表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

6/6

第1巻 第1章 第5節 世界で最も不運な一秒

踏み出した、その、一歩。

俺の全体重が、右足の革靴のかかとに、かかった、その瞬間。


ツルリ、と。


(……は?)


あり得ない感触が、靴底から、俺の背骨へと突き抜けた。

摩擦。

地面を掴むはずの、確かな抵抗感が、完全に、消えた。


(―――!?)


俺の右足は、そこにあるはずの床を掴めず、制御を失って、前方へと滑り出す。

体が、バランスを失い、大きく、後方へと傾く。


(やばい――ッ!)


本能が、警鐘を鳴らす。

俺は、残った左足で、必死に体勢を立て直そうとした。

左足に、全体重を預けようと、力を込める。

だが、無駄だった。

あまりにも無情なことに、その左足もまた、同じトラップを踏み抜いていた。


ツルリィィィッ!


両足が、俺の意志を完全に裏切る。

支えを失った俺の体は、為す術もなく、重力に従って、真後ろへと、倒れ込んでいく。

体が、宙に浮く。

ほんの一瞬の、不快な浮遊感。


(嘘だろ―――)


俺の視界の端が、捉えた。

俺の足を滑らせた、全ての元凶を。

それは、誰かが、何の悪意もなく、あるいは、最大限の悪意を込めて捨て置いたであろう、一枚の、黄色いゴミ。


(バナナの……皮……?)


そうだ。

駅の階段の、一番上の踊り場。

雨で濡れた、灰色のタイルの上に、それは、まるで「ここを踏め」と言わんばかりに、鎮座していた。

2025年、東京。

令和の、この時代に。

バナナの皮で、滑る……?


(ギャグかよ……ッ!)


俺の人生。

三十八年間。

灰色の月曜日。

人格否定の罵声。

老夫婦の慟哭。

理不尽な接待。

雨の中の子猫。

謎の美女。

終電。

その、全ての、結末が。

これか。

これなのか。

あまりにも、馬鹿馬鹿しい。

あまりにも、くだらない。

滑稽こっけいすぎて、怒りさえ、湧いてこなかった。


世界が、スローモーションになる。


ゴオオオオオオオオ…………。

地下鉄の、換気扇の唸りが、低く、引き伸ばされる。

ジリリリリリイイイイイイイ…………。

遠くで鳴り響く、終電のベルの音が、不気味な電子音となって、空間にこだまする。

俺の体は、ゆっくりと、ゆっくりと、冷たいコンクリートの床――いや、階段の、最も硬い「角」へと、引き寄せられていく。

まるで、最初から、そこが俺の定位置だったかのように。


(……ああ、そうか)


俺は、この、あり得ないほどゆっくりとした時間の中で、妙に、冷静だった。

(……これが、死ぬってことか)

あの謎の美女が言っていた。「良いことがある」。

あれは、これか。

この、あまりにも惨めで、滑稽で、救いのない「死」が、俺の善行に対する、「良いこと」の正体だったというのか。

ふざけるな。

ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな!


(……戻りたい)


その思考が、脳裏をよぎる。

いや、違う。

よぎった、のではない。

それは、俺の、この三十八年間の人生を、たった一言で要約する、根源的な、魂の叫びだった。


(戻りたい……!)


大学時代に、戻れたら。

リーマン・ショックが起きる前に、戻れたら。

就職活動を、やり直せたら。

ノルマ證券なんかに入らずに、もっとマシな人生を、歩めていたら。

あの輝いていたキャンパスで、もう一度、夢を語り合えたら。


(違う!)


今、俺が願っているのは、そんな、遠い過去じゃない。

もっと、もっと、切実な。

すぐ、そこの。


(……あの女に、会う前に、戻れたら?)

(いや、違う。あいつは関係ない)

(……子猫を、助ける前に? 違う)

(……接待を、断っていたら?)


違う、違う、違う!

そんな、大袈裟なことじゃないんだ!

俺が今、心の底からやり直したいのは!


(―――階段を、降りる、あの瞬間!)

(あの、たった、一歩!)

(あの右足を、踏み出す、直前!)


(せめて!)

(せめて、一分!)

(いや、三十秒でいい!)

(いや、違う、たった、たったの一秒前でいい!)


「―――せめて一秒前から、やり直させてくれよ……ッ!」


俺の口から、声にならない、最後の願いが、こぼれ落ちた。

だが、非情な現実は、その願いを、嘲笑う。

スローモーションだった世界が、突如、現実の速度へと、戻る。


ゴッ!!


鈍く、硬く、そして、どうしようもなく、決定的な衝撃。

後頭部。

階段の角が、俺の頭蓋骨の、一番脆い部分を、正確に、そして容赦なく、撃ち抜いた。


(あ…………)


痛みは、なかった。

いや、あったのかもしれない。

だが、その痛みを感じ取る俺の意識が、衝撃と同時に、粉々に、砕け散った。

視界が、一瞬、真っ白に染まる。

フラッシュを、ゼロ距離で焚かれたかのように。

そして、その白は、急速に、黒へと、反転していく。


ガタン、ゴトン。

ああ、終電が、行ってしまう。

ジリリリリリ……。

ベルの音が、まだ、鳴っている。

ザアアアア……。

地上の、雨の音が、なぜか、また、聞こえてきた。


(……寒い)

(……ああ、これで、やっと……)

(……休める……のか……?)


耳元で、誰かの、小さな悲鳴が聞こえた気がした。

床に倒れ伏した俺の体が、階段を数段、ゴロゴロと、力なく転がり落ちていく感触。

だが、もう、どうでもよかった。

俺の意識は、その、底なしの暗闇の中へと、急速に、沈んでいく。

冷たくて、静かで、そして、どこまでも、無。


ぷつり、と。


まるで、古いテレビの電源が、乱暴に切られたかのように。

早川勇希、三十八歳。

彼の息苦しくも、頑丈だった人生。

その灰色の物語は、駅の階段で、バナナの皮で滑るという、世界で最も不運で、最も滑稽な一秒によって、あっけなく、その幕を閉じた。

理不尽な一日、その結末は、あまりにもあっけない、バナナの皮でした。

しかし、彼の「やり直したい」という最後の願いは、最悪の形で届いてしまいます。

死んだ彼が目覚めたのは、謎の美女が待つ、奇妙な「役所」だった――!

面白いと思っていただけましたら、ぜひブックマークや、下の☆での評価をいただけますと、執筆の励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