第0節 ポンコツ女神と五億円とバナナと全力土下座
「―――あなたは死んでしまったんです」
シンと。 チカチカと明滅する白い蛍光灯のノイズだけが響く。 静かでだだっ広い空間。
俺、早川勇希。三十八歳、独身 。 俺はその言葉の意味をすぐには理解できなかった。
(……死んだ?)
俺は自分の手を見る。 さっきまで冷たい雨と泥水でぐしょ濡れだったはずのスーツが、なぜかクリーニングに出したてのようにパリッとしている。
(……どういうことだ?)
俺がいたのは天国ではなかった。地獄でもなかった。 そこは俺が前世で十五年間飛び込み営業で通い詰めた、古びた地方銀行の待合室か、あるいは役所の市民課のような窓口。ただそれだけだった。
色褪せたベージュの壁紙。ワックスが剥げかけたリノリウムの床。等間隔に並べられた安っぽいパイプ椅子。 壁には『魂の手続き、お忘れなく』などと書かれたふざけたポスターまで貼ってある。
(……荘厳さのかけらもねえな)
俺は目の前の『総合受付』と書かれたアクリル板の向こう側に座る、一人の「受付嬢」に視線を戻した。 そして息を呑む。
(……こいつ) (……さっき駅で会った女だ)
さっき(・・・)?
(……いや、俺はあの階段で、バナナの皮で滑って……)
混乱する俺をよそに、彼女は完璧な事務的な笑顔を浮かべていた。
月光を編み込んだような神々しいまでの銀糸の髪。 宇宙の深淵に星々を宿したかのような蒼い瞳 。
このくたびれた役所の風景の中で、彼女の存在だけがあり得ないほどの「美」としてそこにあった。
「―――ようこそ早川様。こちら、あらゆる世界とあらゆる時空の『あの世』を繋ぐ中継地点。『魂管理局・中央ターミナル』でございます」
鈴の音のような清かな声が、俺のまだ死を受け入れられないでいる脳に事務的に響く。
「……魂、管理局」
俺はオウム返しに呟いた。
(……死んでもなお、俺を待ってるのはこういう『お役所』かよ)
人生は常に行き止まりだ 。死んでもそれは変わらないらしい。 俺の三十八年分の絶望が再び胸の奥からこみ上げてくる。
「……で、俺はこれからどうなるんですか。地獄行きの手続きでもさせられるんですか」
俺の皮肉と諦観に満ちた問いに、目の前の女神(とでも言うべきか)はなぜかスッと視線を泳げせた。 あの完璧な事務スマイルがわずかに引き攣っている。
「……あ、いえ。その、早川様の今回の『死』はですね」
彼女は非常に言いにくそうに言葉を選ぶ。 「……極めて、イレギュラーなものでして」
「……イレギュラー」
「はい。……と言いますのも早川様は、本来あそこで死ぬべき運命では全くなかったのです」
「……はあ?」 (なんだそりゃ)
「本来のシナリオではですね」
彼女は手元の光る板(PCモニターのようなものだろう)を慌てて操作する。 「……えーと、あなたの前世は、異世界を救った『伝説の大英雄』様でいらっしゃいまして……」
「……は?」 (こいつ今なんつった?)
「その功績によりあなたは特別な『英雄保険』にご加入されておられました」
「……エイユウホケン」 (……いよいよ怪しい勧誘みてえになってきたな)
前世で散々老夫婦に売りつけてきた、クソみたいな金融商品を思い出す。
「その特約の一つが、『不幸積立特約』というものでございまして」
「……ふこう、つみたて」
「はい。あなたがその人生において多大な『不幸』を被った場合、その不幸の総量をポイントとして積立てるというもので……」
(……俺の三十八年間。……あれは全部ポイント稼ぎのためだったのかよ)
「そして早川様」
彼女は俺の青ざめていく顔などお構いなしに事務的に続ける。 「あなたの不幸マイレージは、昨夜の時点でカンストしておりました」
「……カンスト」 (……俺の不幸どんだけだよ)
「その万全の状態で! ついに昨夜! あなた様は発動条件を満たされたのです!」
彼女の声がなぜかワントーン上がる。
「……トリガー?」 (善行か何かか……?)
