第7話
弦が鳴った。
乾いた音と同時に、矢が一直線に空を裂く。
──が。
神の前で、矢の軌道が歪んだ。
まるで見えない指で掴まれたかのように、矢はくの字に曲がり、地面へ突き刺さる。
「……っ」
ナギくんが舌打ちする間もなく、二射目、三射目。当たればひとたまりもないであろう速度で打ち出されるそれらは、しかしどれも神に届く前にねじ曲げられ、逸れ、砕けた。
「空間ごと歪めとる……!」
「ここは我が神域」
神が低く告げる。
「理は、我に従う」
途端、ナギくんの周りの地面が無数の手が生えたように隆起した。そしてゴゴ、と音を立て瞬く間にナギくんを覆い隠す。
なんておかしな光景だろう。地面が、まるで粘土のような動きでナギくんを閉じ込めてしまった。折り重なった地面は一切の隙間もなくドーム型を成して、その中にいる彼の様子は窺い知れない。
「ナギくん!」
咄嗟に私が走り出そうとしたそのとき、ドゴン、と固いものが砕ける重い音がした。
同時にドームの中からエネルギーをまとった一筋の矢が空へ飛び出し、弧を描いて神へ向かっていく。神は再び軌道を曲げて矢を地面へ突き落とした。落下先の地面は抉られて破壊音とともに小さなクレーターを作った。
「腐ってもまだまだ立派な神域持っとるんやなぁ。そのわりには、現世に干渉するんがずいぶんまわりくどい方法やけど。神域にリソース割きすぎたんちゃう?」
次の瞬間、彼を覆っていた地面がバラバラと音を立てて崩れ落ちた。
中から一歩も動いていない涼しげな顔をしたナギくんが現れ、すでに次の矢を番えている。その数は五本。弦にかけられた五本の矢は、彼の長い指が離すと同時に空気が破裂するような速さで射出された。
「図書室のあの本。あのページを読んだやつしか、ここに引き摺れ込めへんのやろ? お前」
神の気配が、わずかに揺れた。
放たれた五本はまるで意思を持っているようにそれぞれ別々の軌道を描く。ナギくんはすでに空気を切り裂いて疾走を開始していた。
「しかも日が暮れてからやないと、まともに動けへん」
ナギくんは足を止めず、再び新たに五本の矢を放つ。それらもまた物理法則を無視したジグザグな動きを見せた。
さらに間髪入れず、今度は十本の矢を彼は空へと打ち上げた。ひゅ、と鋭い音が鼓膜を掠る。
「織崎さんは放課後、あの本を開いてもうて──その瞬間、神域に引き込まれた。違うか?」
空へ打ち上げられた音速の矢は弧を描き神へ降り注ぐ。光るエネルギーをまとったそれらの光景は夜空を裂く流れ星を思わせた。地を這うように空中を行く十本の矢と、流星の如く降り注ぐ十本の矢。それらは膨大なエネルギーをまとって一斉に神へ襲いかかった。
ひとつだけでも小さなクレーターをつくる矢が一ヶ所へ集中し、大きな爆発音が校庭に響いた。暴風で砂埃が巻き上がり肌をちくちくと刺す。神のいた場所には煙が上がっており姿が見えない。
「……その通りだ」
煙の向こうから声がした。私を背にするように立つナギくんの肩がぴくりと揺れる。
「我が名を、我が由来を知った者。忘れ去られた我を、再び“認識した者”のみが境を越える」
空気が、重くなる。
やがて煙が晴れ──
「うそ……」
私の口から、震えた声がこぼれ落ちた。
神は佇んでいた。十メートルほどはあるクレーターの中心部に、傷ひとつない姿で。
「神域は我が子たちを匿う場。何よりも力を入れるべき場所であろう──ここにいる限り、何人たりとも我に逆らうことは叶わぬ」
忌々しげに笑って小さく舌打ちするナギくんの頬を、汗が伝った。
私たちは理解した瞬間、同時に悟る。
──ここでは、勝てない。
「……傷つけるのは、本意ではない」
神が一歩踏み出す。
それを見たナギくんが咄嗟に私へ手を伸ばす。
「……っ、律香!」
同時に神の右手がゆっくりとナギくんへ向けられ、何かを掴むように掌が握られた。
瞬間、ナギくんの体がぴしりと動かなくなる。まるで、見えない大きな手に体を握りしめられているようだ。ナギくんは短く舌打ちをした。
「人ではないようだが」
神は一息の間にナギくんのそばに立っていた。顔の布がはためいて、薄い唇が動くのが見える。
「しかしお前もまた、我が校の生徒なれば」
静かな声が響く。立っていたナギくんの体は、いとも簡単に地面へ伏せられた。
「ぐっ……」
「魔に魅入られしそこの女生徒とともに、我が社へ招こう」
布で見えないが、その視線は私に向けられている。そして布の奥から穏やかな声。
「案ずることはない。すでに子はいる」
その言葉に、心臓が跳ねた。
「これからもっと増えるだろう。……今の宮辻市は、危険すぎる」
「……待って!」
震える喉で叫んだせいか少し裏返った声が飛び出た。
「すでに子はいるって……織崎さんは!? 無事なの!? お社にいるの!?」
瞬間、視界に影が落ちる。さっきまでナギくんのそばにいた神は、瞬きの間に私の目の前に移動していた。すぐ近くで、穏やかで抑揚のない声がした。
「今からその目で確かめるが良い」
音もなく、ゆらりと。蜃気楼のように手が伸びてくる。
それを見るばかりで、私の体は金縛りにあったかのように動かない。
「あ……」
「律香!逃げェ!!」
ナギくんの叫びが遠くに聞こえる。私の意識は、白い布の影から覗く指先に集まっていて。
そして、長い指が私に触れ──
──パンッ!!
銃声。
乾いた音が、世界を切り裂いた。
神の手が爆ぜ飛ぶ。赤い血は出ず、光の粒が飛び散る。
「なっ……!?」
困惑する神の声と同時に、校庭の空間が──裂けた。
「匂う、匂うぜぇ……」
裂け目の向こうから、聞き覚えのある声。
「律香の匂いだ」
歪んだ空間を蹴破るように、目が覚めるような真っ赤なパーカーが現れる。
片手に銃。
ぬるい風に何にも染まらない黒髪が揺れる。
真紅の瞳が、獲物を捉える。
「ははあ」
ジグくんが、獣のように口角を吊り上げた。
「俺の番を攫いやがったクソ野郎は──テメェだな?」




