座頭市
薄暗い裸電球が頼りない灯りで地下道を照らし出す。地下道はじとじとと湿った空気が立ち込めており、かび臭く思わず鼻の前を手で覆ってしまいそうになるほどの不衛生さだ。ネズミが這い回る亀裂の入ったコンクリート製の地面を、ぴちゃりぴちゃりと湿った足音を立てながらひとりの女が、やけに怯えた様子で周囲をきょろきょろと見回しながら歩いていく。
「…怖いなあ…独りで地下道を歩くなんて…
いつもはお兄ちゃんか誰かがついて来てくれるのに…」
地下道の治安が悪いのは、壁一面にスプレーで施されたペイントや、ポイ捨てされた空き缶などのゴミを見れば明らかだ。筋骨隆々とした男がしゃがみこんでいたり、トタンを組み合わせて造られた家があったりと、まるでスラム街の様な地下の様子に、ますます女は肩を狭めて、弱弱しく震えながら歩いていく。羽織っているパーカーのフードをかぶり、耳を抑えるようにして目を細める。よっぽど不安なようだ。それもこの薄暗い地下道に独りきりなのでは無理もない。その肩を呼び止める男の声。女は、ついに男に目をつけられてしまったらしい。
「おい、嬢ちゃん、こんなところでひとりでお使いかい?」
声をかけられた瞬間、何故か女はほくそ笑む。だが当然のように女は手首を掴まれて壁に抑えつけられ、力なく怯えるのみとなる。屈強な男の体格からすれば、女の必死な抵抗など赤子の手をひねる様なもの。女は目尻に涙を浮かべながら、必死に助けを懇願する。だがそれも叫び声が虚しく響くばかりとなり、やがて、女の身体が男の手によってまさぐられ始めた。騒ぎを嗅ぎ付けて、次々と暴漢どもが寄り集まり、女は周りを取り囲まれ、もはや玩具にされることは秒読みの状態だった。最後の最後の力を振り絞って断末魔とも呼べる叫び声を上げる。女が希った救いは虚しく反響するだけに見えたそのとき、薄暗い中に裸電球の光を反射する白い刃が見えた。
「来た……」
女が小声で呟くと、男の背中から血が噴き出し白目をむいて倒れた。
「待っていたわ…あなたのことを…」
女の顔からは怯えが消え、口角をつり上げて舌なめずりをする。
「だ、誰だ! お、お前は…」
刃の持ち主は、細身の男性で瞳が灰色に変色して、明後日の方向を向いていており、一目で両の眼が機能していない分かる。彼の視界には一切の光がない。盲目の中で研ぎ澄まされた空間把握能力と嗅覚を頼りに、盲目であることの証である白杖を仕込み刀に改造した武器を振り回す。ひとり、またひとりと暴漢どもを叩き斬って行く。
「名を知りたければ、止めてみよ…俺の刃を…」
「噂通りね。一手交えたくなってきちゃった」
そんな一騎当千の座頭市の様子を見て女は嬉々とした表情を浮かべ、先程まで暴漢に力なく怯えていたのが嘘のように暴漢どもをなぎ倒していく。左手は相変わらず袖にしまったままだが、右手に持ったヌンチャクを振り回し、自分の体重の数倍はあろうかという巨漢の頬をヌンチャクで打ち、崩れたところに回し蹴りを喰らわせて払い倒す。その間、数を数えることさえ許さない。
「都市伝説にもデマ以外のものがあったなんて感激だわ」
先程までのか弱い女はどこに行ったのか。体格で言えば到底かなわないと思える男を片手で捻り潰した上に余裕の笑み。これではまるで化け物だ。暴漢を倒した男と一手し合うために、間に挟まれた暴漢を、邪魔だと言うばかりに張り倒していき、右手のヌンチャクを相手に向かって振り下ろす。だが、その一撃を男は、目が見えていないとは到底思わせない反射で、ヌンチャクごと弾き飛ばす。
「ぁあんっ!」
悪戯っぽく、かつワザとらしく女っぽい声を上げるところ、どうやら女も余裕綽々のようだ。その証拠か、まだ左手はお留守のまま。今度は懐から長束の短刀を引き抜き、それを逆手に持って、盲目の男と刃を交える。甲高い金属音が地下に反響する。
「いいわ…ゾクゾクしちゃう。あなたが噂の座頭市…
白野刃…」
「謀ったか? この俺を呼び寄せるために」
「正解」
刃を重ね合わせていたのを、振りほどき、ふたりは互いに見合う姿勢となる。そのうちに倒されていた暴漢のうち何人かが起き上がったが、もはやふたりの強さを思い知った今では反撃のすべもなく、地面に手を付くままとなってしまった。なんと不甲斐ない光景なのだろう。
「あ…あの女まさか…」
女が手練れと分かってしまった以上、暴漢どもは解説側に回ることになる。彼らの視界の中で女と盲目の男は、刃を切り交わし、互角の立ち合いを繰り広げる。両方ともがそこらへんのゴロツキとは比べ物にならないほどの手練れであることは、戦い様からも見て取れる。それだけにどうやら、このふたりはこの界隈では噂の御仁らしい。
「艶やかな髪を振り乱し、俊足を謳われる刃…。そして戦いの最中一切
使われることのない左手…。さらに女らしさの全くないつるペタの胸…」
「最後の一個だけ余計じゃぁああっ!」
「はむぐっ!」
女に蹴りを入れられて再び白目をむいて地面に倒れ込む暴漢。どうやら最後の一言が女の気に障ったらしい。
「あれはまさしく3本脚の矢田硝子…。
またの名を八咫烏…」
八咫烏という異名は、彼女のお留守となっている左手を表したものだ。彼女は手加減して左手をしまっているわけではない。もともと左手が存在しない。よって三本の脚を持つ妖の名前を与えられた。彼女の左手は肩の関節までで、それより先は皮膚が盛り上がってこぶのようになっているに過ぎない。右に伸びているようなしなやかで美しい腕などはなから存在しないのだ。その痛々しい左の肩を衣服をはだけさせて露出し、目の効くはずもない盲目の男に見せつける。いっぽう、盲目の男にも白眼の刃というふたつ名があった。それは白内障で機能を失った灰色の瞳と白杖から引き抜いた白く輝く刃に由来する。
「刃…この通り、あたしも紛れもない欠損者の一員よ
協力してほしいことがあるの、お願い…」
そのふたつ名を彼女はよく知っていたようだ。それを見込んで、彼に協力を要請した。剣を交えて腕を認めたというのか、手のひらを反して盲目の男、刃に自らの協力をしてくれるように頼みこんだ硝子。こうなると戸惑うのは刃の方だ。自分に腕比べの決闘を申し込んで来た相手がいきなり頭を下げてきたのだ。戸惑う以外の対処がない。だが刃は欠損者という言葉に少し因縁があった。
なぜなら彼も、その欠損者というカテゴリに押し込められ、差別を受けてきた一員であったからだ。