「ご明察でございます!」
(……こいつ俺の心を読んでるのか?)
「あの雨の夜! 終電にも間に合わないかもしれないという、ご自身の切羽詰まった状況の中で!」
彼女はなぜかそこだけ誇らしげに胸を張った。 「あなたは見返りを求めることなく、ただ純粋な慈愛の心で、一つのか弱い命をお救いになりました!」
(……あの子猫か)
「はい! それがトリガーとなり、あなたのカンストした不幸マイレージ、九千九百九十九万ポイントが解放され―――」
彼女はそこで一度言葉を切った。 そしてこの役所中に響き渡るような高らかな声で、その結果を告げた。
「―――本来のシナリオでは! あなた様はあの階段で、一等・前後賞合わせて五億円の宝くじの当選券を拾うはずだったのです!」
「…………ご」 「……ご、ご、ごおくえん」
俺の乾ききった三十八歳の鼓膜に。 そのあまりにも非現実的な金額が反響する。
五億円。 それは俺がノルマ證券であの地獄のような日々を、あと何百年続ければ手にすることができた金額だろうか。
(……五億円が手に入っていた) (……本来なら) (……あのバナナの皮で滑ったあの瞬間に) (……俺の人生はそこから輝かしい第二のステージへと進むはずだった……)
「……そ、それで」
俺はかすれた声をなんとか絞り出した。 興奮で心臓がまだバクバクと鳴っている。 (死んでるはずなのにおかしいな)
「その五億円は……どうなったんだ?」 「俺は……そのなんだ」 「生き返れるとかそういう話なのか?」
そうだ。それが一番重要だ。 本来なら五億円を手にして俺の人生はそこから大逆転するはずだった。 それがこいつら天界のなんらかのミスで、俺は今ここにいる。 死人として。
だったら話は簡単だ。 「ミスを認め。俺を生き返らせ。五億円を渡す」 それ以外に落とし所はないだろう。
俺は期待に満ちた目で目の前の女神を見つめた。 さっきまであんなに流暢にプレゼンテーションをしていた彼女。 その星々を宿した美しい瞳が俺のハッピーエンドを告げてくれるはずだ。
「…………」
だが女神は答えない。
「……あの?」
俺は首をかしげる。 さっきまでのあの自信に満ちた完璧なプレゼンターとしての輝き。 それがフッと、まるで電球が切れたかのように彼女の顔から消え失せていた。
代わりにあるのは 「あ……」 「う……」 と意味のない単語を小さく繰り返す 一人のポンコツ(・・・・)だった。
「……あれ?」
俺の高揚していた気分に冷水が浴びせかけられる。 なんだ? どうした?
女神のあの完璧な事務スマイルが引き攣っている。 口角は笑おうとしているのにピクピクと不自然に痙攣している。
そして何より。 あの星々を宿した美しい蒼い瞳。 それが明らかに俺から視線を逸らしている。
「……おい」
「……えーと」
彼女は手元の光る板に視線を落とす。 意味もなくそのツルツルした表面を人差し指でトントンと叩いている。 その指先が微かに震えているのを俺は見逃さなかった。
「……ただですね」 「……早川様」
彼女の声がさっきまでの鈴の音のように清かで通る声から一転。 蚊の鳴くようなか細い、そして明らかに動揺した声色に変わっている。
「……ただ?」
俺の胸がザワリと嫌な音を立てた。
「……そのですね」 「……今回のその『神の祝福』の発動に関しまして」
「……はい」
俺は固唾を飲んで続きを待つ。
「……わ、わたくしのほうで執行申請の書類を作成いたしまして」
「……はあ」
「……そ、その申請書類をですね」 「……上層部の決裁トレイに提出したのですが……」
「……なんだ?」 「やけに歯切れが悪いな」
俺の心臓が今度は嫌な予感でドクドクと脈打ち始める。
「……その時ですね」
女神はついに観念したかのように顔を上げた。 だがその視線は俺の顔ではなく、俺の右肩のあたりを彷徨っている。
