折れない拳
友達は変わらず真っ白な肌をした頭髪のない姿だ。だがあの頃とは違う何か悲しいものを感じる。視覚で彼の姿を捉えることのできない刃にとっては、その違和感だけが第六感的に感じられる。距離が遠すぎてそれが具体的に何なのかは分からない。
「白石…本当に白石なのか…」
「……彼と面識があるの?」
「…ああ、彼とは親友だったさ…」
硝子が驚いた様子が感覚を通して伝わってくる。彼女の首がピクリと動いた音だ。景士と刃が同じ太陽の郷の出自であることを、硝子も知ってはいたが親友とまでは思っていなかったようだ。かつての親友だったふたりは、道を違って今ここにいる。
「…皆のものよ…ついに…時は来た…」
10年ぶり程に聞いた友の声は、冷たく渇いており、憂いにまみれていた。刃が知るあの頃の声ではない。もちろん互いに成長し、声変わりはしている。それでもなお、説明しようのない差異が出てしまっている。声に形はない。だが刃の耳には景士の声が歪んだように聞こえていた。
「永きに渡り、虐げられ続けてきた我々オゾンがついに
制裁を下す時が来たのだ…」
「…何が制裁だ。他人を引きずり落とすことを先生が教えたというのか」
ふたりの道は完全に違ってしまった。景士は刃と同じく日下に読み書きを教わり、光を与えられた身だった。
私は君に勝らない、だが君も私に勝らない。
だから、小さくとどまらず大きな心を持て。
人を分かつことを考えず、人とつながることを考えよ。
己を保つことを考えず、人に施すことを考えよ。
誰が救われて嘆くものか。ただ私たちは日の下の童なり。
その言葉に救われた自分を思い出すとともに、景士に対する怒りがふつふつとこみあげて来る。彼が下そうとしている制裁は、遺伝子崩壊ウイルスを使用した大規模なバイオテロ。それにより、地上の何の罪もない健常者を自分たちと同じ欠損者に貶めようと言うのだ。人徳として許せないどころか、彼の行動は先生と慕う日下の教えを大いに愚弄している。
「…気に…入らねえ…」
「気持ちはわかるが、落ち着け…今は目立った行動をするときじゃないわ」
硝子が制止するも、抑えきれるものではなく、刃の拳は震えていた。
「今宵降る雨は我らが与えし、天罰の雨…」
額に青筋を走らせ、真っ白な右眼と灰色の左眼をひん剥いて怒り露わにする刃。肩で息をしており、呼吸が安定していない。刃の視線の向こうではいよいよ今回の舞台の大役者が出ようとしていた。
「我らを貶めた、忌まわしき雨…」
2対のチェーンにぶら下げられた核弾頭。これに遺伝子崩壊ウイルスが詰められており、それは砲門から装填されて地上に撃ちだされ、上空400mまで撃ちあげられたところで爆発し、ウイルスを地上にまき散らす。最後の爆発は時限式となっており、誤爆を防ぐためのセーフティロックがかけられている。
「我々の心に振り続ける哀しみの雨」
地下での爆発を避けるためには、時間内に核弾頭に衝撃を与えてしまえばいい。衝撃により、セーフティロックが作動し、解除コードを入力しなければ再び起動させることのできない不発弾となる。硝子は、そのシステムを知って、麻酔銃の中に2発だけ実弾を仕込んでいた。
「少々手荒だけどね」
「今宵の地上に降り注げぇえ!」
景士が拳を上げて高らかに叫んだところで硝子がついに引き金を引いた。弾はまず、核弾頭を吊り下げていた弾の前方のチェーン連結部分を破壊。続いて間髪入れず、後方の連結部も破壊する。支えを失った核弾頭はコンクリート製の広間の床に落下し、めりこんで突き刺さる。突然の事態に周囲からは奇声が上がり、それを割る様にして、『セーフティロックが作動しました』という無機質な機械音声が響き渡り、あたりを沈黙が支配した。
