第1巻 第1章 第3節 雨の夜の邂逅
午後の飛び込み営業は、予想通り、いや、予想以上に無惨な結果に終わった。
俺が配った名刺は、ゼロ枚。
俺が受け取ったのは、侮蔑の視線と、固く閉ざされたドアの感触だけ。
夕方。
会社に戻った俺を待っていたのは、当然のように、支店長の怒声だった。
「早川ァ! 貴様、午後の成果ゼロって、どういうつもりだ!」
「……申し訳、ございません」
「一日中、街を散歩してただけじゃねえのか、あ!? この税金泥棒が!」
反論は、しない。
もう、何も感じない。
俺は、ただのサンドバッグだ。
「……今夜、接待がある。例の、『大黒興産』の専務だ。お前、席に着け」
「……え?」
思わず、顔を上げてしまった。
大黒興産。
この業界では有名な、昔気質で、そして何より「タチが悪い」ことで知られる、不動産会社の重役だ。
「……ですが支店長、俺は担当では」
「うるせえ! 担当の若林は今、別のデカい案件で手一杯だ! 数字も上げられねえお前は、せめて、こういう『汚れ仕事』で会社に貢献しろ!」
(……汚れ仕事)
それは、事実上の「生贄」の宣告だった。
「酒を注ぎ、太鼓を持ち、専務の機嫌を死んでも損ねるな。分かったな!」
「…………はい」
俺に、拒否権などあるはずもなかった。
午後七時。
ネオンが目に痛い、高級歓楽街。
その一角にある、いかにも高そうな料亭の個室。
畳の上に、分厚い座布団。
金箔が貼られた襖。
しかし、その豪華さに反して、空気は最悪だった。
「ガハハハ! でな、そいつに言ったんだよ!『お前みてえなヒラメには、カレイの煮付けでも食わせとけ』ってな!」
甲高い、下品な笑い声が、狭い個室に響き渡る。
声の主は、大黒興産の専務。五十代半ば。
紫色の派手なシャツに、金のネックレス。
バブルの亡霊が、そのまま現代に蘇ったかのような男だ。
「いやー、専務! さすがでございます! 座布団一枚!」
俺は、膝が擦り切れるほど畳に額を押し付け、必死で作り笑いを浮かべていた。
頬の筋肉が、引き攣って痛い。
「おう、早川くん、だっけか? お前も飲めよ、ほら!」
「あ、いえ、私は……」
「ああん? 俺の酒が飲めねえってのか、コラ!」
「と、とんでもございません! 頂戴いたします!」
俺は、差し出された大きな杯に、なみなみと注がれた日本酒を、一気に呷った。
カッ、と喉が焼ける。
米の匂いなどしない。
ただの、苦い、アルコールの塊だ。
「ガハハハ! 飲みっぷりがいいねえ! よし、もう一杯!」
「専務、お酌は、私が……」
「いいんだよ、お前は! こういうのは、部下にやらせるのが一番なんだ!」
(……クソ)
俺は、吐き気を、笑顔の仮面の下に必死で押し込める。
タバコの煙が、目に染みる。
懐石料理の繊細な香りも、この男の放つ、安っぽい香水と脂の匂いで、全てがかき消されている。
地獄だ。
これが、俺の仕事。
これが、俺の人生。
接待は、二次会、三次会と続いた。
料亭から、次は、けばけばしい照明のクラブ。
専務は、若いホステスを両脇にはべらせ、マイクを握りしめている。
「♪北の〜〜、酒場どぉ〜〜りには〜〜」
耳を劈くような、音程の外れた演歌。
俺は、その後ろで、タンバリンを叩き続けていた。
(……早く、終われ)
(早く、帰らせてくれ)
精神が、もう、持たない。
手首が、痛い。
笑顔が、張り付いて、剥がせない。
「早川くん! お前も歌え!」
「は、はい!」
俺は、無理やりマイクを掴まされ、大学時代に覚えた、流行り(・・)の(・)歌を、自棄になって叫んだ。
(……なんだ、これ)
(俺は、何をしているんだ)
盛り上がる専務。
拍手するホステスたち。
その中で、俺だけが、自分の魂が、今、この瞬間にも、ゴリゴリと削られていく音を聞いていた。
午後十一時四十五分。
「……専務! 本日は、誠に、ありがとうございました!」
ようやく、解放された。
俺は、タクシー乗り場で、千鳥足の専務を車に押し込み、その姿が見えなくなるまで、九十度の角度で、頭を下げ続けた。
「……ふぅ」
顔を上げた瞬間、全身から、力が抜けていく。
(……終わった)
疲労困憊。
まさに、その言葉通りだ。
アルコールと、ストレスと、自己嫌悪で、胃の中身が逆流しそうになる。
俺は、近くの電柱に手をつき、数回、深く、えずいた。
だが、何も出ない。
胃には、朝飲んだ栄養ドリンクと、先ほど無理やり流し込んだ酒しか、入っていないのだから。
ザアアアア…………。
その時だった。
空から、冷たい何かが、降ってきた。
(……雨)
アスファルトが、急速に色を濃くしていく。
さっきまでの喧騒が嘘のように、人々は足早に、それぞれの帰る場所へと消えていく。
(……終電)
俺は、慌ててスマートフォンの画面を見た。
午後十一時五十二分。
最寄りの地下鉄駅まで、走れば五分。
終電は、午前零時ちょうど。
(……ギリギリだ)
俺は、鉛のように重い足を引きずり、駅へと向かって走り出した。
スーツが、冷たい雨を吸って、肌に張り付く。
(……最悪だ)
(最悪の、一日だ)
罵声で始まり、
罵声で終わり、
理不尽な接待で、魂をすり減らし、
今、俺は、終電に間に合うためだけに、雨の中を走っている。
(……なんのために?)
