第1話
「律香さん起きて。昼休みだぞ」
「どわっ」
ふと意識が浮上して目を開ければ、端正な顔がすぐ目の前にあって思わず頓狂な声が出た。
そんな私を見て目の前の彼は「カハハ、なんだその声」と楽しそうにケラケラ笑う。誰のせいだと思ってるんだ。
「ほら律香さん、早く食堂行こ。席なくなっちまう」
「うん、わかったから腕引っ張んないで、ちぎれる」
ご飯ご飯、と嬉しそうな目の前の彼は神宮寺士狼くん。通称ジグくん。
ウルフカットの黒髪に真っ赤なパーカー、制服のネクタイはいつも着けていないクラスメイトだ。その鋭い目つきや制服の着崩し方から一見不良のようにも思われがちだが、話せば明るく人懐こい人物である。非常に整った顔との相乗効果で女子からの人気は高い。
そんな彼、実は中学からの同級生だったりする。中学のころからなぜかよく話しかけられ、今ではすっかり仲良しだ。なんでここまで仲良くしてくれるのかいまだにわからない。
それにしても、懐かしい夢を見た。正直、トンネルのこととかほぼ忘れかけてた。
あ、そういえば。隣を歩く彼をちらりと見やる。
ジグくんの目も、あの狼みたいな赤色だったな。
無事に食堂で席を確保し、いただきますと手を合わせようとしたところで背後からよく通る声に話しかけられた。
「よおジグ、律香さん!」
隣ええ?、とカレーが乗ったお盆を持って尋ねるメガネをかけた彼は、狐塚渚くん。通称ナギくん。すらりとした体躯とよく通る大きな声が特徴的な男の子だ。
彼とはクラスは違うが、ナギくんとジグくんが仲が良いので流れで私もなにかと話すことが多い。
彼もまた、よく整った顔をしている。
涼しげな眉、切長なオレンジ色の瞳。すらりとした体躯はモデルだって目指せそうだ。
どうぞ、と返せばお礼を言いつつナギくんは私の隣に座る。
「は? おいナギ、お前はこっち座れや。なに律香さんの隣座ってんだよ」
と若干不機嫌そうに自分の隣を指すジグくんに、
「え、嫌やけど」
さらりと返し、ナギくんはカレーを食べ始める。ちなみにそのカレーは特盛りだ。
ジグくんはなにかぶつぶつ文句を言いつつ、明らかにニ人前以上はあるお昼ご飯を食べ始める。
この二人、ホント食欲旺盛だよなあ。
ぼんやりとそう思いながら、私は焼き魚定食に箸をつけた。
◇ ◇
「うっわ、外真っ暗……」
誰もいない昇降口を出ると、夜空にはすらりとした三日月が浮かんでいた。
放課後、担任に呼び出されたと思ったらなぜか大量の雑務を任された。もとい押し付けられた。
手伝ってくれたら遅刻一回だけ揉み消してやると言われたので渋々了承したのだが。これで今後遅刻しても安心だね。
それにしても、こんな時間まで残ることになるとは思っていなかったので、心の中で担任にブーイングしておく。
そんな時だった。
「……なに?」
ずん、と。
辺りの空気が何倍にも重くなるような感覚に襲われた。しかしそれは一瞬のことで、周りの景色にも特に変化はない。ぞわりと粟立った肌だけが残っている。
目の前の景色は何も変わらないのに、たしかにこの世界の何かが以前とは決定的に変わってしまったような感覚。
……ただの気のせい。そう思うことにした。
胸に浮かんだなんとも言えない不安から目を逸らすように、私は帰り道へと足を進めた。
私のいつもの帰り道は少し入り組んだ住宅街だ。普段から交通量、そして人通りも多くはない。
その上、今は夜。車はおろか通行人だって一人もいなかった。
等間隔で設置された街灯の明かりだけが、小さくぽつぽつと夜道を照らしている。時々チチ、と音がして街灯が点滅する。少し心許ないな、なんて考えながら誰もいない夜道を進んだ。
コツコツ。
私の足音だけが夜の空気に消えていく。
コツコツ。
コツコツ。
コツコツ。ずりずり。
「──」
どくん、と心臓が大きく鳴った。
……今のは、聞き間違い?
