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第1巻 第1章 第2節 失われた輝き

過去は輝いていたからこそ、現在の絶望がより深く突き刺さります。

あの頃に戻りたい――その願いが、彼の唯一の夢でした。

この後、魂を削る一日を終え、終電間際の駅前で、冷たい雨に打たれる勇希。

だが、そこで彼が見つけたのは、自分と同じ、絶望の淵にいる、小さな、震える命だった――。

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ジリリリリリリリリリ!


けたたましいベルの音が、フロアの喧騒けんそうを切り裂いた。

正午。

昼休みを告げる合図だ。

周りの同僚たちが、一斉に「ふぅ」と息を吐き、椅子から立ち上がる。

社員食堂へ向かう者、弁当を広げる者。

フロアに漂うストレスの匂いに、安いカップラーメンや惣菜の匂いが混じり始める。


(……昼、か)


俺は、動かなかった。

動けなかった。

PCのモニターに映る、赤いマイナスの羅列。

それから、もう一時間も、視線を外すことができずにいる。


腹は、減っていない。

いや、正確には、空腹という感覚が分からない。

胃が、栄養ドリンク以外の何かを受け付けようとしない。

食欲は、とうの昔に、希望と一緒に死んだ。


「……おい、早川」


隣のデスクの先輩が、タバコを指に挟みながら、迷惑そうに声をかけてきた。


「いつまで座ってんだ。お前、午後から新規開拓だろ。さっさとメシ食ってこいよ。暗い顔でデスクにいられると、こっちまで気が滅入る」


「…………はい」


悪意のない、事実だけの言葉。

それが、一番こたえる。

俺は、生気のない返事を一つすると、ゾンビのように席を立った。

俺の存在は、コストであると同時に、周囲の士気を下げる「公害」でもあるらしい。


コートを掴み、フロアを出る。

エレベーターに乗り、一階のロビーに降り立つ。

ビル風が、スーツの隙間から入り込み、肌を撫でた。


(……どこへ行く)


行くあてなどない。

戻るべき場所などない。

俺にあるのは、午後の「飛び込み営業」という、新たな地獄だけだ。


「……はぁ」


ため息と共に、白い息が吐き出される。

俺は、ビルの隣にあるコンビニエンスストアに、吸い込まれるように入った。

カランカラン、と間の抜けた入店音が鳴る。

目的の棚は決まっている。

パンのコーナー。

その中で、最も安く、最もカロリーが高そうな菓子パンを一つ掴む。

「クリームたっぷり」と書かれた、分厚いパン。

三百五十円。

それと、いつもの栄養ドリンク。

会計を済ませ、プラスチックの袋をぶら下げて、俺は金融街のビル群を背にした。


午後の飛び込み営業。

それは、言葉通りの苦行だ。

地図を片手に、中小企業のオフィスが雑居する古いビルを、一件一件回る。


「ノルマ證券の早川と申しますが、社長様に、新しい資産運用の――」


「結構です」


インターホン越しに、無機質な声が響き、ブツリと切れる。

次のビル。

受付で名刺を出す。


「アポは?」


「いえ、本日はご挨拶だけでもと思いまして……」


「アポなしは、全てお断りしております」


冷たい笑顔で、名刺を突き返される。

次のビル。

エレベーターすらない、古い階段を四階まで上る。

ドアをノックする。

返事がない。

ドアノブに手をかけると、鍵はかかっていなかった。


「……ごめんください」


中を覗くと、そこは、もぬけの殻だった。

倒産したのだろう。

ほこりっぽい床に、シュレッダーのゴミが散乱している。

(……明日の、俺の姿か)

俺は、静かにドアを閉めた。


何件、回っただろうか。

十件か、二十件か。

成果は、ゼロ。

名刺の一枚すら、受け取ってもらえない。

足が、鉛を引きずっているように重い。

革靴の底はすり減り、コンクリートの感触が直に伝わってくる。

指先は、冷たい風に晒され、感覚が麻痺していた。


ふと、目の前に、小さな公園が現れた。

オフィス街の谷間に、忘れられたように存在する、小さな砂場の公園。

子供の姿はない。

いるのは、俺と同じように、時間を潰しているらしい、くたびれたサラリーマンが数人だけ。

俺は、その中の一つのベンチに、倒れ込むように座った。

ギィ、と、錆びた音が小さく鳴る。


(……昼食)


俺は、コンビニの袋から、例の菓子パンを取り出した。

ガサガサ、と、安っぽいビニールの音。

パンを、半分にちぎる。

中には、どぎつい黄色のクリームが、見た目だけは「たっぷり」と入っていた。

それを、口に運ぶ。


(……味が、しない)


甘いはずのクリームも、パン生地も、まるでろうを噛んでいるようだ。

パサパサとした食感が、乾いた舌の上で不快にざらつく。

飲み込めない。

水分のない口の中で、パンが粘土のように固まっていく。

俺は、一緒に買った栄養ドリンクで、それを胃袋に無理やり流し込んだ。


(……昔は)


ふと、そんな言葉が、脳裏をよぎった。


(昔は、何を食ってたっけな)