「……、誰だ……?」
沈黙を破ったのは、自分が企てた計画に横槍を刺された景士の怒りの声だ。
「随分と無粋なマネをしてくれたな…
八咫烏が…組織に反旗を翻すか…」
景士の眼は、銃を握っていた硝子に注がれる。だが、これを硝子は狙っていた。核弾頭を撃ち落とし、セーフティーロックを作動させるとともに、景士に揺動を仕掛ける。そして、その隙を突くのは白く輝く刃だ。
「無粋なのは…お前の方さ…」
盲目の証である白杖からギラリと輝く刃を引き抜き、柄を相手の鳩尾に目がけ突き刺す。景士は身をかがめて後ずさりをすると、歯を見せてにやりと笑う。羽織っていたローブの懐から、刃渡りの長い日本刀を取り出し、鞘を納める必要はないと一思いに投げ捨てる。コンクリートの上に浅く張った濁り水がぴしゃりと跳ねて鞘がかんからと音を立てて転がると、ふたりはにらみ合う体勢に入った。
「誰かと思えば…組織を捨てた一匹狼の刃じゃないか
久しぶりだな、会えて嬉しいよ」
紫色の唇を舌でなめる景士を、白く濁った瞳で刃が見つめている。
「…しかし、オゾンの計画を阻止するとはどういう了見だ?
我々は、虐げられてきた仲間じゃないのか?」
景士は飛び上がり、上方から長い太刀を振り下ろす。重たい一撃を刃は自らの細い刀で受け止める。2本の刀の刀身の差は歴然たるものだった。もとより、抜き身を見せないほどの抜刀術にお誂えた細身で鋭い刀は、鎬を削り合うような立ち合いには至極向いていない。振り払おうにも、相手の刀に質量で負けてしまっている以上、手こずってしまうのだ。
「先生の教えを違うものを仲間とは言わねぇ…」
「うつけと呼ぶんだ」
押し切ること諦め、左に相手の刀を受け流し、隙が生まれたその脇腹に斬りかかろうかとしたそのとき、耳元に硝子と交わした不殺の誓いが木霊する。隙が生まれてしまったのは刃の方だった。背後に忍び寄る影が引き金を引き、銃声が撃ち鳴らされる。銃弾は背中上部、首の付け根に命中。どうやら、とうとう周りのものも加勢に入り始めたらしい。
「刃っ! 気をつけろ! 白石に気を注ぎすぎるな!
敵は四方から襲ってくる」
「ならばお前も…あの男に気を取られすぎるな…」
硝子の右肩に鋭い激痛が走る。投擲に使う小型ナイフが、彼女の右の肩を打った。幸い、刃を突き通さない特殊繊維であるため、出血は免れたが関節のツボを遠距離から的確についている。唯一の右腕の神経が麻痺し、手の平がほどかれて武器であるヌンチャクが地面に落ちてしまう。手と得物を失った八咫烏に、男どもが群がる。それを足払いで蹴散らすも、両の腕のない状態で戦い続けるのは困難を極める蹴りは強力な攻撃だが体感のバランスを崩しやすく、消耗も激しいのだ。肩が激しく上下し、荒い息になる。まだ右腕の感覚が回復してくれない。
「哀れだ…、不殺の誓いなど何の役に立つ」
刃も同じ手口を仕込まれていた。彼の身体に背後から撃たれた銃弾は、ちょうど延髄の部分に着弾。呼吸と全身の運動を司る筋肉の束があり、重度の衝撃が与えられれば、全身麻痺の後遺症も免れない。それだけでなく、即効性の麻痺ももたらされる。ぐらりと高台の床に崩れ、刃は喘息を患ったような細い息で喘ぐ。
「…お前もそんな安い流儀を立てるようになるとは、
八咫烏に謀れでもしたか?」
不甲斐ない刃の悶えを景士が嘲笑う。そこにかつての友の面影などない。視線でなじりながら、刀を振り下ろす。刃はちぎれそうな神経になけなしの精を注ぎ入れ、立ち上がるとともに床を蹴って後ろ向きに跳ねながら、景士の剣を下方へと打ち払う。剣は床に打ち付けられて、金属音を立てる。そして生まれた一瞬の隙。それを敵も見ていたのか、今度は周りから剣客が押し寄せてきた。その間にまんまと景士は体勢を立て直し、にんまりとほくそ笑みながら、再び核弾頭を砲門に装填しようとする。
