第1巻 第1章 第5節 世界で最も不運な一秒
踏み出した、その、一歩。
俺の全体重が、右足の革靴の踵に、かかった、その瞬間。
ツルリ、と。
(……は?)
あり得ない感触が、靴底から、俺の背骨へと突き抜けた。
摩擦。
地面を掴むはずの、確かな抵抗感が、完全に、消えた。
(―――!?)
俺の右足は、そこにあるはずの床を掴めず、制御を失って、前方へと滑り出す。
体が、バランスを失い、大きく、後方へと傾く。
(やばい――ッ!)
本能が、警鐘を鳴らす。
俺は、残った左足で、必死に体勢を立て直そうとした。
左足に、全体重を預けようと、力を込める。
だが、無駄だった。
あまりにも無情なことに、その左足もまた、同じトラップを踏み抜いていた。
ツルリィィィッ!
両足が、俺の意志を完全に裏切る。
支えを失った俺の体は、為す術もなく、重力に従って、真後ろへと、倒れ込んでいく。
体が、宙に浮く。
ほんの一瞬の、不快な浮遊感。
(嘘だろ―――)
俺の視界の端が、捉えた。
俺の足を滑らせた、全ての元凶を。
それは、誰かが、何の悪意もなく、あるいは、最大限の悪意を込めて捨て置いたであろう、一枚の、黄色いゴミ。
(バナナの……皮……?)
そうだ。
駅の階段の、一番上の踊り場。
雨で濡れた、灰色のタイルの上に、それは、まるで「ここを踏め」と言わんばかりに、鎮座していた。
2025年、東京。
令和の、この時代に。
バナナの皮で、滑る……?
(ギャグかよ……ッ!)
俺の人生。
三十八年間。
灰色の月曜日。
人格否定の罵声。
老夫婦の慟哭。
理不尽な接待。
雨の中の子猫。
謎の美女。
終電。
その、全ての、結末が。
これか。
これなのか。
あまりにも、馬鹿馬鹿しい。
あまりにも、くだらない。
滑稽すぎて、怒りさえ、湧いてこなかった。
世界が、スローモーションになる。
ゴオオオオオオオオ…………。
地下鉄の、換気扇の唸りが、低く、引き伸ばされる。
ジリリリリリイイイイイイイ…………。
遠くで鳴り響く、終電のベルの音が、不気味な電子音となって、空間にこだまする。
俺の体は、ゆっくりと、ゆっくりと、冷たいコンクリートの床――いや、階段の、最も硬い「角」へと、引き寄せられていく。
まるで、最初から、そこが俺の定位置だったかのように。
(……ああ、そうか)
俺は、この、あり得ないほどゆっくりとした時間の中で、妙に、冷静だった。
(……これが、死ぬってことか)
あの謎の美女が言っていた。「良いことがある」。
あれは、これか。
この、あまりにも惨めで、滑稽で、救いのない「死」が、俺の善行に対する、「良いこと」の正体だったというのか。
ふざけるな。
ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな!
(……戻りたい)
その思考が、脳裏をよぎる。
いや、違う。
よぎった、のではない。
それは、俺の、この三十八年間の人生を、たった一言で要約する、根源的な、魂の叫びだった。
(戻りたい……!)
大学時代に、戻れたら。
リーマン・ショックが起きる前に、戻れたら。
就職活動を、やり直せたら。
ノルマ證券なんかに入らずに、もっとマシな人生を、歩めていたら。
あの輝いていたキャンパスで、もう一度、夢を語り合えたら。
(違う!)
今、俺が願っているのは、そんな、遠い過去じゃない。
もっと、もっと、切実な。
すぐ、そこの。
(……あの女に、会う前に、戻れたら?)
(いや、違う。あいつは関係ない)
(……子猫を、助ける前に? 違う)
(……接待を、断っていたら?)
違う、違う、違う!
そんな、大袈裟なことじゃないんだ!
俺が今、心の底からやり直したいのは!
(―――階段を、降りる、あの瞬間!)
(あの、たった、一歩!)
(あの右足を、踏み出す、直前!)
(せめて!)
(せめて、一分!)
(いや、三十秒でいい!)
(いや、違う、たった、たったの一秒前でいい!)
「―――せめて一秒前から、やり直させてくれよ……ッ!」
俺の口から、声にならない、最後の願いが、こぼれ落ちた。
だが、非情な現実は、その願いを、嘲笑う。
スローモーションだった世界が、突如、現実の速度へと、戻る。
ゴッ!!
鈍く、硬く、そして、どうしようもなく、決定的な衝撃。
後頭部。
階段の角が、俺の頭蓋骨の、一番脆い部分を、正確に、そして容赦なく、撃ち抜いた。
(あ…………)
痛みは、なかった。
いや、あったのかもしれない。
だが、その痛みを感じ取る俺の意識が、衝撃と同時に、粉々に、砕け散った。
視界が、一瞬、真っ白に染まる。
フラッシュを、ゼロ距離で焚かれたかのように。
そして、その白は、急速に、黒へと、反転していく。
ガタン、ゴトン。
ああ、終電が、行ってしまう。
ジリリリリリ……。
ベルの音が、まだ、鳴っている。
ザアアアア……。
地上の、雨の音が、なぜか、また、聞こえてきた。
(……寒い)
(……ああ、これで、やっと……)
(……休める……のか……?)
耳元で、誰かの、小さな悲鳴が聞こえた気がした。
床に倒れ伏した俺の体が、階段を数段、ゴロゴロと、力なく転がり落ちていく感触。
だが、もう、どうでもよかった。
俺の意識は、その、底なしの暗闇の中へと、急速に、沈んでいく。
冷たくて、静かで、そして、どこまでも、無。
ぷつり、と。
まるで、古いテレビの電源が、乱暴に切られたかのように。
早川勇希、三十八歳。
彼の息苦しくも、頑丈だった人生。
その灰色の物語は、駅の階段で、バナナの皮で滑るという、世界で最も不運で、最も滑稽な一秒によって、あっけなく、その幕を閉じた。
理不尽な一日、その結末は、あまりにもあっけない、バナナの皮でした。
しかし、彼の「やり直したい」という最後の願いは、最悪の形で届いてしまいます。
死んだ彼が目覚めたのは、謎の美女が待つ、奇妙な「役所」だった――!
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