはない。でもそれは夜毎、彼の身体を蝕む呪いのように耳元にこびりついて離れない。自分から大切な人を奪った銃声だ。日下が狙撃犯の襲撃を受けた。その通達を受けて、景士は日下のもとに駆け付けた。
「せ、先生! 大丈夫ですかっ!」
一心不乱に走って、たどり着いた先の病院ではなぜか、襲撃を受けたはずの日下当の本人がぴんぴんとしているではないか。日下は集中治療室の窓を覗き込み、その背中からは言いようのない憂いが漂っている。
「ああ…、景士…来てくれたのか」
日下は今にも泣きだしそうな顔をこちらに向ける。普段は穏やかな慈愛に満ちた笑顔を絶やさない人物であったはずなのに。思わず景士も動揺するが、同時に彼がそんな表情をしなければいけなくなった理由を知りたくもなった。
「どうしたんですか…? 先生…」
「…すまない、景士……、本当に…すまない…」
「どうして謝るんです、先生が無事で本当に安心しま…」
いきなり日下が謝り出すため、何故か聞こうとしたが、彼が見つめる先のものに景士は愕然とした。ガラス張りの窓の向こう、集中治療室で横たわっていた人物は、左胸に穴が開き、既に息を引き取っていた景士の姉だった。
「……、う……」
「…う…嘘…う…そ… うそ…うそ…… うそ…」
「…嘘だ…嘘だぁあっ! 嘘だ! こんなの…なんで…なんで
姉貴が死ななきゃいけないんだ、なんで。なんで!」
何が何だかわからず、景士はガラスをばんばんと叩く。それを注意することすらできずに日下は、ただただ歯を噛みしめるばかりだった。そんな日下の背中を政府の官僚たちがやってきて呼び止める。
「日下研慈…、あなたの命はもはやいつ狙われているかわからない状態。
あなたの身柄は責任を持って政府が預かることになりました」
なんと薄っぺらい建前だろう。結局は、政府が日下を幽閉して政治権力を失わせることを言いかえたに過ぎない。彼が身柄を預かると称して迎え入れられた場所も鉄格子に囲われた牢獄だった。
「……私に面会とは珍しい」
その牢獄に、景士が面会にやって来た。このときの景士はある決意を胸に固めており、それをかつての師である日下に伝えに来たのだった。
「不甲斐ない姿を見せてしまいましたね…景士」
「…先生、もう…いいでしょう…」
景士は師の言葉を受け流し、自らの胸中を優先する。
「これは、決起するときじゃないんですか…?
いつまで渋っているんです。姉貴は、あなたを身を呈してかばって…
あなたに未来を託したんです。それを無視して…あなたはここで
いたずらに時を過ごし続けている…。もう、俺は我慢できません。
今こそ、決断を下すときです。どうか報復を!
姉貴を殺したこの世界にともに天誅を下しましょう!」
それが、景士が固めてきた決意だった。彼は床に手を付いて土下座をし、それを表明する。だがそれに対して日下が返した言葉は、彼の求めるものではなかった。
「いいえ、今は耐えるときです……」
「…な……何を言ってるんです! 先生!
先生はなにも感じないのですか!
姉貴は、姉貴はあなたを庇って死んだんですよ!
罪の意識はないのですか!?」
「…復讐は何も生みません。復讐は復讐を産み、また復讐を産むだけです。
たとえ、世に憂いがあろうとも、裁きを自らの手で下せば
人は鬼になってしまいます。辛いときでも忘れてはいけませ」
その言葉の先は、聞きたくなかった。もう聞きたくなかった。気がつくとあたりは血にまみれていて、先生と崇めていた師の首が転がっていた。自分が持つ刀からは血が滴り落ちていて、それを生首が渇いた目で見つめていた。景士はそれから、ただの鬼になってしまった。
…殺せ…、この俺を殺せ…
自分で自分を呪うようにして、心の中で何度もその言葉をつぶやきながら、景士は、目の前の刃に喰らいつき、拳を突き立てる。何度倒そうとも刃は立ち上がる。何度捻りつぶそうと、這い上がり、景士の身体に重たい拳を食い込ませてくる。
「…なぜ、なぜだ…なぜ…俺を殺して止めようとしない…
なぜ…俺を…お前は切り捨てない…、何に怯えている……」
「怯えてんのは…お前の方だろ…、何を願ってこんなバカ騒ぎをしでかす」
「うるさい…うるさい…うるさい!
俺もお前もただの、薄汚い鬼じゃないか!
どれだけ足掻こうと、どれだけお高く居直ろうと、もうあの人は帰らない。
こんな世界に何の未練がある!何の価値がある!
