第二章 黒猫の日
まさか、ここも読んでくれるとは、嬉しい限りです。
相変わらず下手な文章で、ごめんなさい。
急ぎ足で書いたので、誤字脱字等があると思います。
そのときも、ごめんなさい。
2黒猫の日
⁑
―――ピピピピピピピピ、ばしん!
・・・朝か、今日は夢を見なかったな。
新たな眠気が迫ってくる前に身体を軽く捻り、痛みが引いていることを確認する。そしてベッドから降りて、カーテンを開ける。今日も晴れて、朝日が部屋を照らした。あまりの眩しさに、思わず目を閉じる。
振り返ると、ベッドの向かいには、学習机が二つ設置されてある。窓側には、備え付けの本棚に教材や漫画本が置かれているが、玄関側には何も置かれていない。ルームメイトが居ないからであるのだが、居ないなら居ないで物置にしてもできる。けれど、なんとなく気が引けて来たときからそのままにしてある。
二人部屋を一人で使うと、何だか贅沢な気分になる。しかし、天井が低くなる二段ベッドは不便なものだし、大体二つずつ用意された家具の類、無駄に余る空間には虚しさを覚えてしまう。
先生曰く、始めのうちは、友達ができていなくて、一人部屋の需要が高まるとのこと。その所為で一人部屋に入れず、二人部屋に入ったわけだ。次期に一人部屋が空くようになるので、その時は、このときたま頭をぶつける二段ベッドとはおさらばできる。
ふと時計のデジタル数字を確認する。7:05を示していた。学校を休もうか少し悩んだが、無断で学校を休んでも寮にいるだけで、すぐに先生のお向かいが来ると予測した。そうなると面倒なので、学校へ行くため朝の身支度を始めた。
・・・・・・・・
「すぅ、すう」
部屋のドアを開けて、始めに映ったのは、長くて癖のないストレートな髪に顔を埋めて寝ている、うつ伏せの氷架理だった。ただその髪は一房だけ螺子のように巻かれていた。着ているのは、魔方陣が刺繍されたこの学校の指定制服である学ランと、紺に近く、青色の柄があるスラックスだった。それを見て一瞬固まった。しかし、硬直はすぐに解け、氷架理の隣に膝をついて、
「もしもーし」
と話しかけた。しかし、返答はなかった。
「朝ですよー」
もう一度話しかける。返答は無し。
「起きろ、こんなところで寝るな」
今度は話しかけながら肩を揺する。返答は無し。
・・・
「しょうがないな」
まだ寝ている人が大勢いるはずなので、大声は出したくないし、華炎さんのような度胸はない。けど、こんな所に寝かせておくわけにはいくまい。氷架理を仰向けにして、お姫様だっこするように持ち上げた。そのまま僕の部屋に運び入れる。二段ベッドの使ってない上の段に寝かせてあげたかったが、そんな腕力が僕にはないので、仕方がなく、僕がさっきまで寝ていた下の段に仰向けに横にしておいた。
「すう、すぅ」
相変わらず心地いい寝息を立てる氷架理に掛け布団を掛けて、
「こんなものか」
吐息をついて呟いた。その後食堂へ一人で行った。
食堂に着くと、お揃いの十字架のペンダントを身に着けている人がぼちぼちいた。非常に安っぽいそれは、銀色の鎖に、飾り気のない銀メッキの十字架が繋がっているだけだ。
そして、さっきから僕を見るなり目を逸らす、十字架のペンダントをした人がいるけど。もし僕が極悪の吸血鬼だとしたら、この大勢の人の中からでも、指揮者を見つけ出して、吸血出来てしまう。霊体感知があっても、こんな大勢の人の中からだったら、指揮者探し出すことはできないのに。
あと、吸血鬼に十字架は意味が無い。そんなのお伽話の中だけだ。同様に大蒜だって食べられる。臭いがきついと小学生のときは思っていたけどね。その代わり、人の血を吸っても不老不死にならないし、噛んだ人に性的な快楽を与えることもない。期待していた人は妄想にふけすぎだ。けど、僕に対する警戒の現われなのだろう、それは分かった。
「おはようございます」
前に並んでいた人がいなくなって、僕の順番になる。おばさんに挨拶して、読み取り部に僕のIDカードを触れさせた。
「はい、おはよう。お前さん、皆に避けられているようだけど、悪いことをしたらちゃんと謝んなさいよ」
注文を受けるおばさんが、いつもどおりの笑顔で、僕に助言した。
「おばさん、よく見てますね」
「そりゃあ、皆が私たちの作った料理を食べているのを見るのが、私の仕事だからねぇ、これくらいお見通しだよ」
「ただ僕たちから注文を取っているだけじゃなかったんですね。けどこれだけは言わせてください。僕は何も悪いことはしてないです」
「あらあら、たまにはちゃんと、自分がやったことがいけなかったと認めることも重要よ」
「いや、本当に何もやってませんって」
「はいはい、若いうちはそういうこともあるものさ。はい、お待ち」
「いただきます」
あきらめて、挨拶以外言わずに、朝食の載ったお盆を受けたった。
あとは、適当に席を選んで一昨日までそうしていたように一人で朝食を摂った。そのご飯は昨日より硬くて、味も水で薄めたかのように貧しかった。
朝食を終えた後、自分の部屋に氷架理の現状を確認しに戻ってきた。
「すう、すぅ」
自分で言っていた通り、寝起きはかなり悪いようだ。いや訂正、起きてすらいない。しかし、まだ時間はあるのでそのままにして置いた。
学習机に座り、本棚から『レイニーボーイ 3巻』を取り出した。雨を操る少年の雨森 降世が、世界制服を企む、アクマ族に立ち向かうファンタジーの漫画だ。雨粒が集まって竜になったり、過重な鉄砲水を起こしたりする、アクマ族との戦闘シーンは、ユーニークでありながらも、迫力があって、一度読み出したら止まらない。特に――おっと、ここから先はネタばれになるな。
・・・
『そのとおり。赤羽がその気になれば、この学校なんて十分も経たないうちに手も足を出ずに壊滅状態になるのよ。だからお願い!――波藤くん!私たちに力を貸して!』
日々谷さんの言葉が脳裏を横切った。昨日はこの言葉がループしていたが、一晩越えてしまえば、たまに横切るまでに収まった。
まともに戦ったことがない僕には無理だ。ごめん日々谷さん。
心の中で呟き、気分を入れ替えて漫画を開いた。
デジタル数字を確認。7:31。始業時刻は八時半、時間に余裕があるので、お気入りの頁からではなく、最初の頁から読むことにした。
半分くらい読み進めて、時計の確認をすると7:58を示していた。そろっと起こさないと、食べる時間がなくなってしまう。漫画を本棚に戻して、二段ベッドの元へ移動した。
「起きろー、朝ご飯の時間だ」
「すう、すぅ」
もう一度、肩を揺すりながら話しかけてみる。しかし、地獄より深い眠りから起こすには、ちっとも刺激になってなかった。
―――がこっ 『ぐべっ!』
―――『ふん!』『がはっ!』
これまでの華炎さんの起こし方を振り返った。どうやら覚悟を決めるしかないようだ。
いや、ちょっと待て、脇腹を突き刺さなくても、突くぐらいでいいじゃないか?
人差し指で右の脇腹を突く、反応なし。
五本の指で、ピアノの鍵盤を叩くように突く、おお、寝返りうったぞ。
右手と左手で、左右の脇腹を同時に突く、避けるように身体を捩じらせてくる。もう一歩だ。
このこのこのこのこのこのこのこのこのこのこのこのこのこのこのこのこのこのこのこのこのここのこのこののこのここのののののののの
ああもう駄目だ、指の関節が痛い、何で起きないんだ。
氷架理は擽っている間は、多少息が荒くなったり、寝返りをうち捲くっていたのに、今は擽る前と同じように、心地よく寝ている。
ブーー、ブーー、ブーー、ブーー、―――・・・。
携帯が鳴ってるな、氷架理のほうから聞こえる。
⁑⁑⁑⁑
ぷるるるる、ぷるるるる―――
出ない。やっぱり寝てる。昨日は奇跡だったっていうこと?
