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第1巻 第1章 第1節 灰色の月曜日

ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ。

無機質な電子音が、容赦なく鼓膜を突き刺す。


(……うるさい)


羽毛布団の温もりの中に、俺は固く顔を埋めた。

指一本、動かしたくない。


ピピピピ、ピピピピ。


止まらないアラーム。

それは月曜日の朝を告げる、地獄の鐘の音だ。


「……ッ!」


舌打ちと共に、重い腕を無理やり伸ばす。

スマートフォンの画面を叩きつけ、忌々しい音を止めた。


午前六時。

2025年、東京。

俺、早川勇希ハヤカワユウキ、三十八歳。

独身。

人生は、常に行き止まりだ。


「……はぁ」


鉛のように重い体を、ベッドから引きずり起こす。

寝室のカーテンは閉め切ったまま。

朝日が昇っているのかどうかすら、どうでもいい。

光を見る気にもなれない。


床に散らばった昨日の服を踏みつけ、洗面所へ向かう。

鏡に映るのは、生気の欠片もない、疲弊しきった中年の男の顔。

目の下には、コンシーラーでも隠しきれない深いクマが、怨念のようにこびりついている。


カサカサに乾いた唇。

濁った白目。

死んでいる。

俺の目は、とっくに死んでいる。


(……また、今日が始まってしまった)


冷たい水で顔を雑に洗い、ゴワゴワのタオルで拭く。

痛みすら感じない。

キッチンへ向かい、冷蔵庫を開けた。

中身は、まばらな酒の缶と、業務用サイズの栄養ドリンクの瓶だけ。

コップに、どぎつい黄色の液体を注ぐ。

薬品じみた、鼻を突く甘ったるい匂い。

俺はそれを一気にあおった。

胃が、冷たい化学物質の投入に驚いて、小さく痙攣する。

これが、俺の朝食。

もう何年も、まともな朝飯など食った記憶がない。


着古したスーツに袖を通す。

アイロンなど、いつからかけていないだろうか。

ネクタイを雑に締め上げ、アパートの扉を開けた。


午前六時半。

首都高を流れる車の音が、排気ガスに満ちた灰色の空気に低く響いている。

最寄りの駅へ向かう道。

誰もが俺と同じ、死んだ魚のような目をして、同じ方向へ、同じ速度で歩いている。

言葉を交わす者は誰もいない。

ホームに滑り込んできたのは、地獄行きの鉄の箱。

満員電車だ。

プシュー、という圧縮された空気の音と共に、扉が開く。

俺は、すでに満杯の人々の塊の中に、自らの体をねじ込んだ。


「ぐっ…!」


背中を押され、ガラスに顔が押し付けられる。


(息が…)


他人の汗の匂い。

誰かの湿ったコートが肌に触れる不快感。

耳元で鳴り続ける、シャカシャカというイヤホンの音漏れ。

五感の全てが、俺の精神を削り取っていく。

俺は、この圧迫感の中で、ただ目を閉じる。

ガタン、ゴトン。

揺れに合わせて、俺の体も、死体のように揺れる。

これが、俺の日常。

早川勇希、三十八歳の、灰色の月曜日。


午前八時四十五分。

金融街にあるオフィスビル。

その十七階に、俺が勤める「ノルマ證券」はある。

名の通った証券会社? 笑わせる。

実態は、情報弱者の老人から資産を吸い上げるだけが仕事の、正真正銘のブラック企業だ。

社員用エレベーターを降りると、すでにフロアは戦場のような空気に満ちていた。

鳴り響く電話のコール音。

怒号に近いセールストーク。

フロアに充満する、安いコーヒーと、ストレスが発する酸っぱい匂い。

俺は息を止め、自分のデスクへと向かう。

タイムカードを押した、その瞬間。


「早川ァ!!」


鼓膜が破れそうなほどの怒声が、背後から飛んできた。


(……最悪だ)


俺はゆっくりと振り返る。

そこに立っていたのは、湯気でも出そうなほど顔を赤くした、支店長だった。

脂ぎった額。血走った目。

毎朝、彼はこうして「獲物」を探している。

そして、今朝の獲物は、俺らしい。


「おい早川! てめぇ、今月の目標、どうなってんだコラァ!」


支店長は、丸めた新聞紙で、俺のデスクのパーティションを思い切り叩いた。

パーン! と、甲高い破裂音がフロアに響き渡る。

周囲の同僚たちが、一瞬だけこちらを見た。

だが、すぐに目を逸らし、自分の仕事に戻っていく。

誰も助けてはくれない。

明日は我が身だと、怯えているだけだ。

俺は、深く、深く頭を下げる。


「……申し訳、ございません」


「謝って数字が上がるかァ! ああ!?」


支店長の唾が、俺の頭頂部に飛んでくるのが分かった。


(……クソ)


「いいか!? 今月も目標未達のお前がな、このフロアで息をする権利はねぇんだよ!」


人格否定。

毎朝の儀式だ。


「お前の呼吸はな、コストなんだよ! 分かるか!? この給料泥棒が!」


(……分かってる)

(分かってますよ)