姉貴のいない世界に! あの人の…先生の帰らない世界に!
守るべきものが、何もない世界に!」
「…あの人がいなくとも、前に進むことはできる…」
「それが…先生がいなくなったこの世界で、あの人に救われた
俺達ができる唯一のことじゃねえのかよ!」
最後の拳が、景士の頬を打った。
『…復讐は何も生みません。復讐は復讐を産み、また復讐を産むだけです。
たとえ、世に憂いがあろうとも、裁きを自らの手で下せば
人は鬼になってしまいます。辛いときでも忘れてはいけません』
『前に進むことを。あなたが迷うなら、私も迷います。
教えたじゃないですか、あなたがいるべき世界は
人がいるべき世界というのは、誰かを傷つけるために
剣を振るうような、矮小な世界ではないと』
誰が救われて嘆くものか。ただ私たちは日の下の童なり。
「……ふふっ……、先生…俺ぁ…ちっぽけだったな…」
景士は冷たい鋼鉄の床に力なく倒れ伏した後、糸のように細い声で呟いた後、意識を失った。そのあとを追うようにして刃も憔悴して倒れるのだった。
亡者の目覚めとは曖昧なものだ。意識が戻ってもそれが夢かうつつか現実かはっきりとしない。唯一の頼りは感覚がはっきりと効くかどうか。耳が聞こえるかどうか頬をつねられて分かるかどうかで判断すると言った具合だ。
「いだっ!」
頬に痛みが走って、上体を起こすと身体中に鈍い痛みが走るとともに、聞き覚えのある女の声が聞こえる。自分を誑かした女の声だ。どうやら、目覚めたのは硝子の家ということらしい。
「良かった、もう目覚めないんじゃないかと思ってたのよ」
「本当に心配してたのか、なんで全身重症の男の頬つねってんだよ」
「ふて寝している可能性もあるしね。分からないふりしてすっとぼけて
あたしの裸を拝むような男だもの」
「裸かどうかわかっただけで、拝んだ覚えはねえ!」
声を荒げたところで、皮膚に巻きつけられた包帯の感触に気づき、自分の身体からほのかに湿布の匂いがすることに気づく。さらに、下半身にかけられた毛布の柔らかく暖かい感触。
「…おまえが世話を焼いてくれたのか」
「巻き込んでおいて、ほったらかしにするような女じゃないわ。
いい女ってのは、けじめもしっかりするものよ」
いい女というものは、自分で自分のことをいい女と言ったりしないものなのだが。どうやら硝子に手厚く看病を受けていたところからするに、あの激しい立ち回りも夢ではなかったらしい。
「…景士はどうなった?」
「…テロは自ら計画を捨てたそうよ、今は組織のアジトで治療を受けている」
「そうか…邪魔したな」
景士が生きている。バイオテロの計画も取りやめになった。その事実だけ聞けば、もう八咫烏の巣に用はない。まだ鈍い痛みの走る身体を引きずり、立ち去ろうとすると、またも硝子に差し止められる。
「待って、どこに行くのよ?」
「なんだよ、どこでもいいだろうが」
「……ややこしいかと思うだろうけど、あんたのこと…
気になるのよ。またどこかで人斬りにでもなってしまうんじゃないかって」
「…心配ならついて来いよ。墓参りに行くだけだ」
ここに自分以外の人間を連れてきたことはない。なぜなら、自分が勝手にたてた、遺骨も棺桶も埋まっていない、自分で自分のために建てた日下の墓だからだ。硝子は、日下とは面識のない人物であるにもかかわらず真っ先にしゃがんで、片方しかない手を顔の前にかざして拝む。
「おい、俺が先だ…それに、お前が偲ぶ人物でもないだろう」
「いいえ、あの不殺の誓いは…日下の話を聞いて自分の心に誓ったものなの。
太陽の郷の関係者とはよく話していて、それであなたのことを知った。
そうするうちに、自分も日下…いや…、先生のようになれたらって。
自分で勝手に拝借したのよ」
「……道理で似たようなこと言うやつだと思ったよ」
「……ありがとな」
小憎たらしい女だと思いながらも小声でそう呟いたあと、硝子の隣で同じようにしゃがんで黙祷をする。ひとしきり拝んだあと、墓の中にはいない、その人物に一言だけ台詞を吐いた。
「…少しは、俺もましな人間に成れたかね」
返事はもちろん帰らない。
『あなたが本当に先生を慕っているなら
先生がいなくなった哀しみから目をそらさないで
先生を奪った世界への憎しみの中で生きないで』
なぜなら先生は、どこにもいないのだから。