「あいつ、ホントに男子寮に入ってよかったの?女子寮にいたらすぐに起こしに行くのに」
私は3‐12教室の一角で悪態つく。
「あいつって、やっぱり、華炎ちゃんのお兄様?」
クラスメイトでありルームメイトである千風が、携帯を耳に当てた私に口を出す。
千風は、大体の日本人の特徴である、黒髪を襟口に触れるか触れないかのところで切り揃えている。瞳はやはり黒。いつも思うんだけど、何で私も日本人なのに、髪の色が桃色なわけ?パパの祖先で誰から桃色になったのよ。大体どこの地域の特徴よ。お陰さまで、どこに行っても注目の的よ。
さっき、十字架のペンダント百五十円で買わないかと話しかけられたけど、千風は『えぇ、こんなかわいくないペンダントと要らない』と断った。そもそも、吸血鬼に十字架は意味無いから私も断った。
「ちゃん付けやめてよ、それと、なんであいつが〝お兄様〟なわけ?」
「だってぇ、華炎ちゃんは、背がちっちゃくて、桜のようなかわいい髪してるんだもの」
『つながりラインお留守番サービスに接続します――』ピッ。
「むぅっ」
私は、千風を戒めると同時に、電話を切った。
「その睨み付ける顔もかわいいなぁ。ちっちゃいくせに強がっている感じがして」
「ちっちゃいって言わないでよ」
「いやいや、華炎ちゃん見た感じ、このクラスで一番背が低いから。それに比べて氷架理様は背がすらーっと高くて、宝石のような瞳が綺麗で、金髪も滝の飛沫ように綺麗で、いいなぁ、氷架理様と双子だなんて」
千風はそう言い張りながら、私の頭を保育園の先生のよろしく撫でてくる。
千風に会うといつも、こんなふうに私の体形や髪の色の話しになる。彼女はかわいいものに目がないのだ。携帯のストラップは、ひまわりライオン、あくまペンちゃん、バラの妖精〝ろーざ〟など、俗に言う、ゆるキャラがたくさん付けられている。春休み中のオリエンテーションでは、
『きゃあ!かわいい!』
と叫び声を上げながら抱きつかれた。初対面で、ですよ。女の人をセクハラで訴えようと思いましたよ。
「ああ、もう!ちっちゃいとかちゃんとか言わない!あと、あいつに〝様〟付けしない!」
私は、撫でてくる千風の手を振り払い、教室から出るために、彼女に背を向ける。
「ああ!華炎ちゃんどこ行くの?」
何言っても、私を子ども扱いして。あと、
「抱きつかないで!もう!」
「離さないよー、華炎ちゃんは私のものなんだから」
千風の捕縛を解こうとするが、彼女は力強く抱いてきて離れない。
「苦しい・・・、もう離しなさいよ。氷架理起こしてくるから・・・」
そして、ようやく捕縛は解ける。
「ホント!氷架理様のあのぼやぼやした顔も、かわいいのよねぇ。早く――」
私は最後まで聞かず、教室を飛び出た。廊下は走るわけには行かないので、あとは歩いていくことにした。
「あれはやばかったよな!悲劇のヒロインを救う英雄みたいな感じでさ!」
途中すれ違った知らない男子が、そんなことを大声でしゃべっていた。
私は男子寮に入り、氷架理の部屋がある三階まで階段を上がった。324号室。そこに入れるドアの傍にあるプレートには、〝桜木 氷架理〟と書かれていた。
キンコンカンコーン―――
始業十分前の鐘が鳴った。このままだと、氷架理は寮生なのに遅刻してしまう。それはまずいでしょ。
ピンポン。
インターホンを鳴らす。しかし、しばらく待っても返答はなかった。
ピンポン。
もう一度鳴らす。するとすぐに、
「ぐあ!」
「え?」
右斜め後ろの部屋から、壁越しに呻き声が聞こえた。氷架理の声だ。
「え、うわぁ!」
振り返った後、左斜め前の部屋からもう一度、今度は叫び声が聞こえた。その部屋の前まで行ってプレートを確認すると、
「うそ」
波藤 雅輝。吸血鬼の名前が書いてあった。
⁑
ああ、切られちゃった。
携帯は三十秒くらいでぷつりと静まった。氷架理の穏やかな寝息だけが部屋の中で木霊する。
指の関節が痛いし、氷架理はぐっすり寝てるし。もういいや、氷架理の朝食は購買のパンで。
やりたくないことを後回しにする口実を立て、学習机に備え付けられた椅子に腰掛け、本棚から『レイニーボーイ 3巻』を取り出し、続きを読み始めた。
キンコンカンコーン―――
まずい、始業十分前のチャイムだ。そろっと起こさないと、遅刻する。漫画を本棚に戻して、氷架理が眠っている、二段ベッドの元へ。
「起きろー」
氷架理を擽りながら話しかけた。やはり、寝返りをうつのみ。
今回は擽るのをやめて、右手の人差し指を、天井に向かって突き立ててみた。
これを、氷架理の脇腹に突き刺せば、起き上がってくれる。痛いよなぁ。
けど、遅刻するよりは幾分ましなはずだ。覚悟を決めた。
「とお!」
小さく声を出しながら、思いっきり氷架理の脇腹へ突き刺した。思ったより学ランの生地が厚めで、吸収されなかった衝撃が反作用で人差し指を押し返す。けど、効果は覿面だった。
「ぐあ!」
氷架理は一瞬で上体を起こして、脇腹を押さえて咳き込んだ。
「華炎、もう少しやさしく起こせないの?」
氷架理は僕に振り返りながら呟いた。その時、彼の瞳は焦点が定まっていなかったのだろう。僕が華炎さんじゃないことに気付いてない。
そして、その焦点が定まるのに、そう時間は掛からなかった。
「え、うわぁ!」
氷架理は後ろへ飛んだ。そんなに驚く必要はないだろう。
「な、なんで波藤がここにいるんだ。も、もしかして」
「ばーか、ここは僕の部屋だ。氷架理はさっき廊下で寝てたんだよ」
そう言い返すと、氷架理はすぐに思い出して、
「・・・あ、ああそうだった。思い出した」
と呟いた。
ピポン、ピポンピポン、ピポン。
その時インターホンが忙しく鳴り響いた。
「ほら、いきなり大声出すから心配して誰かが駆けつけてきたよ」
「ごめん」
氷架理は小さくなったかのように謝った。
「ちょっと待ってて、出てくるから」
廊下へと通じるドアを開けた。そこに居たのは、手を後ろに組んだ、華炎さんだった。目を薄くして、小首傾げて、不自然な笑顔をしていた。
「覚悟ぉー!」
「ひっ」
すぐにその表情は一変した。目を大きく開け、口も大きく開け、その顔からは殺意が窺えた。そして後ろへ組まれた手元には、なんと薄紅色の炎晶でできた、刃の長さが五十センチくらいのレイピアが顕現されていたのだ。華炎さんは間髪をいれずにそれを僕の喉元めがけて突き出してきた。なんだ昨日に引き続きまたか。
しかし、その刃は僕の元へ届かなかった。喉に届く寸前に氷の棒が激しい音を立てて遮ったのだ。
腰を抜かしながら、氷で構成された棒状のものがどこから延びてきたのかを目で追った。
それは、二段ベッドの下の段で上体だけ立てている、氷架理の右掌から木の枝のように伸びていた。それを確認し終える同時に、尻から床に落ちた。
「華炎、その手を下ろせ」
氷架理は華炎さんに告げた。
「なんでよ!氷架理のこと、コイツが吸血しようとしたんでしょ?なら、氷架理が下ろしなさいよ!私がやるわ」
華炎さんがそう言い放つが、氷架理は華炎さんから僕を守り彼女を見据えたまま、
「違う。僕の話を聞いてくれ」
彼女にそう告げた。
「脅されたわけじゃないのよね」
「脅されてない。だから安心してくれ」
「・・・分かった」
氷架理がそこまで言うと、華炎さんは、薄紅色のナイフを紅い霊体に戻し、その霊体は宙を少し舞うとすぐに華炎さんの小さな身体へ帰っていった。
それを確認した氷架理も氷の枝を薄水の霊体へと遡らせ、体内へ帰来させた。
「それで、その話なんだが、波藤は廊下で眠っていたみっともない僕を、この部屋まで運んでここで寝かせてくれたんだ。あと僕は吸血されてない」
「嘘よ、きっと寝ている間、気付かないうちに済ませたのよ」
「大丈夫、起こすのに突かれた脇腹以外いたいところはない。だからどこも噛まれてないだろう」