「……おい。目を見ろよ」
「……わたくしその日ですね」 「……徹夜明けでして」
「…………は?」
「……いえあの天界もですね、意外と人手不足と申しますか……その俗にいうブラックな環境でして……」
「……何を言ってるんだこいつは」
俺の顔が無意識に引き攣っていくのが分かった。 まさか。 まさかとは思うが。 その「まさか」が俺の三十八年間の人生を支配してきた悪魔の正体だというのか。
「……それでですね」 「……そのわたくし寝ぼけておりまして」
「…………」
俺はもう何も言えなかった。 ただ目の前のこの神々しいまでの美女が放ったその一言。 「ねぼけて」 その単語だけが俺の頭の中でグルグルと回り続ける。
「……申請書類のですね」 「……フォーマットが非常にその分かりにくくなっておりまして」 「……ええこれはデザインした別の部署の神のセンスを疑うのですが」
「……知るかそんなこと」
「……『神の祝福』を執行するというチェック欄」 「……そ、その真横にですね」
「…………」
「……『神の天罰』を執行するというチェック欄が」 「……ま、紛らわしい位置に配置されておりまして……」
ゴクリと俺の喉が鳴った。 空気が急に重くなる。 この安っぽい役所の蛍光灯がやけに寒々しく感じられた。
「……待て」 「待て待て待て」 「お前まさか」
「……そのですね」 「……わたくし寝ぼけ眼で……」 「……つい、うっかりと……」
「……どっちにチェックした」
俺は地獄の底から絞り出すような声で尋ねた。
「…………」
女神は答えない。 代わりにその美しい陶器のような白い肌がみるみるうちにサーッと青ざめていく。
「……どっちだ、と聞いてるんだ!」
俺は思わず声を荒げた。
「ひっ……!」
女神は小さな悲鳴を上げた。 そしてついに観念したように白状した。 その声はもう涙声になっていた。
「……て、て、て、『天罰』のほうに……!」 「……チェックを入れてしまいまして……!」
シンと役所が静まり返った。 俺の思考がフリーズする。 耳鳴りがする。
「……てん、ばつ……?」 「……は?」
「し、し、しかもですね!」
女神はヤケソになったのか一気にまくし立て始めた。 「……そ、それもわたくしその寝ぼけておりまして!」 「……『未チェック』の申請トレイに入れるべきところを!」 「……そ、その隣にあった『チェック済み(・・・・・)』のトレイのほうに!」 「……ポンと!」
彼女はまるで可愛らしい効果音でもつけるかのようにその場で手をポンと叩いた。 その軽い音がこの静まり返った空間に悪夢のように響き渡る。
「……入れてしまったのでございます!」
「……ポンじゃねえよ」
俺の奥歯がギリリと音を立てた。
「……そ、その結果ですね」
女神はついに俺の顔をまっすぐに見上げた。 その美しい瞳には今涙がいっぱいに溜まっている。
「……上層部はわたくしのその間違った申請を!」 「……『ダブルチェック済みで完璧に正しい申請である』と誤認!」 「……そ、そのまま承認! 決裁! 執行されてしまいまして!」 「……結果として」
彼女はそこで一度言葉を切った。 そして俺の人生の結末を。 残酷なまでに事務的に宣告した。
「……あなたの駅の階段での『バナナで滑る』という事象は同じく発動いたしました」 「……ただ」 「……その結末を決定する運命パラメータが」 「……本来入力されるべきだった『神の祝福:宝くじ発見による五億円の幸運な未来』から」 「……わたくしが間違って申請してしまった『神の天罰:後頭部強打による確実な即死の未来』へと」 「…………書き換えられてしまったのでございますっ!」
シン――――。
女神の裏返った絶叫の余韻だけが、だだっ広い役所の空間に虚しく響き渡る。
俺の耳の中でキーンと甲高い耳鳴りが鳴り響いていた。
(…………は?)