「させるかぁあっ!」
刃は白い瞳をひん剥いて歯を食いしばり、剣客の背中を蹴って宙に跳ねる。景士の背中に掴みかかって景士をあお向けに押し倒す。刃を突き立てようとしたところでまた耳元に木霊する硝子の声。腕がぴたりと止まって動かなくなれば、景士の肩が震えて笑い声が聞こえてくる。
「そんなものお前には枷にしかならない。諦めろ…。
お前はあの八咫烏に誑かされてそんな枷に苦しめられているが、
お前に不殺の誓いを最初に叩き込んだのは、
他の誰でもない先生だったじゃないか…」
景士は、身体を回転させ、刃を引き摺り下ろして床に抑えつけようとするが、すり抜けられてしまう。刃の麻痺も少し薄れてきたようだ。だが彼には何よりもの枷がある。日下と最初に出会ったときに立てた不殺の誓い。硝子と立てた不殺の誓い。
「もう足掻くのはよして、楽になろうや。お前は所詮、ただの人殺しだ。
ただの教えを外れた餓鬼に過ぎないんだよ。
どれだけ、道をはぐれようと、もう…あの人はどこにもいない…」
淋しそうに付け加えたその一言に、刃は琴線をまさぐられて怯んでしまう。
『…随分と人を斬って来たんですね』
『随分と人を斬ったのね』
耳の中に木霊をするのは、自分に会った日下と硝子が口走った同じ台詞。
『その剣は捨ててください。人に傷を与える鬼になっては
悲しみが増えるだけですよ』
『あたしの前では、人の首を切ることも手を切ることも許さない』
自分がふたりと立てた誓い。自分はそれを一度忘れて、思い出した。なぜなのか。苦しかったからだ。とてつもなく胸が痛くて、張り裂けそうだったからだ。自分が慕っていた人物の生首が己に向けていた視線が、己の不甲斐なさを詰っているようで、攻めたてているようで、逃げたかった。目を背けたかった。この世界の全てが、憎かった。憎くてたまらなかった。この左眼に映っていた全ての景色、これからも映り続けるであろう、守れなかった自分の咎。
『結局逃げてるだけじゃない!…あなたは先生のいないこの世界から
目を背けたかっただけじゃない!』
「お前は…俺達は先生の教えなど守れやしない」
動きが止まった刃の顔面に、景士の白い五本の指が突き刺さる。刃の後頭部は鋼鉄の床に重たく鈍い音とともに打ち付けられた。
「もう、そんな約束は捨てて楽になろうや…。あの八咫烏は
俺の邪魔をしたいがために、お前を利用しただけだ。
あの女に先生の代わりなどつとまるものか…。
あんな女の言葉など忘れてしまえばいい。
約束を違って、俺を殺せ…。それが唯一の俺を止める方法だ。
それが出来なければ、俺がまた道を違うだけだ…。
もう、俺達を正すあの人はどこにも…いないのだから…」
景人の手を振りほどこうとするも、床に打ち付けられた衝撃で脳震盪を起こしており、激しい耳鳴りと目眩に苛まれて、身体が言うことを聞かない。
そうだ…。俺は、どう足掻こうが…道を違ったただの餓鬼。
憧れなんぞに、成れやしない…。
闇に閉ざされた視界が一瞬元に戻った気がした。だが、それは最後の走馬灯が作り出した幻影にすぎない。幻影の中で白い男は、悲しい笑みを浮かべながら、深緑色の巨大な鉛色の弾に手を伸ばす。その弾は世に災厄をもたらすもの。男を止めようと必死に自分の手を伸ばす。
どうすればいい。俺は…。
身体が金縛りから一瞬解放され、刃は刀に手をかけ、白い男の背中に斬りかかる。だが、抜き身を見せたとたんに、刀身がぽっきりと折られていることに気づく。