「どうせ氷架理が鈍感なだけよ。あとで傷口探してやるわ」
「ああ、そうしてくれ」
「あのさ」
氷架理が僕の無実を証明してくれているのは分かる。しかし、それ以前にこの現状はまずい。
「なによ」「どうした」
今の一言で、双子の両方は座り込んでいる僕を見下ろした。
「もうすぐSHRが始まるよ」
そう告げると、場の空気が凍結した。
「しまった、忘れてた」華炎さんは思い出して慌てた。
「そうだったのか」氷架理は起きたばかりなので時間を把握してなかった。
腰が向けて起きれなかったので、首だけ動かして、窓側にある机に置かれたデジタル時計を確認した。
「八時二十七分、走れば間に合う。だけど――」
「走るわよ!」
華炎さんは僕の話を最後まで聞かずに一人走っていった。
「待て、華炎!あれ、波藤」
走り出そうとした氷架理は、床に腰を下ろしたままの僕に疑問を覚えたらしい。
「腰が抜けて立てない。氷架理、先に行ってくれ」
振り向いた氷架理に告げた。残り三分で三階であるここからいっきに一階まで降りて、中庭を走って校舎に入り、一階から四階まで上るのは、一人で走っていけば楽勝だ。ただ、ここで氷架理の肩を借りてしまうと、僕だけでなく氷架理も間に合わなくなってしまう。本々始業時間に間に合う兆しがないなら、氷架理だけでも、滑り込んでもらおうと思った。
しかし、氷架理は僕を置いて部屋を出て行かずに、
「こんな事やるの、小学生のとき以来だな」
と呟いた。すると、彼の身体中から無数の薄水の光が、噴き出るように現れ、宙を舞った。彼らは、氷架理を僕の目から見えなくなるまで覆い、彼に呑み込まれるように渦巻いて、次第に数を減らしていった。おそらく全体変化だろう。
その光の隙間からは、薄水色の透き通った氷でできた、ナイフの刃先のような鱗が幾つも並んだ、人の体躯のような何かが窺えた。段々とその正体が明らかになってくる。四肢は人と同じ位置にあるが、脚は狼の後ろ足のように力強い。しかし、その足元は狼のものではなく、コンクリートの壁を諸共せず貫通してしまいそうな鉤爪を持ち、人を軽々と持ち上げられそうなくらい大きい、鷹のような足。所々に先鋭な刺がある腕、五本ずつある人型の手の指は、精巧に関節まで作られ、指先はライオンの犬歯のように鋭い。顔面は西洋の騎士を想起させる仮面のフォルム、目の部分は両方の目を繋げるように穴があけられ、二つの大量に集まった霊体の瑠璃色が輝く。
そして何よりも特徴的だったのは、僕の脱衣所に備え付けてある洗濯機を、掴んで軽々と持ち上げられそうなくらいに大作りな人の手が先端の、腰から生えた尻尾だった。こちらの手は刺々しい所がなく、持ち運びに適していそうだった。
霊体の霧が晴れた頃、氷架理はフローリングの床を蹴り振動させると、僕の真横へ跳んだ。通り過ぎると同時に、尻尾の先端にある手でやさしく一掴みにすると、窓を開け、外へと飛び出た。窓には薄水色の氷が凍りつくように付着していて、氷架理はそれを操り、鍵を開け、窓を開けたのだろう。
⁑⁑⁑⁑
「きゃああああ!いったぁっ!」
氷架理と吸血鬼を置いて、一足先に二段飛ばしで男子寮二階と一回を繋ぐ階段を下りている途中、私は足を踏み外して後ろへとバランスを崩して派手に転んだ。転んで体の一部をぶつけるだけならまだいい。転んだ後階段を滑り落ちて、頭と、背中と、肘と、お尻と、脹脛を段差に何回もぶつけた。最後に上り口で足の裏を強打した。痣になってないよね。
後頭部を強打した所為だろうか、視界が微かに歪んでいる。それならまだいい。もしかしたらよくないかも。とりあえず体中が痛い、しかも、ちょっとした刺激で痛みは数倍に増してくる。立ち上がろうとすると、脹脛辺りの骨が潰されるように痛い。肘を曲げたとたんに締め付けられるように痛い。頭はちょっと揺らしただけで脳みそが頭蓋骨に突撃したように痛い。背中を捻る度に押し戻されるように痛い。お尻も痛むけど、他の痛みと比べるとたいしたことはなかった。
「いたたた・・・」
起き上がる動作として、上体を起こそうと背中を捻ると、逆らうような痛みがきて、支えとなる肘が軋み、寝転んだまま上体を上げることすらできなかった。
キンコンカンコーン―――。
始業の鐘が鳴った。けど私は立ち上がれないどころか、身体を捻る事すら儘ならない。
「遅刻だー!いたたた・・・。あいつは何やってんのよ!痛い!」
鬱憤晴らしに叫んだら、体中で痛みが共鳴した。私は階段相手に四面楚歌だった。
⁑⁑⁑⁑⁑
「はい、皆席着いて!」
大体同じ中学出身の人を、一緒のクラスになるように分けたからだろうか。一学期二日目、朝の教室内は、思い思いに喋る生徒たちで盛り上がっていた。席の着いた後も、隣の人と喋り続ける人がいた。
ただ、教卓の目の前には空席が目立った。希の前だから波藤くん、その左隣の氷架理くん、双子の華炎さん。三人とも無断欠席、または遅刻だ。双子の方は内申書に目を通した感じ、氷架理くんと華炎さんは何かやらかしたのだろう。波藤くんは昨日のことを引きずっているのかな。希の方も、瞳を陰らせていて、元気がなさそうだ。
「挨拶、今日も当番が決まってないから、二番の阿部さんお願いします」
「起立。・・・礼」
「「「「おはようございます」」」」
朝の挨拶は、目の前の双子がいない所為か、物足りない感じがした。あの双子は元気が取り柄と言ってもいいくらいだからな。
「着席」
椅子の引きずる音を立てて、皆席に着いた。
「誰か、この三人の中から連絡貰っている人はいないか?」
一応、何か急用ができたのかもしれないと思い、空席を指差しながら皆に訊いた。
「華炎なら知ってます。氷架理くんを起こしに行ったきり帰ってきません」
答えはすぐに返ってきた。小鳥遊さんからだ。彼女は華炎さんとよく喋っているところを見掛ける。
「それは何分前?」
「今から十分以上前。ここから出て行きました」
おかしいな。あれだけ乱暴な華炎さんなら、氷架理を起こして戻ってくるのに、そう時間は掛からないはずだ。
「分かった。あとで、探し出すとして。今日の日程ですが―――」
⁑
鳥の囀り。木々のざわめき。風の音。遠くで流れる小川の微かな風化音。しっとりと程よい湿気。腐葉土のクッション。
僕は学校の敷地の傍にある森で天を向いて大の字に倒れていた。首を曲げると、さっき飛び出した男子寮の窓が見える。そして、その途中の木の根元には・・・。
ナイフのように鋭い鱗を幾つも並べた人の体躯。狼のような付け根だが、先端は鷹のような脚。先端に大作りな人の手がある垂れた尻尾。僅かに罅が入った仮面。これらが特徴的な、薄水色の物体が横たわっていた。その左右には、大きい方は僕と同じ位の大きさがある、やはり氷で構築された、イカロスのような羽が、左右非対称な大きさで落ちていた。知ってのとおりあれは全体変化状態の氷架理だ。羽は後で創られたものだが。
キンコンカンコーン―――。
離れたところから、始業を告げるチャイムが鳴る。僕らは一学期二日目にして遅刻することが決定した。
僕たちが三階にある寮の部屋を飛び出した後、僕を乗せた氷架理は学校の敷地外すぐの所にある巨木に頭から突撃した。その時尻尾が多少右に逸れていて、僕を収めていたその先端の手は握力を失って広がり、そのまま巨木の右脇を飛ばされていった。それから、運よく撓りのいい木の枝に落ちて、落下速度を落とし、もう一度落下して、今いる腐葉土のところに至った。少しして、氷架理も腐葉土に落ちた。
木の枝に落ちたとき、頬の傷口を引っ掻かれたくらいで、大きな怪我はなかった。けど、腐葉土の湿気が制服を濡らして、背中の辺りがじめじめして不快だった。しかも、窓から飛び出た所為だろう、靴を履いていなく、足元は靴下だ。