俺の脳が彼女の最後の言葉を理解することを拒否している。
(……かきかえられた?) (……ねぼけて?) (……チェックミス?) (……トレイをまちがえてポンと?) (……そのけっか) (……ごおくえんが) (……そくしに?)
俺の三十八年間の灰色の人生が脳裏を走馬灯のように駆け巡る。 地獄の月曜日 。人格否定の罵声 。栄養ドリンクだけの朝食 。満員電車の圧迫感 。大損させた老夫婦の慟哭 。雨の中震えていたあの子猫 。 そして。 あの忌々しいバナナの皮 。
その全ての結末が。 こいつの。 この目の前のポンコツの。 「うっかりミス」で。 終わった。
(…………笑えねえよ) (……笑えるわけねえだろうが……ッ!)
遅れて地獄の底からマグマのような黒い怒りが湧き上がってくる。
俺はゆっくりと。 錆びついた機械が軋むように。 目の前の女神へと視線を戻した。
彼女の顔は蒼白を通り越し真っ赤に染まっている。 顔中から湯気でも噴き出しそうだ。
「あ……」 「う……」 「そ、そ、そ、それは…………!」 「ちがっ……! いえ……! そ、その…………!」
完璧なパニック。
俺は。 そんな彼女に向かって。 この世の全ての理不尽と絶望と怒りを、 たった一言に凝縮させるために。 重い重い息を吐き出した。
「…………つまり」
俺の声。 カラカラに干上がった砂漠の砂が擦れ合うような、そんな声。
「…………俺は」 「…………アンタの」 「…………うっかりミスで」 「…………死んだってこと、ですか?」
その一言が引き金だった。
女神の肩が。 ビクッ!!!! と尋常じゃないほど跳ね上がった。
そして。
「―――誠に誠に申し訳ございませんでしたあああああああああああああああああ!!!!」
神々しさのカケラもない断末魔のような絶叫。
彼女は跳んだ。 安っぽいアクリル板のカウンター。 それを体操選手か何かのようにヒラリと飛び越えやがった。 俺の目の前に着地する。
ゴンッ!!!!
乾いた鈍い音。
彼女は、 俺の目の前。 ワックスが剥げかけた、 安っぽい灰色のリノリウムの床に。 その美しいはずの額を、 全力で、 叩きつけていた。
土下座。 それも並の土下座ではない。 額を床に擦りつけんばかりの、 完璧な、 全力の、 土下座だ(・)。
「…………」
俺は、 三十八年間、理不尽な上司に顧客に取引先に、 数え切れないほどの土下座をしてきたこの俺は。 今、 生まれて初めて。 神様(?)に、 全力で、 土下座をされていた。
(…………なんだよこれ)
月光のように輝いていた銀糸の髪は、 今はもう、 床の隅に溜まっていた、 埃にまみれている。
(…………神々しさゼロ) (…………威厳ゼロ) (…………ただの) (…………ミスをやらかして) (…………上司にバレるのを死ぬほど恐れている) (…………ポンコツ新入社員じゃねえか……ッ!)
俺の三十八年分の怒りと、 五億円を失った絶望と、 バナナで死んだ理不尽さが、 ごちゃ混ぜになって、 俺の頭の中で、 グルグルと、 渦を巻く。
(……どうしてこうなった) (……俺の人生。三十八年間。……いや俺の死まで含めて) (……どうしてこんな馬鹿げた茶番になっちまったんだ……)
俺の思考が、 このあり得ない現実から、 その全ての発端へと、 ゆっくりと、 巻き戻っていく。
(……ああそうだ) (……分かってる) (……全てはあの最悪の一日から始まったんだ) (……あのいつもの灰色の絶望的な月曜日の朝から)
ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ。
(……うるさい) 遠くで忌々しい電子音が鳴っている気がした。 地獄の鐘の音だ。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。 神の「うっかりミス」で、五億円の幸運は「即死」という最悪の結末に書き換えられました。
目の前で埃にまみれて土下座する女神 。主人公の三十八年間の人生とは、一体何だったのか。
全ての始まりとなった、あの「地獄の月曜日」へと、彼の記憶は遡ります―― 。
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