負け犬の抱くもの
ふと思いついたことから、やっちゃいました。
ものは試し、そのものがこのお話です。
人気のほとんどない、道とは言えぬ山道に、男が一人、草木を掻き分け駆け込んでくる。
既に息は乱れ、額どころか男の肌着までをも、汗が濡らしていた。
だが、この汗は走ったことで吹き出たものばかりではない。
冷や汗である。
足を止め、呼吸を整える。男は頭を抱えていた。
「ちくしょう、なんだってこんなことに……」
男の名前は笹尾根みのる。大学は出たものの、就職もしていない、所謂フリーターである。
割のいいバイトがあると、大学時代の先輩に誘われたのが、ことの発端だ。
笹尾根は確かに、金に困っていた。莫大な借金、ということはないが、ギャンブルに寄って生まれた何十万の借金が彼にはあった。
借金があるにもかかわらず、金遣いの荒い笹尾根は、生活を改めることができないままである。それゆえに、首が回らなくなるほど、困っていたのだ。
先輩が笹尾根を誘ったのは、それをわかった上でのことだ。
もちろん、笹尾根も馬鹿ではない。先輩の紹介ではあるが、疑ってかかった。何より、この先輩には良くない噂が流れていたことがあったのだ。
割がいいのには、何か後ろ暗いことがあるのだろう。
そう先輩を問い詰めたが、彼はにやりと頬を緩めるだけで、何も言わなかった。
ただ一言、荷物を運ぶだけだから、と言う。
笹尾根は渋った。できるならば係わり合いになりたくないことだ。
だが、支払われる額を聞いたときに、考えは揺らいだ。たったの一日手伝うだけで、回らなかった首が、梟のように回るのではないか、そう思えるほどの額だったのだ。
天秤は徐々に片腕を挙げ、笹尾根の理性を奪い、欲を与える。
笹尾根は、金の誘惑に負けたのだ。
約束の日時を向かえ、その荷物とやらを受け取りに行った。
指定の場所は都心を離れ、少し潮の香りのする、とあるホテル。
受付で話を通すと、ホテルマンではなく、派手なスーツの男が笹尾根を迎えに来た。促されるまま室内に入ると、迎えに来た男が扉の前に立ち、戻る道を塞がれる。
「よう、待っとったで。こっち来いや」
ソファーに深く腰掛けた男が、笹尾根を呼んだ。彼の横には、屈強な男が微動だにせず立っている。一室で笹尾根を待っていたのは、明らかに堅気の人間ではなかった。
なるほど、やはりどう見ても普通の仕事ではない。だが、もう戻る道は塞がれている。笹尾根は覚悟を決め、足を進めた。
「兄ちゃん、よろしく頼むで。これ、前金や」
リーダー格であろう関西弁の初老の男が、そう言って封筒を投げてよこした。
恐る恐る封筒の中を見やると、少なくとも、笹尾根がこれまで一度に手にした金で、最高額のものだった。
これだけでも、既に借金は返せる。それどころか、しばらく遊ぶ余裕すらできそうだ。笹尾根は知らず知らず、にやけていた。
笹尾根が金を確認するのを見ながら、関西弁の男が言う。
「兄ちゃん、なんで一般人にわしらが仕事頼むんか、わかるか」
凄みを効かせた声に、笹尾根は現実に引き戻された。
「……いえ、どうしてでしょう」
「こっちの世界の人間でやるとな、目立つんや。これは目立ちたくない仕事でな。それでお前さんの先輩やった、あの屑に人探させたんや。堅気の人間に迷惑かけることやから、それなりの額は用意した」
つまり、少なくとも義理は立てたぞ、と言うことらしい。
「これを受け取れば、お前さんは今日一日、わしらんとこの運び屋や。その意味は、わかるな?」
失敗は許されない。笹尾根は今更足が震えた。失敗したときの自分を、思い浮かべたのだ。
それを見やると、男は笑いながら言った。
「脅かして悪いな、兄ちゃん。一応、こっちの言い分は守ってもらう、それだけやから安心せえ。聞いとるとは思うけど、荷物運んでもらうだけや。それも、兄ちゃんにはバッグ一つ頼むだけ。こんな簡単な仕事あらへんやろ。ただな、もういっこだけ、忠告しといたる」
男の雰囲気が、とてつもなく重くなる。目線がするどく、恐ろしい。笹尾根は見事に芯を射抜かれ、その目線から、顔を背けることもできない。この世界の人間は、目線と佇まいだけで、これほど恐怖を与えることができるのかと、笹尾根は息を呑んだ。
「中は、絶対に、見たらあかんで」
笹尾根は、喉から振り絞るように答えた。
「……はい」
そうすると、男はまた雰囲気を和らげる。
「よっしゃ、ほんなら交渉成立やな。まぁ兄ちゃんの為でもあるさかい、気いつけとってくれや。で、目的地の場所、ちゃんとわかるか」