腐葉土の地面に手をつき立ち上がる。その時、手に腐りきってない木の枝が刺さった。それから靴下の足で腐葉土の地面を歩いて、氷架理の本へ向かった。たまに足がぬかるんで、靴下とスラックスの先端が濡れる。そしてソックスにはたくさんの細やか木片がくっ付き、中には靴下を貫通して、歩を進めるたびに足に刺さるのも幾つかあった。
「氷架理ー、起きろー」
ぶつかった木の根元に寝そべった、氷の物体に話しかけた。その氷の物体は僕の声に応え、首だけ動かして僕に向いた。僕は続ける。
「あのさ、僕たち靴履いてないよ。だから、一旦僕の部屋に戻ろ」
〝大丈夫〟といった心配は無用だろう。全体変化状態の氷架理は全身鉄の如く硬い氷で構成されている。まあ、今回は移動が目的であったためか、それ程硬くしなかったようだ。仮面に亀裂が走ってるし。
僕の声に応え氷架理は寝そべった格好のまま浮上し、すぐに体勢を立て直し、翼は左右対称の大きさにして、しかしその翼は狭い木々の間を飛び抜くために折りたたんで、僕の右隣を目指して飛んだ。それから、通り過ぎると同時に尻尾の手で僕を持ち上げると、氷架理は空を目指して、身体の軸を立てて、枝々の間を掻い潜るように天へと浮上していった。そのときも羽は閉じたままだった。
霊体は自然の影響を無視したり上書きしたり出来る。しかしその詳細はまだ分かり切ってない。ただ、霊体が自然とのコミュニケーションをとることができるというところまでは分かっていて、実際それに則って彼らを操ることで、如何なるものを焼き尽くす炎を創り出したり、反対に炎すら凍らせる冷気を創り出したりできる。第二次世界大戦中、日本が一時的に優位に立てたのはその理由からだ。今氷架理が宙に浮いていられるのは、全体変化で実存をなくし、重力を無視した術式である氷を創り出すように、霊体に指揮したからだ。あとは行きたい方向へ移動するようにもう一度指揮を送ればいい。
そうして、学校の隣にある森を抜けると、氷架理はバランスを取るべく、イカロスの羽を大きく広げた。その後姿は、野性を想起させる悪魔の胴体、天使を心像させる羽というアンチノミーが両立した化生者のようだった。その背景には四階立ての男子寮の屋根が映った。氷架理は僕を持ち運んだまま三階にある僕の部屋のまで移動した。
氷の手に握られている間、四月の外気に触れて肌寒いと感じた以外に冷たさを感じてない。氷架理が僕を包む霊体を上手く微動させ、温度を調節しているからだろう。僕に触れているところだけ温暖に保ち、氷を溶かさずに維持し続ける技術があるということは、氷架理はただものではないのかもしれない。
開きっぱなしの窓から、氷架理とその尻尾に連れられた僕が順に部屋に立ち入り、氷架理は玄関側の学習机に降り立った。窓側の学習机の前で氷架理は手を広げ、僕は靴下を脱いでから降り、その後すぐに脱いだ靴下を二段ベッドの傍においてあるベッドに捨てた。あれだけ細やかな木片が刺さっている靴下を、洗濯機に任せたところで完全に取れることは無いと思ったからだ。
それから氷架理は全体変化を解くために、術式は全て砂の城が崩れるように薄水の霊体へと逆行させた。その数多の霊体は部屋中を自由に舞い。その場景は、薄水の雪が淡く輝き、風に乗って踊っているように優美なものだった。すると彼らは自由に舞うのを止め、氷架理が降り立った所へと集結し始めると、人の大きさの楕円になって強く白光した。白光が収まると、そこには人の姿をした氷架理が立っていた。
「ええっと、ごめん、油断して木にぶつかってしまった」
そして、開口一番に鼻の前で手を合わせ、僕に謝った。
「いいよ、僕と氷架理が学校に間に合うにはこの方法しかなかったし。それより、SHRには出れなかったけど、今すぐ行けば一限には間に会うよ」
「ああ、そうだな。けど、本当にごめん!制服の背中が濡れてるけど、大丈夫?」
「大丈夫だよ。教室に着いたら学ラン脱いで、椅子にでもかけて乾かしておくし。あとはカーディガン着ていればあまり寒くならないと思うよ」
そう答えると、箪笥の一段目に入っている靴下一足を取り出して履き、曲げていた腰を上げて、
「行こっか」
氷架理を催促した。
「あ、ああ、行こう」
氷架理はそう答えると、今度は窓からではなく、玄関から靴を履いて、早歩きで教室を目指した。
中庭に出ると、長い桃色の髪を持つ小さな女の子が足を引きずって歩いていた。華炎さんだ。どうしたのだろうと、氷架理はその背中を走って追い、僕もそれに走って付いて行った。
「華炎何やってんだ?」
僕たちの足音の気づき、ぎこちなく振り向いた華炎さんに氷架理はそう訊いた。
「ちょっと、足ひねちゃって、いたたたっ」
華炎さんは顔をしかめながら膝をついた。
「おいおい、なんなら僕がおぶってやる」
氷架理が心配して歩を止めた。
「それ程じゃないから大丈、夫」
華炎さんは一人で歩き出す。その姿は電池の切れそうなロボットのようだった。
「急がないと一限始まるぞ」
「分かってるわよ!」
氷架理が急かすと、華炎さんは歯を食いしばりながらぎこちなく早歩きした。何だかすごく辛そうだ。
「あいつ、無理してないか?」
「うん、あんな一生懸命歩いているとこ始めて見た」
またも置いていかれた氷架理と僕は、華炎さん届かぬよう囁き合った。
「先生は?」
SHRが終わって喋り声が響く教室を、開いていた後ろの戸から覗く氷架理に華炎さんは訊いた。
「ぱっと見た感じ・・・、いないな。入るか」
先生がいないことを良しと、氷架理は一足先に入り、それに僕と華炎さんが続いた。
「おはよう。氷架理くんに波藤くん、それに華炎さん」
「げ、」
「先生に向かって、『げ』とは何ですか?」
遠藤先生の俳句でも詠むような口調を耳にした華炎さんは口を小さく開けて硬直した。遠藤先生は廊下側の生徒と何か話していて、ぱっと見た氷架理の目には映らなかったらしい。思い返すと遅刻なんて始めてしたな。これからどうなるんだろ。
「まず、俺に謝ることは?」
「すみません、遅れました」
「すみません」「ごめんなさい」
氷架理が先に頭を下げ、僕と華炎さんが続く。
「次に、遅れた理由を訊こうか?」
「それは、僕の寝起きの悪さに、波藤くんと華炎が四苦八苦してそれで遅れてしまいました」
答えたのは氷架理だった。木にぶつかって遅れたとは言えないのだろう。
「本当に?華炎さんなら、すぐに起こせると思うけど?」
「生徒を信頼するのが、先生の仕事じゃないんですか?」
氷架理は、早口で反論した。
「生徒がよからぬ方向へ進んでいるのを、見つけ出して指導してあげるのも先生の仕事だがな。まあいい、三人とも今日の午後七時、サッカーコートに集合するように」
「分かりました」「えー」「はい」
いやな予感しかしないな。きっと罰かなんか手伝わされるんだろうな。しかし、ここは〝はい〟で揃うと思ったんだけどな。華炎さんの『えー』には、僕も少々吃驚している。
「華炎さん、『えー』はないでしょ。なんなら最寄の駅までランニングしてきていいぞ、当然可逆変化は使わずにな」
ちなみに、山奥にあるこの学校の最寄の駅は車で一時間は掛かる。この学校、山奥を開拓して造られたのだけど、非常に不便だよな。
「いえいえ私も一緒にサッカーコートに集合します許してください」
この二人、焦ると早口になるところがそっくりだ。双子なんだな。
「そう、なら許してやる。これから先生の言うことには『はい』と返事するように」
「はーい」
キンコンカンコーン―――
「お、時間だな。皆席着けー!授業始めるぞー!」
先生はそう声を上げた。一限の担当は遠藤先生のようだ。
「はい!分かりました!」
そう返事したのは華炎さんだった。
キンコンカンコーン―――
