オゾン
刃は、硝子に手を引かれて彼女の家まで案内される。手を躊躇なくがっしりと掴んでぐいぐいと引っ張るあたり、かなり勝ち気な女性のようだ。
「おい、そうご丁寧に手を引かなくたって、俺は歩けるぜ」
「何よ。あたしに手を握られてまんざらでもないくせに。
それに、せっかく掴んだ得物に逃げられたら困るんですもの」
おまけに、自分が上玉であるという自覚を持った厄介な高飛車女。少々つきあうには骨が折れそうだ。刃の手を引く速さもとても親切さを感じさせず、走らなければ調子を合わせられないほどだ。もちろん硝子も走っているのだが、彼女自身身長が高めであり、体力も運動能力も刃と互角なため、おちおちと歩いていてはついて行けない。
半ば何かに追い立てられているかのように、ふたりは煉瓦造りの集合住宅の中の一室に逃げ込んだ。地下にある安い賃貸のようなものだ。レンガを積み上げて造られているのだが、施工が雑で隙間が空いていて、外から雑音やぼんやりとした光が漏れてくる。それだけならまだしも、冷たく湿っぽい隙間風が通り抜ける始末。居心地は至極悪いものの、路上生活者も多くいるこの地下の街では暮らしの水準としてはこれでも高い方だ。
「さあ、着いたわよ。ここがあたし、八咫烏の巣。
男を連れ込んだのはあんたが初めて。光栄でしょ」
高飛車な言動ももはやここまで来ると鼻にかけているようでイライラしてくる。たしかに硝子は、少し男顔で短髪ならば美少年と見えてしまうほど。眼光が鋭く鼻筋もくっきりとしており、端正な顔立ちだ。四肢も長くしなやかで、肌は透き通るように白く、それでいて健康的な血色も併せ持っている。美女といっても十分差支えないのだが、だからと言ってここまでの言動をされては冷めるというものである。
「シャワーでも浴びようかしら」
そう一言つぶやくと、硝子はなんと服を脱ぎ始めた。
「ガチムチに触られたら、効率の悪い筋肉のつき方がうつっちゃうわ。
あんなにごつい身体してあたしにあしらわれているんだもの」
硝子は刃の前だというのに、何一つたじろぐ様子すら見せずに一糸まとわぬ姿になる。これには刃がたじろいでしまい、思わず硝子に服を着てくれと口走る。
「なによ。どうせ見えないんでしょ?」
「いや…」
ここである矛盾に気づいた硝子が顔を赤くし、バスタオルを肩にかけて胸元を隠す。そして間髪入れずに右手の人差指と中指で刃の両の眼の眼球をひと突き。
「いだぁっ!なにすんだっ!」
「見えてるなんてざけんじゃねえよ! 目ぇつぶってろ! このスケベ!」
「み、見えてるわけじゃね…ただ雰囲気で感じるんだ…
何というか服を介さない人肌のぬくもりが香りとなって鼻に感じられて…」
「うるさい、余計にいやらしく聞こえるから黙れ!」
黙れとは言いつつも、硝子は刃に協力を申し出ている以上言葉を交わさなければならない。だがその前に、硝子自身も刃に興味津々なようで不機嫌な顔はスッと晴れて、バスカーテンの向こうでシャワーを浴びながら刃に話しかけはじめた。
「噂通り面白い男ね。光のない両の眼を補うために他の感覚が
研ぎ澄まされているというわけか…」
「心眼とも言えるものかね。昔俺を匿っていた物好きな奴が教えてくれたよ。
オゾンの重要人物で、俺達は先生と慕っていたよ…」
「…日下研慈のことか…?」
欠損者は社会的に虐げられてきた障害や奇形を持った者の呼び名で、オゾンは彼らが結成した組織の名前だ。硝子はバスカーテンの向こうから刃が先生と仰ぐ人物を言い当ててみせる。彼の名はオゾンの組織の重鎮であり、組織の中で名前を知らないものはいない。
「知っているのか?」
「知らないはずないじゃない。正直あなたが羨ましいわ。
あたしも…落ちぶれた今の組織なんかより…、
日下のいる太陽の郷で育ちたかったなぁ。あたしが日下の存在を知ったのは、
組織の拠点が地上から地下に移って、何もかもが落ちぶれた後だった…」
今でこそ、欠損者たちは一部を除いてこの治安の悪い地下に身を置いている。ふたりが言うオゾンという組織の拠点も今は地下だ。この地下街は政府の捜査を逃れるために築かれたもので、そこに一部の健常者でありながら落ちぶれてしまったゴロツキどもが仮住まいで済んでいる。そのせいで治安状態は急降下してしまった。それどころか中には、政府への口止め料と称して金をせびるものも現れ、この地下での欠損者の生活を大いに苦しめている。刃を呼び寄せるために、硝子がわざと襲われた暴漢どももその類だ。
