第1巻 第1章 第4節 運命の囁き
地下鉄の入り口に、足を踏み入れる。
地上の、冷たい雨の音が、コンクリートの壁一枚を隔てて、急速に遠ざかっていく。
ザアアア……というノイズが、ゴオオオオ……という、地下空間特有の、低い換気扇の唸り声へと変わった。
鼻を突く。
湿った埃の匂い。
鉄錆びと、微かなオゾンが混じり合った、不快な、しかし嗅ぎ慣れた匂いだ。
終電間際の駅構内は、地上とは違う、よどんだ生温い空気に満ちている。
(……電車、間に合わなかったか)
俺は、濡れたスーツが肌に張り付く不快感に、小さく顔をしかめた。
だが、不思議と、いつものような焦燥感はなかった。
さっきの子猫。
手のひらに感じた、小さな舌の感触と、温かいミルクの熱。
あれが、乾ききって、ささくれ立っていた俺の心の表面を、一枚、薄くコーティングしてくれたような気がした。
ほんの、気休めだ。
自己満足だ。
明日になれば、また、あの地獄の日常が戻ってくる。
分かっている。
分かっては、いるが。
(……それでも、まあ)
(悪くは、なかった)
ほんの少しだけ、本当に、ロウソクの火の先ほどの温もりだけが、胸の奥に残っている。
それが、冷え切った俺の体を、内側から、かろうじて支えていた。
俺は、重い足取りで、ホームへと続く、長い、長い階段へと向かう。
白々(しらじら)とした蛍光灯が、清掃の行き届いていないタイルの床を、無慈悲に照らし出している。
数人の、俺と同じように疲れ果てたサラリーマンが、幽霊のような足取りで、同じ方向へ歩いている。
誰も、言葉を発しない。
誰も、目を合わせない。
この、灰色の日常。
階段の、一番上の踊り場。
あと数歩で、ホームへと降りる、その最初の一段に足をかけようとした、まさにその時だった。
トントン、と。
控えめに、しかし、確かに。
俺の右肩が、誰かに叩かれた。
(……!)
俺は、ビクリと体を強張らせる。
(なんだ?)
こんな時間に、肩を叩く人間。
酔っ払いか?
それとも、警備員か?
(……面倒だ)
俺の頭をよぎったのは、それだけだった。
接待で溜まったアルコールと、一日の疲労が、全身に鉛のようにまとわりついている。
これ以上の面倒事は、御免だった。
俺は、営業用の、疲れ果てた謝罪の表情を、顔面に貼り付ける。
そして、ゆっくりと、振り返った。
振り返って―――
「…………え?」
声が、漏れた。
思考が、停止した。
そこに立っていたのは、俺が想像していた、いかなる存在とも、かけ離れたものだった。
女、だった。
いや、違う。
「女」という、ありふれた言葉で表現すること自体が、冒涜であるかのような、存在。
(……白い)
まず、目に飛び込んできたのは、その「白さ」だった。
彼女は、純白の、一点の染みもない、シルクのような光沢を放つスーツを着ていた。
パンツスーツだ。
しかし、そのデザインは、俺が知っているどのブランドのものとも違う。
まるで、光そのものを布地として織り上げたかのような、神々しいまでの白。
今夜は、土砂降りの雨だったはずだ。
俺のスーツは、泥水と雨で、見るも無惨な状態だというのに。
彼女のスーツには、水滴一つ、汚れ一つ、付着していない。
それどころか、地下鉄構内の、あの淀んだ空気の中で、彼女の服だけが、内側から発光しているかのように、清浄な輝きを放っている。
(……なんだ、これ)
俺の視線は、その非現実的なスーツから、彼女の顔へと、吸い寄せられる。
そして、今度こそ、俺は息を呑んだ。
呼吸が、止まった。
美しい、という言葉では、足りない。
まるで、この世の全ての「美」という概念を集め、神が気まぐれに、完璧な形へと練り上げたかのようだ。
陶器のように滑らかで、血の気を感じさせないほど白い肌。
その肌とは対照的に、鮮やかな色を放つ、唇。
そして、その顔を縁取る、銀糸のような髪。
蛍光灯の、あの無機質な白い光を浴びて、彼女の銀髪は、まるで月光そのもののように、淡く、幻想的な光を放っていた。
(……CGか? ハリウッドの、新作映画のプロモーションか?)
俺の、三十八年分の、擦り切れた常識が、目の前の光景を必死に説明しようと試みる。
だが、駄目だ。
説明が、つかない。
なぜなら、彼女の「瞳」が、この世のものではなかったからだ。
彼女は、俺を、じっと見つめ返している。
その瞳。
深い、深い、夜空のような蒼。
そして、その蒼い闇の中に、無数の、小さな光の点が、まるで星々のように、宿っていた。
瞬きをするたびに、その星々が、キラキラと、輝きを放つ。
(……星?)
(瞳の中に、星が……?)
俺は、その瞳に吸い込まれそうになる。
まるで、宇宙の深淵そのものを、覗き込んでいるような、恐ろしくも、美しい感覚。
俺は、自分が息をしていないことに、気づいた。
心臓が、接待の時とは違う、もっと根源的な恐怖と、畏怖と、そして、あり得ないほどの高揚感で、胸を叩きつけている。
時間も、場所も、終電のことも、全てが、俺の意識から消え去っていた。
不意に、彼女の、完璧な造形だった唇が、ふわりと、綻んだ。
微笑み。
それは、俺がこれまで生きてきた中で見た、どんな人間のものとも違っていた。
嘲笑でも、愛想笑いでもない。
まるで、俺の、この三十八年間の、惨めで、救いようのない、灰色の人生の全てを、そのたった一つの微笑みで、肯定し、許し、祝福してくれるかのような。
そんな、絶対的な、慈愛に満ちた笑みだった。
そして、彼女は、口を開いた。
彼女の声が、俺の耳に届く。
「良いことをしましたね」
リン、と。
清かな、鈴の音が、鳴った。
いや、声だ。
彼女の声が、まるで、美しい楽器が奏でる、清らかな鈴の音のように、俺の鼓膜を震わせた。
駅構内の、あの、耳障りなノイズの全てが、一瞬にして消え去る。
世界には、ただ、彼女の声の、心地よい音色だけが響いていた。
「きっと、良いことがありますよ」
(……良い、こと?)