俺は、奥歯を強く噛みしめる。

唇の内側が切れ、鉄の味が口の中にじわりと広がった。

反論などしない。

そんなエネルギーは、もう十年前に使い果たした。

俺にできるのは、嵐が過ぎ去るのを、ただ耐えることだけ。


「今週中にデカい契約取ってこなかったら、どうなるか分かってんだろうな!?」


「……はい。肝に銘じます」


「チッ…使えねえ野郎だ」


支店長は、最後にそう吐き捨てると、満足したように自分の個室へと戻っていった。

俺は、ゆっくりと顔を上げる。

誰の視線も、感じない。

俺は、このオフィスの中で、存在しない人間として扱われている。


(……息をする、権利)


俺は、自分の椅子に、崩れるように座り込んだ。

灰色の朝が、また始まった。


午前九時。

株式市場が開く。

フロアの喧騒が、一段とボリュームを増した。

俺は、PCの電源を入れ、顧客リストを確認する。


(……今日も、電話か)


憂鬱なリストの中から、最も気が重い番号をクリックする。

コール音が、受話器から機械的に響く。

数コールの後、相手が出た。


『……もしもし』


しゃがれた、老人の声。


「あ、お世話になっております! ノルマ證券の早川でございます! 山田様のお宅でしょうか?」


俺は、自動的に、声のトーンを三段階上げる。

体に染み付いた、社畜の営業スマイル。


『……早川さんか。もう電話してこないでって、言ったはずだがね』


声には、疲れと、諦めと、そして微かな怒りが滲んでいる。

山田夫妻。

七十代の老夫婦だ。

先月、俺が強引に勧めた新興国の投資信託が、大暴落した。

彼らの、なけなしの老後の資金だった。


「いえ、本日は、その後の運用状況のご報告と、お詫びをと思いまして……」


『お詫び? お詫びで、わしらの金が戻ってくるのかね!』


声が、怒りに震え始める。


『あんたは言った!「元本は保証する」「絶対に儲かる」って! だから信じたのに!』


(……言ってない)

(「元本割れのリスクは常にある」と、早口で説明したはずだ)

(「絶対」なんて言葉、使えるわけがない)


だが、そんな反論は、意味をなさない。

彼らが「そう聞いた」というなら、それが真実だ。

俺は、受話器を握りしめ、再び頭を下げる。

オフィスの誰にも見えていない。

それでも、頭を下げる。


「誠に、申し訳ございません……!」


『ばあさんはな、ショックで寝込んじまったよ! あれが、わしらの最後の金だったんだ! あんた、どうしてくれるんだ! 人殺し!』


(人殺し)

その言葉が、俺の胸に突き刺さる。

ズキリ、と。

だが、痛みは一瞬だ。

もう、何も感じなくなって久しい。

俺は、マニュアル通りの謝罪の言葉を、感情を殺して繰り返す。


「市場の急激な変動は、私にも予測が不可能なものでして……」


『言い訳はいい! 金を返せ! わしらの金を返せ!』


受話器の向こうで、老人の慟哭が響く。

その横で、老婆のしゃくり上げる声も、微かに聞こえる。

俺は、何も言えない。

返せる金など、あるわけがない。

俺にできるのは、ただ、彼らの怒りと悲しみを、サンドバッグのように受け止めることだけ。


「……申し訳ございません」

「……誠に、申し訳ございません」

「……全て、私の不徳の致すところでございます」


どれくらい、そうしていただろうか。

やがて、老人の罵声も疲れ果て、電話は一方的に叩き切られた。

ツーツー、という無機質な音が、俺の耳に虚しく響く。

俺は、ヘッドセットを外し、天井を仰いだ。

蛍光灯の白い光が、やけに目に染みる。


(……これが、俺の仕事)


人の夢を、希望を、そして老後の安心を奪い、その対価として、俺は給料をもらっている。

吐き気がした。


俺の精神は、もうとっくに限界を超えている。

擦り切れて、ささくれ立って、ボロボロだ。

いつ、プツリと切れてもおかしくない。

それなのに。


(……なんで、俺の体は、こんなに頑丈なんだ)


皮肉なことに、俺、早川勇希は、三十八年間、病気という病気をしたことがなかった。

風邪で熱を出した記憶すらない。

インフルエンザが流行しても、俺だけはピンピンしている。

胃腸炎? 食中毒? 無縁だ。

このブラック企業で、連日終電、休日出勤、栄養ドリンクだけの生活を五年続けても、健康診断の数値は、全てA判定。


(……倒れたい)

(いっそ、病気にでもなれば)

(入院でもすれば、この地獄から、一時的にでも逃げ出せるのに)


何度、そう願ったか分からない。

だが、俺の体は、俺の絶望的な願いを、いつも裏切り続ける。

この無駄な頑丈さだけが、俺をこの地獄に縛り付ける、最強のかせだった。

精神が壊れるのが先か。

それとも、この体が、奇跡的に悲鳴を上げるのが先か。


(……どっちでもいい)

(もう、疲れた)


俺は、PCの画面に映る、赤いマイナス数字の羅列を、虚ろな目で見つめ続ける。

午前十一時。

月曜日は、まだ始まったばかりだ。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

朝から地獄のフルコース。主人公・勇希の精神はすでに限界です。

しかし、彼がこれほどの絶望を抱えるようになったのには、理由がありました。

昼休み、彼が思い出すのは、希望に満ちていた学生時代と、その夢を打ち砕いた「あの出来事」――。

次回、彼の過去が明らかになります。

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