硝子は頭を洗っているのか、長い髪を洗う音と、シャンプーの香りが漏れて香ってくる。洗い髪をたくし上げながら語る声にはどこか哀愁がある。それは太陽の郷である意味恵まれた育ち方をした刃と、孤児として野良犬以下の扱いを受けて育ってきた自分とを比較しているからなのだろう。
「ああ、俺も今の組織に興味はない…。先生がいなくなっちまってから
オゾンは政治的機能を失い、ただのテロ集団に成り下がった
いや…、戻ったと言うべきか…オゾンはもとより、テロ組織だったからな」
硝子のように、左腕が存在しないなど身体に欠陥のある者。刃のように眼が機能しない亡者。あるいは、耳が聞こえない聾者。鼻が利かない、学習や記憶能力の発達障害。はたまたは臓器の欠損や、両性具有など、身体的欠陥を持つ者は欠損者と呼ばれ、人権をはく奪され、社会的に虐げられてきた。そんな中で彼らは自らの人権保護を唱えるためにオゾンという組織を結成。この頃はまだ、オゾンの拠点は地上に存在していた。オゾンは、政府が欠損者につけることを義務付けていた鑑札に書かれていた『OUT OF ORDER』の頭文字が3つのOであり、オゾンの分子記号に一致することになぞらえてつけたものだ。
ネーミングの由来としてはよろしくないが、オゾン自体もともとテロ組織でしかなかったため、政府の意を逆手に取る目的からも、この名前を用いていた。日下が建てた孤児院、太陽の郷は、もとはオゾンとは関わりがなかった。日下が孤児院だけでなく政治活動も始めてから、保護対象としてオゾンの中心人物たちと交渉していたのだ。政府に対する武力蜂起の撤廃をオゾンに持ち掛け、その代りに欠損者から奪われた市民権を必ず取り戻すとの契約だ。日下はこの契約により、オゾンの政治参謀として召し抱えられることになった。これが刃や硝子が言うところの、組織が最もうまく行っていた時代なのだ。
「…惜しい人を亡くしたわね、本当に…」
「…ああ、あんな物好きは、後にも先にも先生しかいなかろうて」
欠損者の人権獲得のために活躍していながら、驚くことに日下は健常者であったという。それどころか何もかもが与えられたような人物で、端整な顔立ちの美男であり、文武両道の才と清らかな心を持っていた。そんな恵まれた人物が何を血迷ってか、社会的虐待を受けていた欠損者を囲う施設をつくり、人権獲得のために政治活動までするようになった。だが、そんな時代も永くは続かなかった。
「…俺の最後の左の瞳に映った景色を俺は忘れない…」
その言葉にシャワーを終えて身体を拭いていた硝子がピクリと反応する。彼女はてっきり、刃の両の眼は生まれつき見えていないものだと思っていたのだ。下着をつけて薄手の長そでのシャツに袖を通すが、下はショーツのままで、壁にもたれかかって座っている刃の前にしゃがみ込む。
「左眼って、あなた最初から見えてなかったんじゃないの?」
「生まれつき見えないのは右眼だけだ。 それより服を着ろ」
「これくらいだったらあんたの目の保養になるかもよ。
もしかしたら、治っちゃったりして…」
恥じらいがあるのかないのかはっきりしない言動は、誘っているともからかっているとも取れる。どこか自尊心をなぶられているようで、刃は口を少し歪める。
「俺を誘っているのか…?」
「さあね、欠損者として長年虐げられている身で女伊達なんかやってたら、
こんな開けっぴろげな性格になっちゃうのよ。
男を出し抜くには女は狡猾でないと生きていけない…特に欠損者はね」
「ああ、そうだな…胸がな…ぐぁ…」
言いかけたところで、刃は顔面にアイアンクローを喰らわされて、壁に叩きつけられる。
「今度言ったら、マジで殺すぞ。欠損は腕の方じゃぁ!」
「…は…はい…」
男女経験は刃も多い方ではないがここまで、勝ち気な女性は生まれて初めてだ。右手をほどいて、しゃがみこんでいたところから脚を崩して女座りになる。
「で? その左眼の話…聞かせてくれる?」
失言を犯したのは刃の方だが、完全に硝子のペースに乗せられている。刃の両の眼はよくよく見てみると確かに違う。右眼は眼球の瞳の部分だけが白く変色していて、他の白目にあたる部分は綺麗なままだ。しかし、左眼は眼球全体が薄汚い灰色に濁っている。
「この左眼に最後に移ったのは、今のこの目と同じく…先生の濁った眼だった。
先生は首から上だけの状態で俺を虚ろな眼差しで見つめていたよ」