四限を終了とご飯の時間を告げるチャイムが鳴った。世界史の桐山先生はお腹が空いている僕たちを考慮して、一分前には終了の挨拶を済ませていたので、すでにこの教室の中はがらんとしている。僕は列が短くなったときを見計ろうと思い、教室に残っていた。予約制なので、売り切れの心配はないし。まあ、ただ人ごみを避けるための口実だけど。
「波藤くん、お腹空いてないの?」
後ろの席から、僕の左隣まで移動し、話しかけてきたのは日々谷さんだった。昨日より、赤みがなく、色白な感じの頬だった。
「いや、すごく空いてるよ。けど、人ごみはあまり好きじゃないから、空いたら行こうと思ってるとこ」
「そう。私はご飯食べ終わったら早速委員会の仕事があるから、先に行くわ」
そういえば今日の一限は今日から仕事がある放送委員を決めていたな。日々谷さんが立候補したんだっけ。
「ああ、頑張ってね」
「ありがとう。それじゃ」
「じゃあね」
日々谷さんは手振ると、早足で教室を出て行った。それで今教室にいるのは僕だけになった。氷架理と華炎さんもすでに食堂に行ってしまっている。そんな中、日々谷さんと入れ替わりに教室に入ってくる人がいた。さらさらの黒髪を揃えて切られた小学生のような髪型をして、おとなしそうな印象の顔をした。真新しい学ランを着た男の人だった。その人と目が合うと、僕が座っている席の前まで歩いてきた。
「こんにちは。君が波藤雅輝くんかな」
声は、男の人にして高めの少年のような声だった。初対面の人に話しかけているように、遠慮がちに訊いてきた。
「ああ、そうだけど」
そう答えると、彼は強張りを解いた様子だった。
「よかった。これから何か用事ある?」
「もう少ししたらご飯を食べに行くよ。何か僕に用があるの?」
「これからご飯の時間だよね、お腹空いているようならすまないんだけど、今から時間取れないかな?」
その少年声で彼は訊いてきた。確かに腹減ってるけど我慢すれば良いし、別に食堂のランチボックスが売り切れるわけじゃないし。困っている人がいたら話を聞いてあげないとな。
「ああ、いいよ」
あと、彼の霊体の動きに雑多さがある。大人しかったり、騒がしくはしゃぎ回ったり、他の霊体と仲良く宙を舞っていたり、恐らく、いやきっと彼は僕と一緒に入学した吸血鬼であり〝種種霊体の指揮者〟だ。人は見かけで判断できないな。
「ありがとう。場所変えてもいいかな?」
「いいよ」
「申し訳ない」
席を立って彼に付いて行った。
彼に連れて来られた場所。そこには誰もいなく、ただ肌寒い風が体温を奪いに絡んでくるだけだった。
「寒いね、学ラン着てくるように言って置くべきだった」
「気にしなくていいよ、今学ラン濡れてて、乾かしているところなんだ」
言われたとおり、寒いから猫背になってポケットに手を突っ込んでいるけどな。
「そだったのか、それなら言っても仕方が無いね」
この吸血鬼に連れて来られたのは、なんと屋上だった。昨日みたいに他の人がいる教室に連れて行かれるのかと思っていたけど、今回は彼一人。学校案内できたときと何の違いが無く、何か準備されていた訳でも無いようだ。
「此処に連れて来たのには、他の人に聞かれては困る話があるからでね。波藤くんはもう分かっていると思うけど、僕は吸血鬼だよ」
「ああ、それでいて種種霊体の指揮者だろ?」
学校の屋上で他に人には聞かれたくない話。恋愛の相談が通なんだろうけどな。そういう話じゃ無さそうだ。
「その通り、そこまで見抜けていれば君は波藤くんで間違いないね。寒いから早速本題に入るよ。実は波藤くんに手伝って欲しいことがあるんだ。お願いしていいかな」
「内容によるよ」
無理なこと頼まれても、僕にはどうすることもできないし。
「じゃあ言うよ。指揮者の撲滅を手伝って欲しいんだ」
聞き間違いではないはずだ。淀みのない彼の声は的確に鼓膜を振動させた。指揮者の撲滅。人殺しを手伝えと言っているようなものじゃないか。
「僕には無理だな」
「手伝うだけでいいんだよ。簡単なことをやってもらうだけだから」
どんなに簡単な方法でも、手伝いたくは無いんだが。断ったら殺すとか言わないよな。
「いや、多分それも無理だな」
「まあまあ、そんなこと言わずに僕の話を聞いて欲しい。この世界は指揮者によって滅ぼされようとしているんだ」
「どういうこと」
昨日、日々谷さんたちが言ってた話と全然違う。
「今から、大体一年半後。絶大な能力を持った指揮者がこの世界を支配しようと企てるんだ。奴は、指揮者でありながらも、いかなる可逆変化を使い。減衰することなく多くの国を滅ぼしていくんだ。勿論彼には多くの指揮者や吸血鬼が群れになって掛かったよ。ただ、見るも無残に皆殺されていってしまったけどね。そこで、彼に対抗したのは人間だ。彼らは中性子爆弾を奴に投下し、結晶の破壊ではなく、霊体を直接殺しに掛かった。おかげで、奴は倒せたけど、中性子爆弾を使ったのがいけなかった。被害国は復讐の念をこめて、水素爆弾を打ち返したんだ。そして、核戦争が始まった。地表は破壊と汚染で生き地は失われ、人々は地下での生活を余儀なくされたんだ。それで、僕は未来である過去から、この世界の過ちを正すために送られた使者なんだ。けど、僕たちだけでは、力不足で」
〝未来である過去〟一体何のことだ?全然話の糸口が見えない。何かの宗教団体なのか。
「それでも、僕に人殺しはできない」
何を言われようと犯罪には手を染めたくない。
「いいの?この世界は指揮者に滅ぼされるよ。波藤くん、きみも何か行動を起こさないと、殺されるよ」
少年声を低くして、かましかけてくる。怖気を覚えた。冷や汗が背中を滑り、返す言葉が思いつかない。
「そこまでよ!〝赤羽義紀〟!」
背後から、女刑事が犯人を窘めるような声が響いた。その声に振り向くと。日々谷さんは僕の背後を指差し、鋭利な視線を注いでいた。
「日々谷さん、この人が―――」
「希かぁ。久しぶり。やっぱりもっと変装しておくべきだった」
僕の言を断つ大音声で、少年は日々谷さんに言い交わした。
「ええ、久しぶり。髪の色変えても、その顔を見てすぐに分かったわよ」
「じゃあ、これもう必要無いや」
すると、少年――赤羽義紀は自分の髪に手を掛け、髪留めを外し、辺りに投げ捨てていった。全て外し終えて、黒いウィッグを外すと。纏まっていた、襟元に掛かるくらいのさらさらな血染め色の髪が風に揺れて広がる。
「そういえば、丁度希の可逆変化が欲しかったんだ。血、分けてくれないかなぁ?」
「お断りするわ」
「いいじゃないか。一口くらい」
「義紀に分ける血はないわ」
「そんなこと言わないでよ。・・・そうだ。希も僕の仲間にならない?希ならきっと飛車角になれるよ」
「それも、お断り」
「それは困ったなぁ。希がいなければ、この学校をもっと簡単に殲滅できるのになぁ」
「そう。なら諦めて本拠地へ帰って貰えません?今回は見逃すわ」
「そうしたいのも山々なんだけどね。なにせ、組織の長になんで手柄無しでは帰られないんだよねぇ」
赤羽は赤い霊体を辺りに召集させた。炎の霊体は移動速度に優れない。という事はこのまま帰る気はないらしい。僕は赤羽から後退さる。
「あれ?」
段差に足を踏み外したと思うと、視界が突然空を向いた。日差しが目に焼きつき。目じりに皺が寄るほどきつく目を閉じた。
「そうそう、今日この学校に僕の使いを送るから。波藤くんよろ――」
僕の身体が後ろへと倒れていくとき、赤羽の囁く声を耳にしたが途切れてしまった。それから日光が目に入らなくなったので、目を開けるとそこは真っ暗で何も見えなかった。その暗闇に、落ちている方向から薄い光が漏れ始め、闇が上がっていくと、何かクッション性の高いものに落ちた。すると闇が一点に集中し急速に小さくなって目に見えなくなり、コンクリートの白い天井が映る。突然の出来事過ぎて、大の字に寝転んだまましばらく呆然としていた。そう遠くないところからボールを弾く重い音と、騒がしい複数の人の歓声が鼓膜を振動させる。
