プロローグ
我が家の裏手の山にはトンネルがある。
といっても、私がそこにたどり着いたのは一度だけだ。幼い頃、一人で遊んでいたときに一度だけ見たことがある。
煉瓦造りで、ネームプレートのようなものは見当たらなかった。
昼間だというのにトンネルの中は一寸先も見えないほどの真っ暗闇で、周りの空気がトンネルの中に吸い込まれているような風が吹いていた気がする。
オオオ、と暗闇の奥で大きな怪物が眠っているような音が聞こえてくるのが怖くてすぐに踵を返したのだが、私は小石に躓いて盛大に転んでしまった。
その時だった。
がさり。
すぐ近くで、なにかが動く音がした。音のした方を見て私は息を呑んだ。
そこには、一匹の狼がいた。
美しい黒い毛並みと、紅玉のような瞳をしていたのを覚えている。
しかし当時の幼い私は狼を見てもさして犬と見分けが付かず、大きくてきれいなワンちゃんだなあ、どこかの家の子かなあ、なんてマヌケな考えしか浮かんでこなかった。たしか小学校に入る前のことだから、無理もないのだ。
今思えば、弱った獲物を狩りにきたとしか思えないのだが……幸い、私がその狼に食べられることはなかった。
どこからともなく現れたその狼は静かに私のもとへやって来ると、どくどくと膝から流れる血をぺろりと舐めた。
当時の私は、目の前の狼が自分を心配してくれているのだと思い、
「心配してくれてるの?ありがとう」
と笑って狼の頭を撫でた。
そのとき、狼のしっぽは左右に揺れていたような気がする。記憶違いかもしれないが。
「でもこれくらい大丈夫だよ」
狼とお別れするのは少し名残惜しかったが、怪我も痛かったし何より背後のトンネルが怖かったので私はそう告げて家へと歩き出した。狼は追って来なかった。
家に着いてお母さんに膝を怪我をした、と話すと慌てて確認したお母さんに
「ん?どこも怪我してないわよ?」
と返された。不思議に思いふと自分の膝を見る。
「──あれ?」
つい先程まで血を流していたはずの傷は、跡形もなく消えていた。
その後、私が森でトンネルを見ることも、あの狼に会うことも二度となかった。




