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第6話

 そう呟いた瞬間、背筋を冷たいものがなぞった。


 教室は静まり返っている。秒針の音すら聞こえない。時計の針が停止しているのだ。

 さっきまでそこにあったはずの世界が、丸ごと切り取られたみたいだった。

 そのとき。


 ──コツ。


 廊下の向こうから、足音がした。


「……っ」


 反射的に、私は息を殺す。

 誰かいる。でも、それが“人”かどうかは、わからない。

 足音は一つ。

 ゆっくり、確かめるように近づいてくる。


 コツ、コツ。


 心臓がうるさい。

 音を立てないように、私は机の陰に身を寄せた。

 やがて──がらり、と引き戸が開く音。


「律香!」


 飛び込んできたのは聞き慣れた声だった。


「無事か!?」


 顔を上げると、そこに立っていたのは制服姿のナギくんだった。

 少し息を切らし、周囲を警戒するように視線を走らせている。


「ナギくん……!」


 その姿を認識した瞬間、張り詰めていたものが一気にほどけた。


「よかった……一人じゃなかった」

「ほんまに無事でよかったわ。気ぃ抜いたらあかんで、ここ」


 彼はそう言って、私に手を差し出す。その手を掴んで私はよろよろと立ち上がった。


「神隠し……だよね、これ」

「十中八九そうやろな」


 二人で教室を出て、廊下を進む。

 相変わらず人の気配はない。敵影も、異変らしい異変も見当たらなかった。

 ただ見慣れた廊下が、見慣れない光に照らされて続いている。空気は冷たいのにどこか生ぬるい気がして気持ちが悪い。


「……なにも起きないね」

「せやな。逆に気持ち悪い」


 ナギくんは歩きながら、時折メガネを指で押し上げる。蛍光灯の赤黒い光を反射してレンズがきらりと光った。


「ナギくん、そのメガネ……」

「ん?」

「いつもより、光って見える」

「そらまぁ、ここ現実やないしな。視えるもんも増えるわ」


 そう言って、軽く笑う。

 人当たりが良く見えて、その実何を考えているのか読めない笑顔。


 見慣れたその笑みに赤黒い影が落ちているのを見て──唐突に、背後から声が叩きつけられた。


「律香!! 伏せろ!!」


 考えるより早く、体が動いた。

 私はその場に伏せる。


 ヒュ、と空気を裂く音。

 続いて鈍い衝撃音が響いた。

 顔を上げると、すぐ隣にいたナギくんの胸元から一本の矢が生えている。


「ナ──」


 言い終わるより先に、視界の端から飛んできた影がナギくんの体を吹っ飛ばした。


「──すまん、遅くなった」


 聞こえたのは同じだけど別の声。

 