思わず立ち止まりそうになった足を、なんとか前に進める。
コツコツ。ずりずり。
──聞き間違いじゃ、ない。
さっきまで私だけだったこの道に、だれかがいる。
私の後ろに、だれかが──ナニカがいる。あれは、人の足音だとは、思えない。
ぶわっと嫌な汗が噴き出してくる。制服のシャツが背中に張り付いて気持ち悪い。じっとりとした空気が私の手に足に、首に絡みついてくる。
振り返えるのが怖くて、私は肩にかけたカバンを握りしめて足を早めた。
コツコツ。ずりずり。コツコツ。ずりずり。
足音はぴったりと私に張り付いてくる。
振り返るのは、怖い。でも、私の後ろにいるソレがなにかわからないのも、怖い。
だから私は見てしまった。ちらりと後ろを盗み見てしまった。
「──っ」
ひゅ、と喉が鳴った。
私の少し後ろ。点滅する街灯の下に、ソレはいた。
黒いクレヨンでぐちゃぐちゃに塗りつぶしたような、胡乱な影。顔とおぼしき部分には、目のような白い穴がぽっかりと空いている。その穴と、目があった。
──あ、だめだ。アレは、だめなやつだ。
弾かれたように私は走り出した。立ち止まっちゃいけない。恐怖ですくみそうになる足を、必死に前へ前へと動かす。
ずりずりずりずりずりずりずりずりずり。
走り出した私に合わせて足音も早まる。怒っているような、愉しんでいるような。耳の奥にまとわり付いてくるような足音。
アレに捕まったら、どうなるんだろう。そんなこと考えたくもないのに、どうしても頭の中をぐるぐる回る。
ずりずりずりずりずりずりずりずりずりずりずりずりずりずりずりずりずりずり。
足音が聞こえるほど、脳が恐怖に蝕まれていく。
走っている疲れと恐怖で、だんだんうまく息ができなくなる。酸素が頭に回らない。じわりと涙が滲む。
「うあっ」
とうとう、ぎこちなく必死に動かしていた足がもつれてその場に倒れ込む。膝を擦りむいたけれど痛みなんて感じなかった。
今の私の脳は痛みなんかよりも強大なもので支配されている。
ずりずりずりずりずりずりずりずりずりずりずりずりずりずりずりずりずりずりずりずり、ずり。
「……ぁ」
この上ない絶望感の中、振り返る。
目の前には、なんの感情も込もっていない目で私を見下ろす黒い影。
ああ、だめなんだ。私、ここで終わりなんだ。
ずり。
影が一歩踏み出す。
あ。いやだ。いやだいやだ。怖い。助けて。死にたくない。お願いします。誰か。助けて──
「おい、律香になにしてんだお前」
聞き慣れた声は、銃声とともに聞こえた。
同時に、目の前の影は瞬く間に霧散する。その後ろには見慣れた人影。
「やっぱり様子見にきて正解だったな。だいじょうぶか、律香?」
見慣れた人影──ジグくんは、心底心配そうな顔をして私の前にしゃがんだ。しかし私はいまだ身を固くしたままだった。
ジグくんのいつもの制服姿とは違う、黒のTシャツにモッズコートを羽織った姿──その手に拳銃さえ握られていなければ、私も心から安心できたのだが。
私の怯えた目が拳銃に向かっているのに気付いたジグくんは、慌てた様子で拳銃を持つ手を振った。たちまち、銃は空気に溶けるように消える。
「あ、ごめんな! 怖かったよな! ほーらもうなんにも怖くないぜ、お前のジグくんだぞ」
にぱ、と鋭い犬歯を見せてジグくんは人懐こい笑みを浮かべる。その見慣れた笑顔に、少しずつ強張っていた全身の力が抜けていく。
と、ジグくんの目線が私の膝へ向いた。
「あー、こんなになってかわいそうに……痛かっただろ」
「え、まあ……」
「血ィもったいないし、いいよな」
なにが、と尋ねるより早く。
べろり。
ジグくんの舌が、私の擦りむいた膝を舐めた。
…………舐めた?
「ん、ちょっと砂利が……」
「うわぁああああああああ!!」
「ぶべ!?」
反射的に飛び出た右スイングがジグくんに直撃した。彼の体はコンクリートに倒れる。
「な、なにすんだよ律香……ってグエ!」
「お前がなにしてんねん。いきなり膝舐めるとかアホちゃう?」
起きあがろうとしたジグくんの上から人が降りてきて、容赦なく彼に着地した。その人はこれまた見知った人物だった。
「ナギ、くん……?」
「はーい。まいど、ナギくんやでー」
ナギくんは目を細めて、ひらひらと手を振る。しかしその顔にいつものメガネはなく、服も私服というにはあまりに不思議な見たことない……強いて言うなら忍者のような格好をしていた。
「どけよ! 重い!」
叫びながら、ジグくんがぐわりと起き上がる。ナギくんはひょいと身軽そうに彼から降りた。
「ごめんなぁ、律香。びっくりさせて」
「悪かったよ……でも傷は治っただろ。俺らの唾液は治癒効果があるからな」
「え、うわ本当だ」
言われて見れば、膝の傷はどこにもなかった。どういう原理なんだ?
というか、この数分間の出来事で彼らに聞きたいことは山ほどある。あまりに多いので、私は恐る恐るながら端的に一言尋ねた。
「ねえ……きみたち、何者なの?」
私の問いに、二人はきゅうと目を細める。まるでお気に入りの獲物を見つけた狩人のようだった。
ジグくんが弾んだ声で言った。
「俺らな──吸血鬼なんだよ」




