友人
コンクリートの床に刃の膝がすとんと下ろされる。その反応が、硝子から告げられた事実の残酷さを表していた。
「…ほ、本当なのか…」
「あたしの情報に愚かはないわ…。
こんなバカげたこと、あたしは止めたいの。
あなただって、同じ考えのはずよ」
あたり前だ。自分たちが散々苦しめられてきた欠損を、何の罪もない人々たちに逆恨みで強制させるなど言語道断。そんなことをしても、誰ひとりとして喜ぶわけがない。分かったと呟き、首を縦に振ると硝子は「決まりね」と不穏な笑みを漏らす。そして、抱き付いて耳元で囁くようにしていた喋り方も、まるで舞台袖の向こうの女優のように、全ての演技をほどく。まずは、ほくそ笑みながら刃の頭を掴んで無理くり、壁の方に向けさせる。
「服着るからあっち向いてて。このスケベ」
「…お前…俺の眼になるとか言ってなかったっけ…」
「なに、勘違いしてるの? あなたに好意があって抱き付いたりしてないわ。
あなたを利用したいと思って抱き付いたの」
壁に向かって刃はポカンと口を開けて間抜けな顔をする。自分はこの女にまんまと謀れたのだ。そんな刃を尻目に、硝子は下着にシャツを羽織っただけのところから、動きやすい、防弾線維でできたレギンスを履いてその上からショートパンツを着用し、上半身も防弾線維のグローブにジャケットを羽織り、黒装束の姿になる。
「向いていいわよ」
「俺を謀ったのか?」
「言ったでしょ? 男を出し抜くには狡猾さが必要って。
でも安心して、あたしが言ったことに嘘はないわ」
ややこしいことをする女だ…。
ため息混じりに心の中で呟いて、張り倒されたり、壁に抑えつけられたりして身体についた汚れをはらい落とす。白杖から仕込み刀を引き抜き、慣れた手つきで血を拭きとっていると硝子が再び話しかけてきた。
「随分…人を斬ってきたのね」
「ああ…」
硝子が気になったのは、幾度にもわたって血を拭きとったがために、赤茶色に変色した襤褸切れだ。取り替えても、血の汚れがすぐに染み付いてしまうため、何年も同じものを使っている。
「白眼の刃。真っ白な瞳で見つめられた者は、もう二度と
次の呼吸をすることがない…」
「それがなんだって言うんだ…?」
「…どうして、人を斬ったの…」
硝子の持つ長束の短刀は血がひとつつくことなく綺麗なままだ。彼女はそれを、剣を受けるか、ツタや有刺鉄線を切る際のサバイバル用としか使用しないそうだ。人を自らの手で殺したりすることは絶対にしないと、己の中に不殺の誓いを立てているのだ。もうひとつの彼女の武器であるヌンチャクはまさに不殺の誓いを表すもので、致命傷を避ける目的で使っている。対して、刃の生き方は真逆だった。その違いは、ふたりの出会いにも表れていた。硝子は致命傷を与えず、己の技と気迫で、反撃する術を奪った。だが刃は最初から背後を一思いにぶった切っており、斬撃を喰らった男は二度と起き上っていない。人を殺して彼は生きている。彼は金を貰って指定された人物を殺す侠客をやっていた。身元がばれるなどして自分の命に危険が出る際も躊躇なく喉元をかっさいた。対象は、オゾンまたは非所属で爆弾テロなどを犯す暴徒や治安を乱す暴君がほとんど。同じ欠損者で考えを同じくする者や、己を理解してくれる少数の人間に関しては殺さないことにしているが、その白い刃で殺めてきた人の数を考えれば、盲目の侠客『座頭市』の名にふさわしい。
「あたしの計画に賛同するなら、あたしの流儀に従ってほしい」
「…俺に不殺の誓いを立てろと? 冗談じゃない」
「よく考えて…あたしたちはオゾンの計画するバイオテロで欠損者が
増えないように止めに行くの…、その剣を血に染めれば、あなたは
その手で欠損者を増やすことになってしまう。
だから、あたしの前では、人の首を切ることも手を切ることも許さない」
「相手に情けをかけろとでも言うのか?」
「反抗する術を相手の外傷を最小限にして奪うの。
無理だと思ったらこれを使っていい」
そう言うと、硝子は護身用の麻酔銃を手渡してきた。銃弾はリボルバー式で6発と限りがある。そのすべてが相手を死に至らしめずに、意識を一時的に無くさせる麻酔弾だ。