 隣に佇む、飛んできた人影を見上げる。

 忍装束に身を包み、手には弓。

 そして、メガネはない。


「ナギ、くん……」

「よく動けたな、律香」

「……狐塚渚のフリしなくていいときは、邪魔だからメガネ取るって言ってたでしょ」


 安堵とともに下手くそな笑みをしてみせる。

 ナギくんはほんの一瞬目を見開き、それから小さく笑った。


「よお覚えてたな。お利口さんや」


 その声、その口調、その表情。

 間違えようがない。私のよく知るナギくんそのヒトだ。


「……で」


 彼──本物のナギくんは視線を鋭く尖らせて、廊下の向こうへ向ける。

 その先には、“ナギくんの姿をした何か”。


「なに勝手にヒトの姿使(つこ)てるんや、お前」


 床に倒れた身体が、音もなく崩れる。制服も、肌も、輪郭すら曖昧になって、黒い影のようなものが床に染み込んでいく。


 そこから影のような泥のような何かがむくむくと沸き上がって代わりに現れたのは──顔を白い布で覆い、くすんだ色の和服をまとった人型。


 それが、ゆっくりと立ち上がる。

 人間にしては、ほんの少し背が高い。和服はところどころほつれている。顔の布には筆で書かれた「北」の一文字。

 関節の動きはどこかおかしく、それは下手くそな操り人形によく似ていた。


「……やっと本性かいな」


 ナギくんが低く構える。和服のナニカは無言のまま、一歩踏み出した。


 次の瞬間。

 拳と拳がぶつかる鈍い音が、廊下に炸裂した。


 はやい。どちらも。びりびりと空気が震える。

 弓を捨てたナギくんは鋭い体術を息つく間もなく叩き込む。一切の無駄がない動きは肘、膝、掌底しょうてい――すべてが急所狙い。

 だが、相手は飽和するようなそれらをすべて受け止めて返す。

 人の範疇を超えた人体の動きの応酬に、私は呼吸するのを忘れていた。


 拳が交錯するたび空気が揺れる。ナギくんのかかとが鋭く振り下ろされ、相手はそれを片腕で受け止める。相手の足元の床に放射状のひびが走った。


「おまえ、宮辻北高ここの守り神やろ?」


 ナギが唇の片端を吊り上げて吐き捨てる。


「学校守るために祀られて、忘れ去られて──腐ったクチやな」

「……腐ったとは、随分な言い草だ」


 布の奥から、低い声。

 踵を受け止めた方の手が瞬時にナギくんの足首を掴み、横一文字に振り抜かれる。人形を投げるように容易くナギくんは壁に叩きつけられた。


われは、我が子らを守っているだけだ!」


 間髪入れずに、神の掌がナギくんの腹へ突き出される。

 衝撃波のような圧が走り、ナギくんの体半分が壁に埋まって校舎が揺れた。

 

「守っとる?」


 壁の中から、小馬鹿にしたような声がした。


「アホ。自分の神域しんいきに引き摺り込んで隔離するんは、保護やなくて誘拐っちゅうねん。学校の神さんなんや、そんくらいお勉強したらどうや?」


 挑発的な笑みを浮かべるナギくんの手は、すんでのところで神の拳を受け止めていた。

 神の気配が膨れ上がる。廊下の照明が一斉に割れ、甲高い音とガラス片が降り注いだ。


「理解できぬか……! 外は危険に満ちている! ならば、ここに留めるのが――」

「過保護も大概にせえや!!」


 ナギくんの右脚が思い切り神の腹に直撃した。反対側へ蹴り飛ばされた神は壁の柱に着地すると、勢いを殺さずそのままナギくんへ弾丸のように襲いかかる。


 再び、肉弾戦が繰り広げられる。拳、肘、足、体重、速度。

 私なんかが動けば一瞬で死にかねないと悟る迫力に、立っているだけで精一杯だ。せめてナギくんの足をこれ以上引っ張らないようにと考えるが、廊下は狭すぎた。


「ひっ……!」


 神の一撃が私のすぐ横の壁を砕く。粉塵が舞い、飛び散った破片が私の頬を掠った。


「……ああもう、狭くて敵わんわ!」


 ナギくんが舌打ちした次の瞬間、私の視界がぐっと近づいた。


「え?」

「行くで律香、口閉じとき!!」

「え?ちょっ──」


 彼の腕が、私の身体を俵のように抱え上げる。その一秒後、


「うわあああっ!?」


 がしゃん、と派手な音を立てて窓ガラスが砕け散った。


 冷たい空気。ガラス片が散らばる透き通った音。

 視界がぐるりと回る。

 校舎三階から地面への落下。胃がひゅ、と縮む心地がした。


 ナギくんは空中で体をひねり、私を横抱きに抱え直す。そして、ドンと大きな音を立てて校庭に着地した。

 衝撃こそあったものの、痛みはない。私は止めていた息を吐き出した。


「は、はぁ……!」

「立てるか?」

「なんとか……」


 下ろしてもらい顔を上げた瞬間、背筋が凍った。


 割れた校舎の窓ガラス。そこから、降り立つ影がひとつ。

 見えない階段を降りてくるようだった。重力を無視した動きで、空中を歩く神は悠然と校庭へやって来る。顔の布と和服の袖が生ぬるい風にはためいていた。


「逃がさぬ」

「上等や」


 ナギくんの手に音もなく和弓が現れる。独特の曲線を描く弓幹ゆがらはこの空間の光を反射して鈍く輝いていた。


「律香、下がっとき」


 ナギくんが一歩、前に出る。いつのまにか現れた矢がつるにかけられ、ぎり、と引き絞った音が鳴る。


「ここなら、存分に動けるわ」


 おかしな夕焼けに染まる校庭で、吸血鬼と忘れ去られた神の戦いは再び幕を開けた。

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