「・・・日々谷さん、だよな、虚空創造だっけ」
『適当に出入り口を開ければ、その空間と、元いた次元とで行き来できるわ』日々谷さんの声が蘇る。今回は屋上と此処を繋いだということか。
「くそ!日々谷さんが危ない」
昨日はたまたま相手が弱かっただけだ。しかし今日は訳が違う、よりによって、相手はあの赤羽だ。
上体を起こすと、跳び箱やバレーやバドミントンのポールが、僕が居座っている走り高跳びなどで使うセーフティーマットを囲むように置かれていた。ということで此処は体育館の倉庫だろう。始めて入った。
爪が食い込む握り拳を振り下ろす。空気の抜ける音が力なく響いた。振り下ろした拳にそのまま力を入れ、立ち上がり切る前から、倉庫の出口目掛け走り出した。
セーフティーマットを飛び降り、無駄に広い第一体育館を全力で走り抜け、渡り廊下を全力で走り、空を飛べない僕は二段飛ばしで階段を駆け上がった。途中踊り場で誰かに肩をぶつけたが、謝罪の言葉なく、階段を上り続けた。
「はぁ、あぁ」
そして遂に屋上に通じる戸の前まで来た。ただその戸は霜を被るように凍っていた。
「こっのおおおぉ!」
開けてみようと、取っ手が霜を被って掴めなかったので、適当な凹凸を掴んで引いた。急激に熱を奪う痛みが掌を襲う。けれど掴みどころが悪く、力が思い通りに入らなくて、凍った戸はびくともしなかった。掴みどころを変えようと、手を離そうとするが、
「くっそおお!」
吸い付くようにへばり付いて、手の皮膚を全部剥がしてしまわないと取れなくなってしまった。剥がす勢いで手を引くが、思ったより人の皮膚は丈夫にできていて、破けることはなかった。段々手から体温を奪われ感覚が鈍ってくる。
何か方法が無いかと思い、へばりついた手はそのままで首だけを捻って辺りを見わたす。掃除用具入れのロッカー。屋上にあるプールに繋がる更衣室へ通じる戸。下の階へと降りれる階段。いずれも掌がくっ付いた僕には届くところに無い。
くそ、昨日日々谷さんに助けてもらったとき、最後の霊体を手放してしまって、今の僕に何の能力もない。まさか辿り着くことすらできないなんて。
改めて屋上に通じる霜を被った戸を睨む。よく見てみると急激に結露して、白く凍ったガラスの部分があった。戸の奥を確かめようと、隙間を見つけてはその先を目視しようとするが、どこも反対側が結露していて、確かめることはできなかった。
「うっ!」
突然、雷鳴が轟き雷光が目に焼きつく。続けて雷鳴が連なるように鳴り続け、目を瞑っても雷光が瞼を貫通してくるので、俯いてやり過ごした。
「くっそっ!」
凍ったガラスに思いっきり頭突きした。鈍い音と共に、バレーボールのスパイクを受けとめたような衝撃が頭を揺らした。頭を離すときにへばり付いた髪の毛が数本抜けた。
⁑⁑⁑
「逃がしちゃうんだ。たとえあいつに可逆変化が無くても、希の力を分けてあげれば、駒になってくれただろうに」
体育館用具室に落ちていく波藤くんに向かって何か囁いたあと、義紀は私に弁じた。
「いいえ。私の虚空創造はね、身に付けただけではすぐに使いこなせないもの。こうするしかなかったわ」
虚空創造は本来別次元に虚空を作り上げるだけで、何のメリットもない可逆変化だった。母から聞いた話だと『君は指揮者だが、何の能力だか分からない』と吸血鬼に私の曾祖父は話しかけられたそうだ。
今私の血を波藤くんに吸わせても、彼は空間を創り出すだけで、私たちがいる次元と繋げることはできない。次元と次元を繋ぐ扉は非常に重く、開けている途中で多くの霊体が押し潰されてしまうのだ。
「ふぅん、それじゃ僕が希の血を吸っても、すぐに使えるようにならないということか。まあいいや、悪いけどここで死んでもらおうかな。希が此処にいてもらうと非常に困るんでね」
すると、義紀の辺りを舞う紅い霊体は、無数の火の玉となり、剛速球で私の下に飛ばされた。けれど、私の準備は万端だった。予め私の周囲は虚空へと隣り合わせてある。そこにいる霊体を操り、私たちがいる空間を引き裂くように次元の扉をこじ開けた。この動作にコンマ一秒も掛からなかった。目論見どおり私の下に飛ばされた火の玉は全て別次元へと移送された。あとはこの火の玉を――
「掛かったね」
義紀の微笑み混じりの声がした。
「くっ!」
その声を耳にしたあと、力が抜け膝を付きそうになるのを必死に堪えた。針の如く鋭い冷気が、靴下を貫通して脹脛を刺した。俯いて足元を目視すると、脹脛から下はコンクリートの屋上に固定されるように凍り付いていた。その氷が膝を辿り徐々に領域を拡大してくる。既に足には力入らなくなってしまった。この戦い早く切り上げないと凍死してしまう。そう予測すると冷や汗が全身にどっと流れ、手は汗ばみ、下着の締め付けが不快だった。
「冷たい?希が血を分けてくれれば、こんな事しないで済んだのになぁ。ここで取引しようじゃないか?希が僕にたった三口飲ませてくれれば、その氷溶かしてあげるよ」
「お断り、する、んぐっ!」
太腿が凍る。領域を増やすたびに、突き刺す痛みに見舞われ、思い通りに霊体へ指揮を送れない。
「なら仕方が無い、凍死する前に、焼け死んでもらおうかな」
義紀は気まぐれに口にすると、再び数多の紅い霊体を召集させた。忽ちそれは無数の火の玉になり、剛速球で飛ばされる。それに間に合うように、突き刺さる痛みを押し殺して次元の扉をこじ開け虚空に移送させた。火の玉の気配がなくなると、こじ開けた状態を維持できず、重荷が圧し掛かったように急速に閉じる。その時多くの霊体が押し潰されたのを感じた。
「はぁ、はぁ」
痛みを押し殺した所為か、ランドセルを背負い始めた子供を一人背負ったみたいに肩が重くなる。
「どうしたの?疲れた?僕の攻撃はまだ終わってないよ」
義紀はまたも同じ方法で剛速球の火の玉を飛ばしてきた。それは同じように次元の扉をこじ開け虚空に移送させる。そして、また急速に扉を閉めてしまい多くの霊体が押し潰されて死んだ。
「無駄よ」
「なぁに、凍死するまでの時間稼ぎさ」
そして、また火の玉を飛ばす。私は他に成す術が無く次元の扉をこじ開け移送する。それで、また多くの霊体が押し潰された。すると、今度は冷気とは違う寒気が全身を襲ってきた。頭に血がうまく上らず、脳が縮まり、目が眩み、金属を擦り合わせたような耳鳴りがする。しかも氷は胸の辺りまで覆っていて、身体を捻ることができなくなった。幸いブレザーの生地は厚めだったので、然程冷たさは感じなかった。
「じ――か――ぎも―こま―だ」
耳鳴りと重なって、義紀が何言っているか分からない。その後、夜みたいに暗い視界の中、義紀の周りで何かが淡い紫色に光った。全神経を気付けて次元の扉をこじ開けようとすると、一瞬視界が真っ白の染まり、
「ぐっ!」
全身に高温の鞭が打ちつけられるように痛んだ。
「―――――――――――」
なんとなく、義紀の口元が動くのが見える。もはや、意識を保つことしか私にはできなかった。
「―――――――――――」
また義紀の口元が動く。ただ私には何を言っているか分からない。
⁑
「そこの君!人にぶつかって謝罪の言葉が一つも無しってどういうことよ!」
屋上へ通じる扉に途方に暮れていたとき、背後から女の子の鋭い声がした。首だけで振り向くと、桃色の長い髪が目に入った。何故か目に涙を浮かべている。
「華炎・・・さん」
「って、波藤くんじゃない。何泣いてるのよ」
華炎さんは僕の顔を見るなり眉間の皺は緩ませて目を見開いた。言われて頬に生暖かいものが滴っているのが分かった。
華炎。名前の由来は華やかな炎かな?