刃の見た最後の景色、それは目の前に差し出された先生の生首だった。下手人は今も知れず、オゾンの中心人物数人とともに河原でさらし首にされていたという。それを見てから、もう左眼には何も映らなくなってしまった。実際は見えていたが何ひとつ記憶に残らない。全て、先生と仰ぐ日下を守れなかったことに対する失意で記憶が、あの濁った瞳に書き換えられていく。
「俺は…先生を誰よりも慕っていたつもりだった。
先生が立場上、暗殺の格好の的になることも分かっていた。
なのに、俺は…俺は…先生を守れなかった……
誰よりも俺が守ってやるべきだったのに……」
刃のその灰色に濁った左眼は、その冷たく重い過去に蝕まれたものだったのだろうか。耳を傾ける硝子の瞳も、哀しみにまみれていく。
「俺は…その戒めを込めて…自分の左眼を焼いたのさ…」
突如として、刃の右の頬に張り手が飛んできた。不意を狙った一撃で、刃はコンクリートの床に倒されてしまう。
「痛ぇな! 何すんだよ!」
「この大馬鹿者っ!」
赤く晴れた右手を握りしめ、歯を噛みしめる硝子。ぎりりというかすかな歯ぎしりと口調、そして何よりも気迫から、彼女が目尻に涙を浮かべながら怒っていることを悟る。
「…なんだよ…」
「自分から、身体を捨てるやつがあるかっ!」
「これは、先生を守れなかった俺に与えられるべき罰なんだ!」
「そんなの勝手に決めるな!あなたがそうなることを先生は望んでいたの?」
刃の左眼は先天性のものでも、患いによるものでもない。自戒の念を込めて自らの手で眼球を焼いたことによるものだった。硝子は、どんな理由があろうと、自分の身体を自分自身の手で傷つけるその行為が許せなかった。
「分からないさ!そんなこと!でも…でも…もう、帰らないんだよ!あの人は!
ならば…、自分の身体を呪うしか救いがなかった!」
「結局逃げてるだけじゃない!…あなたは先生のいないこの世界から
目を背けたかっただけじゃない!」
「うるさい!…おまえに何が分かる…これ以上、俺をかき乱すなっ!」
左眼を自ら捨てた過去は、刃の中の琴線にあたる。それをかき乱され、気が動転してしまった彼は、この場から逃げ出そうとドアに手をかける。
「待って!」
その肩を、硝子の腕が掴んで止めた。
「何だよ…、俺が自ら左眼を捨てたこと…許せないんだろ?」
「…許せないよ。 それをあなたが読み取るってことは、
あなたも負い目を感じているんでしょ?」
「…勝手に決めつけるな…」
いよいよドアのノブを刃がまわそうかという時に、硝子が大胆な行動に出た。刃の痩せた肩に後ろから右腕を身体に絡めるようにして肌を密着して抱き付いてきたのだ。あまりにもの突然の出来事に刃はたじろぐ。
「ちょ…おま…」
「…あなたの協力が欲しいの…お願い…
あたしが、あなたの眼になるから……」
ここまでの行動をして、彼女が頼み込むことは何なのか。刃が問うと硝子の口から驚くべき答えが返って来た。
「オゾンは世界規模のバイオテロを企てている…。
それを止めるため、あたしと協力してアジトに乗り込むのよ」
「…バイオテロ…?」
「…ええ、世界じゅうの人を欠損者に貶める遺伝子崩壊ウイルスを詰め込んだ
核弾頭をオゾンはぶっ放す気でいる…。本当よ…」
聞くだけでも恐ろしい計画だ。
そもそも刃や硝子の様な欠損者が生まれる確率は遺伝学的に極少数のはずだが、奇妙なことにその数は年々増え続けている。これは、かつて地上で起きた大戦の際に使われた枯葉剤によるもので、遺伝子を崩壊させ、欠損を作り出すことで動植物の組織破壊および欠陥を生じさせる『遺伝子崩壊ウイルス』が仕込まれていた。その使用のせいで、奇形児や障害を持った子供がある一定の割合で生まれてくるような世界になってしまったのだ。この枯葉剤は禁制兵器と指定され、負の遺産として生後間もなく息を引き取った単眼症やシャム双生児などの奇形児をホルマリン漬けにして展示した博物館も存在した。だが、枯葉剤を使用しておきながら、政府は欠損者を一切保護せず、遺伝子を根絶やしにすべく大量虐殺や市民権の剥奪を行った。
あまつさえ、奇形児を展示していた博物館も欠損者の人権獲得を唱えるための施設の一環として排除されたのだ。欠損者にとっては、忌まわしいことこの上ない、この『遺伝子崩壊ウイルス』を、全てを生み出した元凶を、オゾンは再びこの世に蘇らせようとしているのだ。