「嫌だと言ったら?」
「ここでお別れ…、あなたにアジトの案内もしない。
組織を離れて久しいあなたは、大いに困るはずだわ」
「ずるい女だ」
「どういたしまして」
ふてくされた笑みで刃が吐いたセリフに、悪戯っぽく微笑みを返す。もとより硝子を褒めたつもりは毛ほどもないのだが、したたかな生き方をしてきた彼女にとっては、ずるいという表現が褒め言葉に捉えられたのかもしれない。渋い顔をしながら刃は、慣れない手つき銃に麻酔弾を込めていく。
「こいつも使って」
硝子に渡されたバンド付きのレザーバッグに麻酔銃を入れ、それを右の太ももに巻きつける。
「用意がいいな。いつから俺を誘う気でいた?」
「だいぶ前からよ、あなたは神出鬼没だから探すのに苦労した」
硝子も同様の作業をするが、実に慣れた手つきだ。同じ作業を刃は1分強ほどかかってしまったが、硝子はその半分にも満たない数十秒で麻酔銃の装備を終えてみせる。もとより、目が見えないというハンディキャップを考えれば、刃も尋常ではない早さなのだが。さらに防弾線維のレザーコートも刃に手渡す。
「女物だけど、大き目だから細身のあなたなら着れるはずよ」
言われた通り着てみると、少々肩が突っ張るものの刃の細身の体型にぴったりと合う。すべての装備が終わったところで、硝子は今度は防弾グローブを外して右手を刃の前に差し出した。
「ここでもう一度約束して…どんなことがあっても
手は汚さないと…」
「…、……ああ…」
しばらく間をおいて、刃は硝子の華奢な拳を掴み、固い握手を交わす。
「覚えていて…、あなたが本当に先生を慕っているなら
先生がいなくなった哀しみから目をそらさないで
先生を奪った世界への憎しみの中で生きないで
その気持ちがあなたの中の最大の敵になるわ…」
握手を交わしながら、彼女が蛇のように鋭い眼光で語り掛けてきたその言葉にはまだ少し、分からないまま刃は首を縦に振った。鉄製のドアをノブを回して開け放ち、オゾンのバイオテロ計画を阻止すべくアジトへと足を急ぐ。残された時間は少ない。
薄暗く湿った不衛生な地下から、さらに不衛生な場所にふたりは来ていた。先程までいた地下街ではネズミはたまに出る程度だが、ここでは我が物顔で群れを成して歩いている。ゴキブリもそうだ。普通の女子なら奇声を上げて逃げ惑うこの光景の中で、硝子は平然としている。
「たまげたな。この中で平気とは…」
「平気じゃないわよ、むず痒くて仕方ないわ」
「アジトは下水路の奥か」
「ネズミの巣には相応しい場所でしょ」
「組織からすれば、ネズミはこっちだろ」
「違いないわ」
シニカルなジョークを飛ばしながら、下水路を奥へ奥へと進んでいく。途中、下水が流れる川の対岸へと渡り、道中に不自然にぶら下がる裸電球を伝っていくようにして進んでいく。この裸電球の列はオゾンのアジトと、地下の街をつなぐ道しるべとなっているのだ。そして、裸電球の導線はバルブのついた鋼鉄のドアの前で止まる。
「…ここよ…」
硝子がバルブに手をかけようとすると、刃は身構える。これから戦地に向かうというのだから武器をいつでも出せるようにしておかなければならない。だが硝子はその必要はないと差し止める。バルブがまわされ、いよいよオゾンのアジトが露わになる。地下のオゾンのアジトは入ってすぐに大広間へとつながっており、中は多くの人でごった返していた。その皆が皆、身体に外的欠損を持った欠損者であり、何やら上方を仰ぎ見ている。
「…何か感じるな…大きな砲台だ、対空砲かなにかか…」
「当たりよ…」
広間には巨大な対空砲が鎮座しており、その砲身はアジトの天井を貫いて地上へとつながっている。その砲門のあるところは2階建てほどの高さがる高台となっており、開かれた砲門の扉の前にはひとりの男が立っている。
「砲門のところに立つ彼が…今のこのテロ組織オゾンの首領…
白石景士、今回の計画の首謀者よ」
「…白石…」