俺には、友を斬る剣もない。俺には、友を見過ごす勇気もない。
…先生、俺はやっぱり…ろくでなしだ…。
あなたに救われた命の使い道さえ分からない。
あなたがいたときはそれが分かるような気がしていた。
でも、結局…俺は…あの頃のまんまだ…。
あなたに出会う前の…人を殺して生きていた、あの頃のまんまだ。
「おい、見ろよ…日下とか言うやつじゃないのか」
「ほんの数日前まで政府の高官に迎え入れられるって話が、それを蹴って
刀一本だけでふらつく穀潰しになったそうで、親族から勘当されて
晴れて浪人の仲間入りとか噂が出ていたが、まさか本当だとはね」
「おいおいおい、姿見ただけだろ?」
「でなけりゃ、こんな落ちぶれた路地裏をうろつくはずがないだろ?」
ここはどこなのだろうか。明らかに現実とは違うどこかで、刃の意識が目覚める。耳元にはどこかでうっすらと聞き覚えのある罵詈雑言。
「やっぱり人間、頭が良すぎるとどっか壊れちまうのかね」
「ろくでもない立ち話していたら、ここいらで噂の白眼の刃とかいう
人きりに会うかもしんないぜ」
「巷で噂になってる、ゴロツキ切り裂いて金品くすねとる餓鬼のことだろ?
なんでも右の瞳が潰れて真っ白になった鬼のような面したやつらしい」
「へぇ、世の中にはいろんな噂があるもんだな」
白眼の刃とは、昔から使われている自分の通り名だ。ここで刃はあることに気づく。自分の眼が見えているのだ。驚きはこれだけにとどまらず、さらに自分の手を見やると縮んでいる。背も手足の長さもまるで少年のそれだ。右手には見覚えのある刀がひどく刃先が血に汚れた状態で握られており、自分の衣服も帰り血にまみれていた。そして、目の前に倒れている、首のないひとりの男。
「…こ、これは…」
「…随分と人を斬って来たんですね」
背後から聞こえたのは、自分が慕う日下の声だった。
「仕方なかった…、そう言いたげな顔をしていますね。
子供がそんな歪んだ顔をしてはいけませんよ」
「…子供…? 馬鹿にするなっ!」
「私はあなたをけなしてなどおりませんよ」
刃が先生と呼び慕う日下が、彼に初めて向けたのは、他のものが彼に向けるそれとは明らかに違っていた。そこには侮蔑も恐れも、何もなかった。代わりに冷たくなってしまった彼の心を包み込むような慈愛があった。
「あなたが若く、いくつもの未来に満ち溢れている
ということを言っているのです。あなたがいるべき世界は、
人がいるべき世界というのは、誰かを傷つけるために剣を振るうような、
矮小な世界ではありません」
「…わい…しょう…?」
「その剣は捨ててください。人に傷を与える鬼になっては
悲しみが増えるだけですよ」
その場を去ろうとする日下の大きな背中がはたりと止まる。
「何をそこで止まっているんですか。
あなたの帰る場所は私が用意しますよ。
ですから、あなたは前に進むことを止めてはいけません」
「ただ一心不乱に前に足を踏み出せば、答えは見えてきます。
忘れないでください。私はいつもあなたたちとともに…」
『前に進み続けるだけです』
意識の中に再び光が舞い降りる。石のように動かなかった刃の右腕が、景士の右の手首を力強く捕らえたのだ。とっくに刃が抵抗する術はなくなった。半ばそう考えていた景士は狼狽する。
「なっ!ば…馬鹿な…とっくに剣は折れたはず」
「折れてねえよ」
刃の右腕に青筋が浮き出て、景士の手首がひねられて、引き剥がされる。精根尽き果てたはずの男が、目の前で真っ白な『死んだ瞳』に蘇るはずのない眼光を取り戻していく。
「この俺の拳は折れねえよ」