(俺は、なんのために、こんな……)
思考が、まとまらない。
ただ、苦しい。
息が、切れる。
駅前の広場に、たどり着いた。
もう、人影はまばらだ。
地下鉄の入り口が、まるで奈落の口のように、黒く開いている。
俺は、そこに吸い込まれようと、最後の一歩を踏み出した。
――その、瞬間。
「…………ミャア」
聞こえた。
いや、聞こえた気がした。
雨音に混じって、ほとんど聞き取れないほど、か細い、何かの声。
(……気のせいか)
俺は、足を止めた。
終電の時間が、迫っている。
一秒でも、無駄にはできない。
分かっている。
分かっている、はずなのに。
「……ミャ……」
もう一度。
今度は、はっきりと。
(……猫?)
俺は、声がした方向――広場の隅、公衆電話ボックスの影――に、視線を向けた。
そこには、雨に濡れて、ぐちゃぐちゃになった、古い段ボール箱が、一つ、捨てられていた。
(……ゴミか)
俺は、踵を返そうとした。
面倒ごとは、もう、こりごりだ。
「ミャア……!」
三度目。
それは、もう、声ではなかった。
ただの、痛みの、悲鳴。
俺は、まるで、見えない糸に引かれるように、その段ボール箱へと、数歩、近づいていた。
そして、覗き込んだ。
「…………あ」
息が、漏れた。
そこにいたのは、手のひらに乗るほどの、小さな、黒い子猫だった。
産まれて、まだ、幾日も経っていないだろう。
雨に打たれ、泥水にまみれ、ガタガタと、全身で、震えている。
その瞳は、虚ろで、何も映していない。
ただ、寒い、苦しい、痛い、と、その存在の全てで、訴えていた。
(……くだらない)
俺の、冷めた思考が、そう呟く。
(だから、なんだ)
(猫の一匹や二匹、この街では、毎日、こうして死んでいく)
(俺に、関係ない)
普段の俺なら、間違いなく、そうだった。
気にも留めない。
無視して、通り過ぎる。
自分のことで、手一杯だ。
他人の、ましてや、猫一匹の命にまで、心を砕く余裕など、あるはずがない。
なのに。
(……なんで)
俺は、その場から、動けなくなっていた。
子猫が、もう一度、か細く、鳴いた。
「……ミィ」
その声が、俺の胸の奥深く、固く閉ざしていた扉を、無理やりこじ開ける。
(……ああ、そうか)
俺は、悟った。
こいつは、俺だ。
雨に打たれて、
誰にも助けられず、
ただ、ここで冷たくなっていくだけの、
存在。
支店長の罵声という雨に打たれ、
顧客の怒りという雨に打たれ、
取引先の理不尽という雨に打たれ、
心身ともに疲れ果てて、
誰にも助けを求められず、
ただ、魂が冷え切っていくのを、待っているだけ。
俺と、まったく、同じじゃないか。
(……馬鹿なことを)
俺は、自嘲した。
だが、体は、もう動いていた。
電車のベルが、遠くで鳴っている。
(……知るか)
俺は、駅の入り口に背を向け、今、来た道を、全力で逆走していた。
カランカラン。
間の抜けた入店音が、再び鳴る。
駅前のコンビニエンスストア。
「いらっしゃいませー」
深夜の、気の抜けたアルバイトの声。
俺は、店内の明るすぎる照明に目を細めながら、一直線にドリンクコーナーへと向かった。
(……何をしている、俺は)
(終電を、逃す気か)
(たかが、猫一匹のために)
自問自答は、止まらない。
だが、手も、止まらない。
冷蔵コーナーではなく、冬場だけ置かれる、ホットドリンクの什器。
その中に、目当てのものを見つけた。
「あ(・)た(・)た(・)か(・)い(・)ミルク」。
ペットボトル入りの、人肌に温められた商品だ。
(……猫に、牛乳は、良くない、んだったか?)
