私は無在
始まりは、ただの物忘れだった
最初は、鍋を火にかけたまま忘れる程度だった。
「最近、物忘れが増えてね」
妻は笑っていた。
夫も笑って返した。老いとはそういうものだと思っていた。
だが、同じ話を五分おきに繰り返し始めた頃、笑えなくなった。
同じ質問。同じ返答。同じ驚き。
時間が、輪になって締め付けてくる。
病院で言われた。
「認知症ですね」
短い言葉だった。
説明は丁寧だったが、耳に入らなかった。
帰り道、妻は言った。
「今日は検査に行くのよね」
もう結果を忘れていた。
それが、最初の線だった。
⸻ 他人の家、他人の親
症状が進むのは静かだった。崩れる音はしない。
ある日気づくと、形が変わっている。
妻は近所の家のチャイムを鳴らすようになった。
「ただいま」
住人が戸惑う。
妻は靴を脱ぎ上がろうとする。
止めに行くのは夫だ。
何度も頭を下げる。
帰り道、妻は涙を流した。
「お母さん、怒ってるよね」
母はもう三十年前に亡くなっている。
しかし妻の脳の中では、今日も生きている。
それは優しい幻ではなく、叱る母の恐怖の記憶だ。
夜になると電話機を握る。
「迎えに来てください」
番号は押せない。
受話器だけを握る。
それを横で外し、静かに戻す夫の手つきが、だんだん慣れていく。
慣れるという事が、いちばん残酷だった。
⸻ 身体介助
トイレの場所を忘れたのは、突然だった。
廊下が濡れた。
妻は立ち尽くし、濡れた自分の足元を眺めていた。
「どうしたらいいのか分からないんです」
夫は答えなかった。
代わりに床を拭き、服を脱がせる。
排泄は一日に何度も起きる。
臭いは家の隅々に染み込む。
オムツを嫌がる。
「子どもじゃない」と叫ぶ。
爪が腕を掻く。皮膚が切れる。
入浴の日。
裸にされる屈辱に、妻は泣き叫ぶ。
「やめてください!見ないで!警察呼びますよ!」
夫はただ淡々と体を洗う。
看護されているのではない。拒絶されながら触れている。
湯舟に映る妻の身体は小さくなっていた。
しかし夫は感傷を持たない。
持てなくなった。
役割が感情を上回る。
⸻ 暴言と人格の崩れ
ある日を境に、優しかった人間は消えた。
「あなたなんて大嫌い」
「泥棒」
「勝手に入ってくるな」
夫は殴られ、噛まれた。
歯形が残った。
近所から苦情が来る。
妻の怒鳴り声が壁を抜ける。
息子は言った。
「施設に入れたらどうだ」
娘は言った。
「お父さんの方が先に倒れるよ」
誰も責めていない。
だが責められているように感じる。
家族は集まるが、会話は減る。
病気の話しかできない。
家族は壊れる時、音を立てない。
⸻ 限界
夫は夜中に倒れた。
布団を敷かずに床で眠っていた。
目を覚ますと、妻が覗き込んでいた。
しかしその目に認識はない。
「この人は誰ですか」
救急車を呼ぶのは自分だ。
倒れた自分のために、自分で番号を押す。
病院のベッドで医師に言われる。
「介護うつですね」
睡眠不足、栄養失調、慢性疲労。
診断名よりも現実が先にある。
帰宅すると、妻は冷蔵庫を空にしていた。
出して、忘れて、また出す。
生ごみは排水口に詰まっていた。
夫は声を出さなかった。
怒鳴れるほどの体力は、もう残っていない。
⸻ 施設
ケアマネージャーに言われる。
「これ以上は在宅では危険です」
書類が増える。印鑑が増える。説明が増える。
入所の日。
妻は玄関で靴を履き、カバンを持って言った。
「今日はどこに泊まるんですか」
そこに悲しみも期待もなかった。
ただ場所の移動として認識されていた。
施設に着くと、妻は振り返らなかった。
夫の顔を一度も探さなかった。
泣いたのは、夫の方だと思われている。
しかし夫は泣かなかった。
泣く余力がなくなっていた。
罪悪感はある。
安堵もある。
それらは戦わない。
ただ同時に存在する。
面会室は、消毒液の匂いがした。
壁時計の音が大きく響く。静かすぎる場所ほど、音は増幅される。
妻は窓の外を眺めていた。
遠くを見る目つきは、景色ではなく「方向」を見ている感じだった。
どこかへ帰ろうとする視線。居場所を探す視線。
夫は鞄からアルバムを取り出した。
厚くて重い。四十年分の重さだ。
「写真を持ってきたよ」
妻は顔を向けた。
だがその目に、相手の人物としての認識はなかった。
アルバムを開く。
最初のページ。結婚式の写真。
白いドレス。黒いスーツ。
笑っている二人。
「これはね、僕と——君の結婚式だ」
説明はゆっくりと区切りながら行う。
子どもに絵本を読むように。
しかしそこに微笑みはない。
妻は写真を見つめる。
表情は動かない。
視線だけが写真の端から端へと移動する。
「きれいな人ですね」
それは、自分自身に向けられた言葉だった。
しかし“自分”とは認識していない。