「悪いんだけど、僕の手を温めてくれ」
「はぁ?」
眉毛をハの字に曲げて、意味が分からないと顔でも表現する。
「凍り付いて取れなくたったんだ。事情は後で話す。だから急いで溶かしてくれないか?」
「そういうことね。どうしたの?もしかして苛められた?」
華炎さんは心配して、僕の傍まで寄って手元を覗く。
「苛められたわけじゃないんだ。けど急いでくれ!」
「分かった。だからそんなに慌てない。急ぐからちょっとの火傷は勘弁ね」
落ち着いた口調でそう答えると、右手から桜色の霊体を数十くらい発生させると、
「いくよ」
「ああ、頼む」
僕の頷きに、華炎さんは霊体を渦巻かせ、次々に炎へと顕在させた。
―――桜吹雪の舞い散る季節。花弁に身を隠し城一つ落城させた。櫻花の炎弁。
華炎さんの右手から燃え盛る炎は伝奇にも載った桜の花弁の如き桃色だった。見かけによらず、熱気が頬を焼けるような痛みを伴わせる。
そして、その炎を僕の手の周りから氷を溶かすために、まるで意識があるかのように氷へと近づいた。焼けるような激痛に奥歯を強く噛んだ。見る見る氷は解けていき、腕を引くと、多少まだくっ付いているところがありながらも、簡単に戸から手が離れた。華炎さんも右手の炎を消すと、数十の霊体に逆行し、華炎さんの右手へと帰来した。
「ありがとう。助かった」
力なく手首から垂れた右手を、氷が解けて露になった取っ手にかけようとした。
「待ちなさい」
しかし、取っ手に触れる前にその手は華炎さんの手にとっさに掴まれた。華炎さんの行火のように温かい手は、凍えた僕の手をやさしく包み込んだ。
「この先に誰がいるの?場合によって、波藤くんは足手纏いになるだけよ」
華炎さんの的確な発言に振り向くと、彼女は一直線の眼差しで僕と目を交わした。
「この先にいるのは、赤羽だ。日々谷さんは一人で奴と戦ってるんだ」
華炎さんの顔は寸時に青褪めた。一直線だった眼差しも戦き揺らぐ。すると、彼女は掴んだ手を無言で階段の方へと引っ張った。数歩連れられた後、引かれぬようにその場で踏ん張る。
「待てよ」
「逃げましょ・・・殺される」
華炎さんの顔は極寒の地に投げ出されたかのように血の気が失せていた。小刻みに震えているのが、繋がれた手を通じて伝わってくる。
「待てって。日々谷さんを置いていけないだろ!」
声を荒げて、手を思いっきり引いた。突然の荒げられた声に、華炎さんは動きを止めていたので、僕の手は何の抵抗無く彼女の手からすり抜けた。
「駄目よ、だって赤羽は――」
その時、華炎さんの言葉を遮るように、ガラスの割れる断末音、鉄でできたフレームの拉げる悲鳴が、爆音と共に鼓膜を叩いた。ガラスやそのフレーム一部に溶けて蒸気を上げているところがあった。
「見てよ、希を助けに、波藤くんが仲間を連れてきたよ」
爆発に破壊された戸の向こうに、不吉に唇を曲げ、目じりに皺を寄せた赤羽の姿。そして、赤羽と破壊された戸を挟むように、頭を残して透き通った氷に覆われた。日々谷さんが立っていた。顔は死人のように白く、唇は青く、瞳はかろうじて薄く開いてた。
「日々谷さん!」
「待ちなさいよ」
氷の柱と化した日々谷さんの下に走った。華炎が続く。
「大丈夫、殺しはしないよ。お、君が連れてきたその女は飛火の娘じゃないか。父に似て背が低いなぁ。桜色の炎は綺麗だったから、もう使い切っちゃったよ」
「・・・」
華炎さんは無言で、震えの止まり切らない瞳に憤りを乗せ、赤羽へと差し向けていた。
「ねぇ、血をさ、たった三口でいいんだ。分けてくれないかなぁ?」
「も、もし、断ったら」
華炎さんは、猫に睨まれた鼠のように震えていた。
「希の血を、この綺麗な顔に傷つけてでも今から吸う」
赤羽は大きく伸びた犬歯をちらつかせながら口を三日月に開く。華炎さんは震えたまま、睨み付けていた。その瞳から涙が一滴零れ落ちた。
「――わかった」
「華炎さん!」
噤まれた口から、鈴の音のように一言だけ告げた。
「だけど、私の血を吸ったら、すぐに此処から去りなさい」
嗚咽混じりの声に、何かに縋りたい思いが、僕にも伝わってきた。
「うん、いいよ。それで、帰る口実ができるからね」
赤羽は華炎さんに歩み寄ると、手前で膝をつき、王子様がキスするような手つきで、彼女の右手を左掌に載せ、親指で軽く押さえると、慣れた手つきでブレザーを捲くり、ブラウスのボタンを外し捲くった。
「血を分けてくれることに、感謝します」
赤羽は一度動作を止め、俯きながら礼儀正しい面持ちで一言した。突然の一言に華炎さんは戸惑った様子だった。それから、華炎さんの白い腕にゆっくり牙を立てた。
「ぐっ」
華炎さんの呻きが漏れる。瞼は力いっぱい閉じられ、歯を食いしばっている。
赤羽の喉仏が三回浮き上がったあと、口を離した。その口元には血が薄く染み付いていた。吸血が終わった後も、白い肌に開いた二つの穴から血は止まらず、雫が流れる。
「美味しかったよ」
赤羽は頬を赤くして、華炎さんに微笑んだ。
「お世辞はいらない。早くどこかへ行きなさい」
華炎さんはその微笑に鉄槌を下すように告げた。
「分かったよ。すぐに出て行く。あと、お世辞じゃなくて本当に美味しかったからね。じゃあね」
赤羽はそう言い残して、一瞬淡い黄色の光になると、忽然と姿を消した。
キンコンカンコーン――
四限を告げるチャイムだけが空しく鳴った。
「よかったのか?」
呆然と立ち尽くす華炎さんに訊いた。
「これが赤羽を追い出す最善の方法だったのよ」
誰も居ないほうを向いて、俯きながら彼女は答えた。足元には血と涙が水玉模様を作っていた。
「落ち込んでいるところ悪いんだけど。日々谷さんを助けて欲しい」
目を移すと、首から下が凍り、氷の柱となった日々谷さんが映った。幽霊のように白い肌青黒い唇が、いかにも死人を思わせた。実際、深い眠りに落ちているように目は閉ざされ、首も垂れている。
「そうね、早くしなくっちゃ」
華炎さんは答えると、彼女を包み込むように桃色の霊体が無数に現れ、彼女を中心に渦巻いた。密度が薄くなっていくと、透き通って奥が把握できる朱白色の結晶が炎を纏って顕現されていた。
それは人の型をしていた。江戸時代、大奥で着られたような着物を羽織り、頭部はシンプルに髪型のポニーテールのようで腰の辺りまでの長さがあった。そして目の部分は淡いながらも他の部分より強く朱白色に発光していた。背丈は大体僕と同じくらいで、全体が透き通っていて向こう側が窺えた。
華炎さんは、日々谷さんのいる方へ右手を掲げると、桃色の霊体が雀の群れのように現れ、日々谷さんを包み込んだ。霊体は蛍のように光を強めると、覆われた氷は見る見るうちに溶け、支えを失った日々谷さんはその場に力なく倒れた。その日々谷さんを華炎さんは抱え上げる。
その直後、朱白色の結晶を鎧のように纏った、やはり朱白色の炎が僕の足元に伏せた。よく見るとその炎はは犬の形をしていた。華炎さんの式神だ。
その式神が自分の背中を鼻で指して、「くぅん」と鳴く。背中に乗れということかな?