そんな知識が、ふと、よぎる。
(だが、今は、そんなことを言っている場合じゃない)
(低体温症で、死ぬ)
俺は、そのミルクを、迷わず掴んだ。
そして、レジ横の傘立て。
一番安い、透明のビニール傘。
それも、手に取る。
「……ピッ。合計で、七百三十円になりマス」
俺は、震える手で、財布から小銭を出す。
アルコールと、疲労と、焦りで、指先が、うまく動かない。
「……お客様、ポイントカードは」
「いらん」
俺は、商品をひったくると、再び、雨の降る外へと飛び出した。
「……ミャア」
段ボール箱の中の子猫は、俺がいなくなった数分で、さらに弱っているように見えた。
もう、鳴き声にすら、力がない。
俺は、スーツの膝が泥水に浸かるのも構わず、その場に、膝をついた。
「……おい」
声をかけるが、反応はない。
俺は、買ったばかりのミルクのキャップを、焦って捻る。
開かない。
指先がかじかんで、力が入らない。
「……クソッ!」
歯を使い、無理やりキャップを開けた。
段ボールの縁に、ミルクの入ったペットボトルを置く。
だが、子猫は、もう、首をもたげる力すら、残っていないようだった。
(……だめか)
(……もう、手遅れか)
俺の心に、再び、冷たい諦観が戻ってくる。
(結局、俺が何をしても、無駄なんだ)
(俺の人生と、同じだ)
そう、諦めかけた、その時。
俺は、無意識に、自分の手のひらを見た。
さっきまで、接待で、汚れた酒の杯を持ち、意味のないタンバリンを叩かされていた、俺の手。
俺は、その手のひらに、温かいミルクを、少量、注いだ。
チャプン、と、小さな音がする。
それを、そっと、子猫の鼻先へと、差し出す。
ミルクの、温かい湯気と、甘い匂い。
それに、反応した。
子猫の鼻が、ぴく、と動く。
そして、小さな、ピンク色の舌が、ちょろりと出てきて、俺の手のひらのミルクを、舐めた。
「…………!」
ぺろ。
また、ぺろ。
最初は、おぼつかない動きだった舌が、次第に、力を取り戻していく。
ぺろ、ぺろ、ぺろ。
ゴクン、と、小さな喉が、動くのが見えた。
(……飲んでる)
俺は、ただ、その光景を、息を詰めて見つめていた。
手のひらのミルクが、少しずつ、減っていく。
子猫の、冷え切っていた体に、温かい命の液体が、注ぎ込まれていく。
それが、なぜか、俺自身の、乾ききっていた心にも、温かい何かが注ぎ込まれていくような、不思議な錯覚を、もたらした。
手のひらが、くすぐったい。
そして、温かい。
子猫は、手のひらのミルクを飲み干すと、今度は、俺の指を、母親の乳と間違えたのか、ちゅうちゅうと吸い始めた。
その、あまりにも無防備で、健気な仕草に、俺の胸の奥、何年も前に凍り付いて、存在すら忘れていた場所が、キュッ、と、小さく、痛んだ。
(……温かい)
それは、ミルクの温度だけではなかった。
子猫は、体力が少し戻ったのか、ブルブルと、一度、体を震わせた。
そして、俺の顔を、じっと、見上げてきた。
さっきまでの、死んだような瞳じゃない。
そこには、確かに、命の光が、再び灯っていた。
その、純粋な光に、俺は、自分の濁りきった目で見返されるのが、ひどく、恥ずかしい気がした。
俺は、慌てて立ち上がると、一緒に買ったビニール傘を、バサリと開いた。
そして、その傘を、段ボール箱が、これ以上雨に濡れないように、壁と電話ボックスの間に、うまく立てかける。
即席の、小さな屋根ができた。
(……これで、朝までは、もつか)
(あとは、運だ。こいつの運と、俺の、気まぐれな自己満足だ)
俺は、スーツのポケットから、濡れたハンカチを取り出し、ミルクでベタベタになった手を、雑に拭った。
「……達者でな」
自分でも驚くほど、自然に、その言葉が、口からこぼれた。
誰に言うでもない。
子猫にか。
それとも、この理不尽な世界で、なんとか生き延びろよ、という、俺自身への励ましか。
分からない。
子猫は、傘の屋根の下、少しだけ安心したように、体を丸めていた。
もう、震えは、止まっている。
俺は、その姿を、もう一度だけ、目に焼き付けた。
そして、今度こそ、踵を返した。
もう、振り返らない。
ザアザアと降りしきる雨の中、俺は、地下鉄の入り口へと、足を踏み入れた。
終電は、もう、行ってしまったかもしれない。
だが、不思議と、焦りはなかった。
乾ききっていた心に灯った、ほんの、ほんの小さな、ロウソクの火のような温もり。
それが、冷たい雨に打たれた俺の体を、内側から、少しだけ、支えてくれているような気がした。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
地獄のような一日。その最後に、主人公は小さな命と邂逅しました。
彼が失った「終電」と、引き換えに得た「小さな温もり」。
この小さな善行が、彼の運命を根底から覆す、巨大な奇跡の引き金となります。
駅の階段を降りる彼の前に、今、この世のものとは思えない、謎の美女が立ちはだかる――!
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