その思考が、トリガーだった。

俺の意識は、灰色で無味無臭の「今」から、鮮やかで、光に満ちていた「あの頃」へと、一気に引き戻される。


大学時代。

俺の人生で、唯一輝いていた季節。

順風満帆。

まさに、その言葉通りだった。

そこそこの有名大学で、そこそこの成績。

サークルの仲間たちと、馬鹿みたいに騒ぎ、飲み明かし、未来を語り合った。

あの頃、俺が見ていた世界は、全てが輝いていた。

キャンパスの、春の新緑。

夏の、焼けるような日差しと、友人の汗臭い笑顔。

秋の、学園祭の喧騒と、微かな恋の匂い。

冬の、澄み切った空気と、仲間たちと見た初日の出。

全てが、俺のために用意された舞台のようだった。

俺は、自分の未来を、一欠片ひとかけらも疑っていなかった。

何にでもなれる。

何でもできる。

世界は、俺の足元に広がっていると、本気で信じていた。


就職活動。

それもまた、順調だった。

希望の業界は、マスコミと、大手総合商社。

この国の経済を動かす、華やかな世界だ。

OB訪問をこなし、エントリーシートを磨き上げ、面接では、根拠のない自信に満ちた夢を語った。

それが、なぜかウケた。


「君、面白いね」

「ぜひ、うちで力を発揮してほしい」


あれよあれよという間に、内定が積み上がっていく。

一社、二社、三社……。

誰もが羨む、超一流企業の内定通知書。

俺は、勝ち組だった。

仲間たちと祝杯を挙げ、両親からは「自慢の息子だ」と泣かれた。

人生の、頂点だった。


――そう。

あの瞬間までは。

リーマン・ショック。

海の向こうの、遠い国で起きた金融危機。

それが、俺の人生を根底から叩き潰すことになるとは、夢にも思っていなかった。

ニュースで、連日「百年に一度の危機」と騒がれ始めた頃。

一本の電話が、かかってきた。


『誠に申し訳ないんだが、早川君。内定は、取り消しということで……』


「……え?」


意味が、分からなかった。

取り消し?

内定を?

俺が、何を?

だが、地獄はそこからだった。

まるでドミノ倒しのように、他の企業からも、同じ内容のメールが、次々と届き始めた。


『昨今の経済情勢の急激な悪化に伴い、誠に遺憾ながら、採用計画を凍結することと……』

『つきましては、貴殿との内定契約を、破棄させていただきたく……』


昨日まで俺を「逸材だ」と褒めそやしていた企業が、手のひらを返したように、俺を切り捨てていく。

あんなに輝いて見えた内定通知書は、ただの紙切れになった。

俺は、一瞬にして、勝ち組から「就職浪人」という名の、負け組へと突き落とされた。

希望していた業界は、全て門を閉ざした。

妥協して受けた中堅企業も、冷たかった。


「この時期に、まだ就職先が決まってない? 君、何か問題があるんじゃないの?」


プライドは、ズタズタに引き裂かれた。

そして、数ヶ月後。

もはや、妥協とも呼べない、妥協の果て。

唯一、こんな俺でも「即戦力だ」と拾ってくれたのが――この「ノルマ證券」だった。


(……あの時に、戻れたら)


俺は、手の中で半分残った菓子パンを、強く握りしめた。

指が、パサパサの生地にめり込む。


(あの時に、戻れたら)


それは、俺の口癖だった。

そして、唯一の夢だった。


(もしも、あの日に戻れたら)

(リーマン・ショックが起きる前に)

(いや、もっと前に)

(大学の、あの、輝いていた瞬間に戻れたら)

(俺は、人生を、やり直せるのに……!)



「――キャハハハ! マジ、ウケる!」


甲高い、楽しそうな笑い声。

その声に、俺は、暗く冷たい回想から、現実へと引き戻された。

顔を上げる。

目の前を、二人の大学生らしきカップルが、腕を組んで通り過ぎていく。

男は、流行りのアッシュカラーの髪。

女は、ふわりとしたスカートを揺らし、無邪気に笑っている。

二人は、これから始まる未来のこと、今夜のデートのこと、そんな、どうでもいいことで、心から楽しそうに、笑い合っている。


(……輝いてる)


その輝きが、今の俺には、あまりにもまぶしかった。

目に、痛い。

彼らは、俺が失った全てのものを、その手に持っている。

希望。

未来。

そして、疑うことを知らない、無邪気な笑顔。

かつて、俺も持っていたはずの、失われた輝き。


俺は、自分の唇の端が、ゆがんで吊り上がるのを感じた。

自嘲じちょう

それ以外に、どんな顔をすればいいというのか。


(……滑稽だ)


過去にすがり、現実から目をそむけ、公園のベンチで、三十八歳の中年が、安いパンを握りしめて、何を黄昏たそがれているんだ。

俺は、残りのパンを、再び無味無臭の粘土のように、口に押し込んだ。

栄養ドリンクで、胃に流し込む。


(……戻ろう)

(地獄へ)


俺は、立ち上がった。

コンビニの袋を、ゴミ箱に叩き込む。

午後の、絶望的な飛び込み営業が、まだ残っている。

俺の、灰色の月曜日は、まだ半分も終わっていないのだから。

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