躊躇っていると今度は「わん」と吠えた。「わ、わかった」と慌てながら犬の背中の結晶に跨った。すると、伏せていた姿勢から立ち上がり、足が宙に浮いた。脚長いな、この犬。
僕が犬の背中に乗ったのを確認した華炎さんは、天へと跳びあがり、宙に浮いたまま主要棟の西側にある救護棟へと飛んだ。それに続き、僕が跨っている犬も宙を駆けた。その犬の両サイドには、朱白色の結晶でできた長さの針が、翼を広げたように数本並んでいた。救護棟は主要棟にある、保健室では解決できない怪我人や病人を治療したり看護したりする、小さな病院のような施設だ。
霊体で構築されたものは、空を飛ぶのに羽や翼、エネルギー噴出による推力などは必要ない。ただ、それでも翼を広げる必要ができるのは平衡状態を保つためだ。ほぼ無常力状態の全体変化では、上下左右の感覚が鈍り、戦闘中いつのまにかに地面に追い詰められたり、宙に浮いた後どこに進めばいいかわからなくなったりすることがある。これらを防ぐために重力へアクセスし上下を明確にする仕組みが必要になってくる。それが翼だ。左右の翼を重力と交信ができようにして、そこから上下を判断する。下へと力が加わる方が地面なので、それが左右均等に伝わるようにすれば、平衡状態を保てたことになるのだ。
そうして、左右どちらかに傾くことなく、風を切って救護棟前に降り立った。そのあと、華炎さんは僕の前まで歩み寄り、抱えている日々谷さんを僕に差し出した。日々谷さんを抱えると、救護棟へと駆け込んだ。日々谷さんは見かけよりも遥かに軽く、炎を纏った華炎さんの温もりが冷めると、冷蔵庫から取り出したみたいに冷たかった。意識は無く、目は閉ざされ、腕はだらりと垂れていた。
「すみません!」
救護棟入ってすぐのロビーにいた、看護婦に大声で話しかけた。
「救護棟では静かに。ん、その子大丈夫?」
看護婦は振り向き僕を戒めると、抱えられた日々谷さんを見て、ゆったりした表情から豹変し、真剣そのものの顔になった。
「急いで、付いて来て」
小声ながらも、頭の中に明確に伝わってくる声で告げると、彼女の近くにあったスライドドアを引いて先に入ると、僕に入るよう招いた。スライドドアの傍にあるプレートには『緊急搬送室』と記されていた。
「ここに寝かせて」
緊急搬送室に早足で入り込むと、看護婦の指示通りに、入ってすぐの所にあった純白のベッドに日々谷さんを横たわらせた。看護婦は直ちに日々谷さんの頬や、手に触れて、
「冷たいし、脈が弱いわ。一体君たちは何やってたの?」
と僕に訊いた。正直に答えていいか、思い倦ねる。赤羽が来たとは流石に言えない。
「そ、それは・・・」
「まぁ、いいわ。とりあえずそこにある掛け布団でも掛けといて。担当医呼んでくるわ」
「分かりました」
そう言い残すと、看護婦は早歩きでここを去って行った。言われたとおりに掛け布団を日々谷さんに掛けた。
「大丈夫だった?」
全体変化を解いた華炎さんが駆け寄って訊いてきた。
「今はなんとも、担当を呼んでくるってさ。あのさ、これあげる」
財布の中から、常備していた絆創膏を取り、華炎さんに差し出す。
「うん、ありがと」
華炎さんは、噛まれていない方の左手で受け取った。右腕の傷はブラウスとブレザーの袖を下ろし、隠されていた。傷がブラウスの生地に擦れて痛むのだろう、右腕は不自然にまっすぐ垂れ伸ばされていた。
「お待たせしました」
先ほどの看護婦に連れて来られたのは、三十代くらいの若い白衣を纏った男性だった。担当医だ。看護婦と同様に、脈と体温を診ると、訝しい面持ちになった。
「今すぐ、手当てが必要だ。輸血の準備を―――」
医師が慌しく治療に精を出している中。日々谷さんのあの言葉を思い出していた。『赤羽がその気になれば、この学校なんて十分も経たないうちに手も足を出ずに壊滅状態になるのよ。だからお願い!――波藤くん!私たちに力を貸して!』今回、赤羽は指揮者を殺すことが目的ではなかったらしく、強襲を仕掛けたり、本気で日々谷さんを殺しに掛かったりしなかった。
けど、日々谷さんから足手纏いだと、戦いから離脱させられた。
もし、赤羽が本気を出していたら、日々谷さんは殺されていた。
助けられてばかりじゃないか。
ここに来てから。
そう、ここに来てから。
昨日今日と二日連続で。
これからも毎日助けてもらう羽目になるのだろうか。
「――もしもーし、聞こえてませんね」
「へ、」
いきなり、華炎さんは僕の手くびを掴んで引いた。突然の出来事に、腑抜けた声を出す。
「やっと聞いてくれた。あとは医師に任せて、私たちは授業に戻るよ」
「あ、ああ、日々谷さんは?」
「大丈夫よ。聞いてなかったの?」
「ごめん、考え事してた」
「暢気ね。日々谷さんの凍傷はそれ程進行してなかった。けれど一番深刻なのは、可逆変化による多量の血液喪失ね。だけどこれは今やってる輸血で解決できる。その代わり二三日の間は可逆変化を使えなくなってしまうけどね。今は意識が無いけど、すぐに目覚めるそうよ。安心していい」
「よかった」
「そうね」
口ではそう言ったけれど、内心正直に『よかった』と思えなかった。
僕は人間を目指していた。けれど、結果は誰も救えなかった。昨日は吸血鬼であるがために、指揮者に襲われた。その時、日々谷さんに助けてもらった。そして今日は吸血鬼に日々谷さんは痛撃された。華炎さんは赤羽に血を吸われた。彼女にとってこれほど屈辱的なことはなかっただろう。それなのに何もできなかった。相手に立ち向かう可逆変化が無かった。
華炎さんに手を引かれている中。二者択一の考えが頭を悩ませていた。って、あれ?
「華炎さん。手、離していいよ」
教室に向かい、主要棟と救護棟の間を走っていた華炎さんは、急に脚を止めた。手首を掴まれていたので、目の前に立ち止まる華炎さんを、すぐに止まることはできなかったので横に逸れて交わした。振り向くと、顔を紅潮させた華炎さんが、
「ご、ごめんなさい!」
あたふたと、頭を下げてきた。突然のそのしぐさに、考えていたことが吹き飛んだ。なんと言えばいいのか、一言で表すと、可愛い。そう可愛かったのだ。いつも氷架理の前では傲慢な態度を取っているくせに。
「いや、気にしてないからいいよ。行こう」
「う、うん」
教室目指し、再び走り出した。
けれど、僕たちが1‐12組教室に着いたのは、四限終了十分前で、その授業は欠課となってしまった。
それと同時に、華炎さんと同時に教室に入った僕は、クラスの皆から華炎さんを吸血したんじゃないかと、疑惑の眼差しを向けられるようになった。
ここまで読んでくれてありがとうございます。物語はまだまだ続きます。お楽しみに。
後書きの書き方はこれであっているのかな?他に書くことがある気がする。
追伸
ここまでは、投稿する前に書かれた内容です。
続きは現在執筆中です。
僕は書くのはそんなに早い人ではありません。
しばらく待たせることになると思います。
申し訳ないです。
追伸2
申し訳ないです。
3章は思った以上の難航振りを見せています。
諦めずに書きますのでしばらくお待ちください。