夫は次のページをめくる。
幼い娘を抱いている写真。
「ここに写っているのが、君だよ」
そう言いながら指で示す。
妻は目を細める。
「この人は……優しそうですね」
三人家族の写真を、他人事のように見ていた。
思い出すことは、ない。
ただ、写真という“物体”を見ているだけだ。
それでも夫は説明を続ける。
意味があるからではない。
止め方が分からないからだ。
運動会。
旅行。
台所で料理をしている姿。
笑い声が貼り付けられた紙。
ページをめくる指が少し震える。
希望が震えではない。疲労の震えだ。
一枚の写真の前で、妻の指が止まった。
庭で咲いた花の前に立つ、若い自分。
笑顔。日差し。影。
妻はゆっくりと口を開いた。
「この場所、知っている気がします」
夫は息を止めた。
「庭だよ。君が毎年、花を植えていた。覚えてるかい」
妻はしばらく黙り、写真に触れる。
紙は冷たい。
記憶は戻らない。
「……きれいな花ですね」
それだけ言って手を離した。
思い出してはいない。
だが“何かを思い出しそうな素振り”だけは、確かにあった。
それは希望ではない。
希望の形だけをした空洞だった。
夫はアルバムを閉じた。
閉じる音が、部屋に大きく響いた。
妻は言った。
「今日はどなたがいらしてるんですか」
夫を指している。
しかし夫という言葉は出てこない。
「ただの知り合いだよ」
そう答えた。
訂正する力がなかった。
帰り際、振り返る。
妻はすでに窓の外を見ていた。
写真のことも、今話したことも、数分後には消える。
廊下を歩きながら夫は思う。
——いつか思い出すかもしれない、という考えは捨てきれない。
だが、思い出す日は来ないことも知っている。
希望は消えない。
現実も変わらない。
どちらも残ったまま、ただ時間だけが過ぎていく。
救いは訪れない。
結論もない。
優しい奇跡もない。
写真だけが証拠として残り、
それを説明し続ける人間だけが疲れていく。
物語はそこで終わった。
終わったが、生活はそのまま続く。
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白い天井。
静かな部屋。
誰かの足音が遠くで鳴っている。
私はベッドに座っている。
ここがどこなのか、思い出せない。
けれど、しばらくいる場所だという感じはする。
窓の外に木が見える。
風で揺れている。
それを見ていると、時間のことを忘れる。
テーブルの上に写真が置いてある。
知らない人たちが笑っている写真。
女の人がいて、男の人がいる。子どももいる。
「この写真、誰のですか」
そう言うと、そばにいた職員が優しく答えた。
「〇〇さんのですよ」
私の名前を呼ぶ。
呼ばれた名前が、少しだけ遠くから響く。
写真の中の男の人は、よく笑っている。
私の方を見て笑っている。
胸の奥が少しだけざわついた。
理由は分からない。
思い出せない。
その人と話した気がする。
毎日話していた気がする。
声だけが、形のないまま耳の奥に残っている。
「……あの人は、どこに行ったんですか」
誰に尋ねているのか、自分でもよく分からなかった。
でも、その質問だけははっきり浮かんだ。
職員は少し黙ってから、柔らかい声で言った。
「先月、亡くなられました」
言葉は理解できる。
意味も知っている。
けれど実感が来ない。
胸の中に空洞ができる。
そこに何が入っていたのかが思い出せない。
私は写真を指でなぞる。
「そうですか」
それしか言えなかった。
悲しいかどうかも分からない。
何を失ったのかも分からない。
ただ、何かがここにはもう無い、という感覚だけが残る。
「よく来てくれていたんですよ」
職員が言う。
ここに来ていたらしい。
誰が。
何度。
どんな顔で。
思い出せない。
頭の中に、霧が降りている。
それでも、写真の男の人の顔を見ていると、胸の奥が少し痛くなった。
名前は出てこないのに、その顔だけは目を離せなかった。
私は小さくつぶやく。
「この人、優しい人だったような気がする」
自分でも不思議だった。
根拠はない。
記憶もない。
ただ、そう思った。
誰かが涙を流していたような気がする。
誰かが私の手を握っていた気がする。
夜、声をかけられていた気がする。
それが誰なのか、輪郭は最後まで現れない。
写真を伏せる。
伏せた理由も忘れる。
窓の外の木が揺れている。
その揺れ方だけが、今ははっきりしている。
私は言う。
「今日は、誰が来てくれるんでしょうか」
誰も答えない。
答えがいらない質問だった。
夫という言葉は、もう浮かばない。
愛という言葉も浮かばない。
ただ、何か大切だったものが失われたという感覚だけが、
ぼんやりと、消えずに残っている。
それが何だったのかを、
もう二度と思い出すことはない。