聞き覚えのある名前だった。まだ、左の眼が生きていた頃の記憶を頭の中で探る。すると現れたのは自分と同じ年頃の少年の姿だった。少年はまことに奇妙な姿をしている。欠損者ばかりが集まった太陽の郷では、健常な身なりをした者を見ることが珍しかったが、その中でもとりわけて彼の姿は奇妙だった。頭髪のない頭には青い静脈が浮き出ており、全身が青みを帯びた真っ白な病的な肌で、ドーランを塗りたくったように見える。彼の欠損はアルビノだった。
「先生、そこには誰がいるの?」
記憶の中で、刃は日下に尋ねる。日下は太陽の郷の一角にあった開かずの間と呼ばれるところのふすまの前に立っていた。他の皆は近づかないようにと言われている場所だ。それを刃も知っていたがどうしても気になってしょうがなかったため、彼に尋ねたのだった。
「先生、誰が中にいるの?」
「…怖がり屋さんだよ」
日下は優しく笑いながらそう答えた。太陽の郷には己の置かれていた境遇から、心を閉ざしているものも数多くいる。開かずの間の向こうにいる者もそのひとりだった。
「景士、外に出る気にはなったかい」
「嫌だ。どうせみんな白いのとか、白い化け物とか僕を呼ぶんだ」
景士は、ふすまの向こう側から声を漏らす。
「こういう具合だよ。彼には別の時間を設けて教えているし
ご飯もなるべく一緒に食べるようにしている。だけど…
景士は、この部屋から出ようとはしてくれない」
「…入るのも駄目なの…?」
刃が訪ねると、日下はにっこりと笑う。
「ここには、私ともうひとりの人物、彼の姉さんしか入ったことがない」
景士には唯一心を開く、歳の離れた姉がいた。景士の姉は、彼とは違いアルビノを持っていなかったが、景士と会話をするためよく太陽の郷に出入りしていた。景士を日下のもとに預けたのも彼女だ。景士が少しでも自分以外の人間と交流を持つことができるようにと頼み込んだのだ。それもあってか、日下と景士の姉もよく会話をし、景士の顔を見に来たついでに話し込むこともあった。その姉はその日もこの太陽の郷を訪れていた。
「…噂をすれば…だな…」
「…もしかして、うちの景士の友達になってくれるの」
後ろから声がすると、景士の姉がしゃがみこんで刃の顔を見つめ、優しく微笑んだ。慈愛に満ちた微笑みは日下のそれとよく似ている。刃は彼女と面を向い合せたのはこれが、初めてだったが一瞬にして彼の中での警戒心は解かれてしまった。こくりと頷く、刃の手を引いて彼女は、開かずの間のふすまをそっと開ける。そこにいたのは白い肌をした少年だった。
「お、お姉ちゃん…なんで連れてきたんだよ!」
景士は刃の顔を見るなり、慌てて布団の中に隠れてしまう。一瞬、刃の眼には彼の姿が目に入ってしまった。全身が白い色をした少年。自分の右の瞳と同じ、真っ白だ。見たことのない変わった姿であることはわかった。だが気味の悪さは感じられなかった。
「景士…落ち着いて…」
優しい声で自分の弟に呼びかける。布団の奥でじたばたともがく景士の心は不安にまみれていた。どうしていいかわからず、刃が日下を見上げ、助けを求める。すると、日下はただにっこりと笑い、こう言った。
「…大丈夫だよ。君なら…大丈夫だ…教えただろ。
私は君に勝らない、だが君も私に勝らない。
だから、小さくとどまらず大きな心を持て。
人を分かつことを考えず、人とつながることを考えよ。
己を保つことを考えず、人に施すことを考えよ」
刃もよく覚えていた太陽の郷で何度も聞かされた詩だ。それに続く言葉を刃が付け加える。
「誰が救われて嘆くものか。ただ私たちは日の下の童なり」
刃は師の教えに従い、景士の潜り込む布団をそっとめくる。そして、両の手を使って思いっきり口角を横に引っ張って変てこな顔をつくってみせた。
「やめろって言ってるだ…ぶふっ…」
思わず景士が噴き出してしまう。なおも刃がその変な顔を見せつけてくるので終いには笑いが止まらなくなってしまった。
「ははは、面白いことを考え付くなぁ、刃…。
少しやられたよ。青は藍より出でて藍より青しとはこのことかね」
そこで何を思ったのか今度は、景士が変てこな顔をつくってみせる。刃は不意を狙った景士の変顔がツボにはまってしまい笑い転げる。そんなやり取りを繰り返すうち、終いには4人が笑い合うようになった。それから刃と景士は友達だった。太陽の郷の中で誰よりも仲の良い友達だった。
友達…だった…。