俺は、まだ、声が出せない。
(さっきの、猫のことか?)
(どうして、この女が?)
(まさか、見ていたのか?)
(いや、それよりも、「良いことがある」?)
その、あまりにも非現実的な、まるで子供に言い聞かせるお伽噺のような言葉。
(……馬鹿馬鹿しい)
俺の、心の奥底にこびりついた、冷徹な現実主義者が、即座にそう呟く。
(良いことなんか、あるものか)
(俺の人生は、常に行き止まりだ)
(こんな、訳の分からない女に、気休めを言われる筋合いは―――)
俺が、何か、皮肉めいた言葉を返そうと、乾いた唇を動かしかけた、その時。
彼女は、満足したように、もう一度、深く、微笑んだ。
そして。
すっ、と、音もなく、俺に背を向けた。
「あ……」
俺は、思わず、声を漏らす。
(待ってくれ)
(あんたは、誰なんだ)
(今のは、どういう意味だ)
聞きたいことが、山ほどあった。
俺は、無意識に、彼女の、あの純白のスーツの背中に、手を伸ばしかけていた。
だが、彼女は、止まらない。
人混みの中へと、歩き出す。
終電間際の、人の流れ。
誰もが、灰色の、黒色の、くたびれたコートやスーツを着ている。
その中に、彼女の、あの、発光するような「白」が、混じっていく。
(……待て)
俺は、数歩、後を追おうとした。
(おかしい)
(あんなに目立つ白が、なぜ、人混みに紛れる?)
(目立つどころか……)
(……消えていく?)
俺は、目を、疑った。
彼女の姿が、人波に遮られるたびに、薄くなっていく。
いや、違う。
人混みに「紛れて」いるのではない。
人混みを「透過」して、その向こう側へ、すり抜けているように見えた。
まるで、彼女だけが、別の次元に存在する、立体映像だったかのように。
「ま……待て!」
俺は、意味のない言葉を叫びながら、人波をかき分けようとした。
だが、無駄だった。
俺が、彼女のいた場所へとたどり着いた時には、もう、そこには誰もいなかった。
「…………」
俺は、呆然と、その場に立ち尽くす。
(……消えた)
数秒前まで、確かに、そこにいたはずの、あの非現実的な存在が。
跡形もなく、消え去っていた。
ゴオオオオオ…………。
換気扇の音が、再び、耳に戻ってくる。
カタカタ、カタカタ。
遠くで、誰かのハイヒールが、階段を駆け下りていく音。
鼻を突く、湿った鉄錆の匂い。
(……夢、か)
俺は、自分の頬を、強くつねった。
(……痛い)
夢じゃない。
(幻覚……?)
接待で飲まされた、安くない酒と、一日の極度の疲労が、ついに俺の脳に、幻を見せたというのか。
(……そうに違いない)
(そうでなければ、説明がつかない)
俺は、自嘲気味に、フッと息を吐いた。
(三十八歳、社畜。ついに、ストレスで、頭がおかしくなったか)
(良いことがある、ね)
俺は、彼女の残した言葉を、反芻する。
(馬鹿馬鹿しい。宝くじでも当たるってのか? 俺の人生に、そんな奇跡が―――)
その、瞬間だった。
ジリリリリリリリリリリリ!!
階段の、ずっと下。
ホームの奥から、けたたましいベルの音が、鳴り響いた。
(……!)
俺の体が、電気ショックを受けたかのように、跳ねる。
(終電だ!)
(今度こそ、本当の、最終ベルだ!)
ガシャン、と。
俺の頭の中で、思考が切り替わる音がした。
謎の美女。
星を宿す瞳。
清らかな鈴の音。
子猫の温もり。
「良いことがある」という、謎の予言。
その全てが、一瞬にして、意識の彼方へと吹き飛んだ。
(間に合わない!)
(これを逃したら、タクシー代で、今月の小遣いが消し飛ぶ!)
(それだけは、絶対に、阻止しなければ!)
俺の体を突き動かしたのは、もはや、理屈ではなかった。
長年、この灰色の社会で生き抜くために、体に染み込ませてきた、社畜としての、悲しい、悲しい、生存本能。
それだけだった。
「……クソッ!」
俺は、悪態をつきながら、今度こそ、振り返らない。
謎の美女が消えた方向など、もう、どうでもいい。
俺は、濡れた革靴が滑るのも構わず、タイル張りの床を、力任せに蹴った。
ホームへと続く、長い階段の、最初の一段。
そこへ、俺は、全ての焦りを込めて、右足を、勢いよく踏み出した。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
地獄の一日の終わりに、一匹の子猫と、一人の謎の美女と邂逅した主人公。
「きっと、良いことがある」
その言葉は、奇跡の予言か、それとも、さらなる絶望への序曲か。
彼の運命の全てが、今、この一歩で決まろうとしていた。
階段を一段降りた、その瞬間。彼の足が、無情にも、滑る――!
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