関西弁の男が、メモが添えられた地図をよこす。
笹尾根は、言葉を失くしていた。渡された地図で、恐らく事足りることだけはわかった。
首を縦に振る。
「おう、ほんなら、渡すわな。おい」
男の合図を受け、横の屈強な男がソファーの後ろからボストンバッグを持ち上げた。それをテーブルに置く。
「これが兄ちゃんに頼むバッグや。人の手に渡ったりせんよう、しっかり抱えて、運んでくれや。他にも数人、バラかして頼むことにしてる。それぞれが会うこともあらへんし、ま、それは気にせんでええわ。兄ちゃんが行く先に、棟方いう奴がおる。そいつにこれを渡してくれれば、そこで残りの金も渡す。ほんで、兄ちゃんたちみたいな堅気は、後腐れなく、さいならや。それから、これな。今日一日だけ、なんかあったときに連絡とれるよう、渡しとくわ」
バッグの横に、携帯電話が置かれた。
「これで、話は終わりや」
男は煙草に火を点けた。
笹尾根は若干震える手を伸ばし、バッグと携帯電話を手にする。
「では……」
「おう、今日中に届けてくれたらそれでええから、よろしく頼むわ」
バッグは、ずしりと重かった。恐らくは実際の重さ以上に、笹尾根には重いものだ。その表情は、今まさに、ビルから飛び降りようとでもするようだった。
笹尾根が部屋を出るのを確認すると、関西弁の男が言う。
「おい、仕掛けはちゃんと動くんやろな」
屈強な男が答える。
「はい、何度も確認済みです。あのバッグが開けられれば、内側のセンサーにより確実に我々の知ることとなります」
「ならええけどな。もし、あの兄ちゃんが開けたら、確実に始末せえ。あれを見たもんが証言でもしよったら、わしらもただじゃあおれんぞ」
この日の数日前に、組のトップのお気に入りの情婦が、姿を消していた。
笹尾根は、とにかく早く荷物を渡すつもりだった。
だが時刻は昼過ぎ。朝飯を食べない笹尾根には、そろそろ腹の減る頃だ。
「……昼食をとって、一旦落ち着こう」
言い聞かせるように呟き、近くのファーストフード店へと赴いた。
適当なセットを頼み腹に入れると、少し気分が落ち着いたようで、笹尾根は若干の後悔を感じた。
「厄介なことを引き受けちまったなぁ……しかし、この中身はなんだろう……」
笹尾根は元々、借金をしてまで生活を改めぬほどの、不精人である。しばらく前の恐怖も何処かへと消え失せ、バッグの中身を気にする余裕すら出てきた。
だが、開けてはいけない。いやしかし、あけたところで誰がそれをわかるのか? 笹尾根は、バッグの中身が気になって仕方がなくなった。
「やっぱ、麻薬かな。いや、ああいう連中が見られたくないものだ。重さからするに、偽札の原本とかか……いや銃かもしれないな……」
笹尾根が思ったどれも、それがどんな人間であれ、持っていたことがばれては困ることである。笹尾根には、身内同士のいざこざであることは、わかるはずもなかった。
ファーストフード店を出て、いくつか電車を乗り継いでいく。時間が経つに連れ、笹尾根のバッグの中身に対する興味は増していった。
時間は刻々と過ぎ、それにつれ目的地へと近づく。最寄の駅を降り、ここからは徒歩である。
見るからに田舎であった。季節が季節なら、美しい紅葉を見せるだろう山々が連なっている。
地図に寄ると、駅を降りて、南へと下っていけば、目的地の旅館があるらしい。しばらく進んで、笹尾根はまた独りごちる。
「こんな山道、脇に逸れれば誰にも見られない。俺をつけている人間もいない……中身を知るチャンスじゃないか」
笹尾根はまた、負けたのだ。今度は己の、好奇心というものに。
木の陰に身を隠し、笹尾根はバッグを開いてしまった。
「――」
バッグを地面へと落とし、笹尾根は尻餅をついた。声にはならなかった。笹尾根の予想した答えは、そこにはなかったのだ。
何十秒と経たない内に、預かった携帯電話が鳴る。鼓動は高まり、焦りも加速する。
震える手で、携帯電話を手に取った。通話ボタンを押す。数時間前に聞いた、どす黒い声が耳に届いた。
「……兄ちゃん、開けんな言うたやろ。それやのに、開けてもうたなぁ……これでもう、決まってもたで、兄ちゃんの未来」
笹尾根は、携帯を投げ捨てた。バッグも落としたまま、山の中に逃げ込んだ。パニックになっていた。
既に息は乱れ、額どころか笹尾根の肌着までをも、汗が濡らしていた。
だが、この汗は走ったことで吹き出たものばかりではない。
冷や汗である。
足を止め、呼吸を整える。
――笹尾根は、頭を、抱えていたのだ。