開いた天袋
「それでぇ、その後輩達、ビビりながらトンネル戻って来たらしくて。帰り道にもやっぱりその車が出たから慌てて走って一人がこけて全治一か月。それなのに、『生きて帰れてよかったよな』なんて言ったんですよ。お前がそのトンネルのこと教えたんだろって、頭叩いてやりましたけど」
稲田が上機嫌に頭を叩く振りをし、その手でジョッキを掴んだ。美味しそうにビールを飲み干し、「水田さんももう一杯いきますか?」と訊く。
水田は、自身のジョッキを飲み干してから頷いた。
「お兄さん、ビール二つ追加で!」
通りすがりの店員にそう言ってから、稲田はニンマリと笑って水田に向き直った。
「水田さんはそういう体験ないんすか」
「そういう体験?」
唐揚げをつまみながら、水田は繰り返した。じれったそうに稲田が体を揺らす。
「だからぁ、そういう心霊スポット行ったりとか、幽霊見たとか、そういうこわーい体験すよ。水田さんってガタイ良いし、若い時はそういう無茶してそう」
若い時ってなんだよ、と水田が突っ込むと、稲田はすんませんと笑った。
「で、ないんすか?」
店員が運んできた新しいジョッキを受け取り、代わりに古いジョッキを渡しながら、水田は首を捻った。
「こわーい体験ねぇ。そういうお前はないの」
稲田は、早速ジョッキを傾けてから、口を曲げた。
「ないっすね、全然。幽霊なんて見間違いでも見た事ないですよ。さっき言った高校の時のダチがそういうオカルト……的なものが好きらしくて、話はいくらでも聞いたことあるんですけど。自分じゃなーんにも。子供の時にネッシー探したくらいっすね。近所の池で」
なんだそれ、と言うと、稲田は可笑しそうに笑う。
「怖い話かぁ」
水田の言葉に、稲田はまるでおやつを目の前に出された犬のような顔をした。内心でそれに呆れつつ、水田はあることを思い出していた。
「怖いかどうかは判らないけど、昔住んでたアパートでな……帰るといつも押入れの天袋が開いてるってことはあった、な」
稲田は思い切り顔を歪め、自分で肩を抱くようにした。
「え、めっちゃ怖いじゃないですか。勿論、そんなとこ開けてないですよね? あそこって特に普段使うようなもの入れないだろうし」
「怖いかぁ?」
「怖いすよ。開けてない扉が開いてるとか、俺は嫌っすね」
水田はなんとなく腕を組み、顎を擦った。
あの頃はまだ大学を卒業したてで、都内だというのに家賃二万のボロい1DKに住んでいた。安い家賃の理由は明白で、ボロさに加えて窓を開ければ墓地だった。当時は結婚どころか彼女も居なかったし、心霊やらオカルトやらも全く気にしていなかったから、構わず住んでいた。
「どのくらい開いてたんすか」
焼き魚をむしゃむしゃと食べていた稲田が唐突に訊いた。
「何が」
「だから、その天袋」
「あぁ……」
水田はジョッキを傾けてから、首を捻った。どのくらい、と口の中で呟き、どうにも記憶の中の景色が薄ぼけているのに気が付いた。
「んー、多分、このくらいとか……このくらいの時とかもあったかな?」
水田が親指と人差し指を使って幅を表現すると、稲田は小さく頷いた。
「本当に怖くなかったんですね。うろ覚えって感じで」
「いやぁ……」
水田はどこか納得がいかない気がして、首を傾げた。
「え、何かあるんですか。続きとか」
うーんと唸ってから、水田は考えた。どうにも拭えぬ違和感がある。
あの頃、家に帰り、天袋を閉めてから窓を開けるのが習慣になっていた。それから窓枠に腰掛けて、眼下に墓地を見ながら煙草をふかす。それで……。
「そうだ、赤い服の女」
「何すかそれ、怖……」
水田はジョッキにへばりついたビールの泡を見つめながら、記憶を辿った。
「仕事終わりにな、窓を開けて煙草を吸ってると、家の前の墓地にちらちらと赤い色が見え始めんのよ」
稲田が、制するように手を掲げた。
「ちょっとひとついいっすか。まず墓地が目の前にあるアパートってのが、既に怖いんですけど。何でそんなところ住めるんですか。あれですか、心臓に毛が生えてるってやつですか」
水田は、稲田の頭を叩く素振りをし、口端を曲げた。
「いいから黙って聞いてろよ。なんか、こう……思い出しそうなんだ」
その言葉に、稲田は口を閉じ、小さく頷いて見せる。視線は外さないまま箸を持つ手を伸ばして唐揚げを口に放り込むと、手で話の続きを促した。
──赤い服の女。そう、赤い服の女が墓地に立っていたんだ。
「ちらちらと見えてた赤い色がな、墓地の向こうからゆっくりと歩いて来て、あるところでしゃがみ込むんだ。墓地を囲む塀のせいで女の姿は見えなくなる。俺はそれをぼんやりと眺めながら煙草を吸ってる。それで──」
水田はふいに煙草を吸いたくなった。禁煙してからだいぶ時が経つ。今はライターすら持ち合わせていない。稲田は人生で一度も吸ったことがないと言っていたっけ。
黙り込む水田を、枝豆をつまみながら稲田が見つめている。
水田は、目元に手を当て深く考え込んだ。
赤い服の女が、立っていて──。
「そう、笑ったんだ」
「水田さんが?」
「違うよ、馬鹿。赤い服の女が」
「え、何で」
水田の記憶の中で、赤い服の女がゆっくりと笑う。ボロいアパートの二階の窓辺にいる水田に向かってゆっくりと。その唇は、紅い。
「……知らねぇけど。とにかく笑ったんだ。それで──」
「ちょっと待ってくださいよ」
遮った稲田の手元の鞘から豆が飛び出して、卓に跳ねた。稲田はそれを指で拾って口に放り込んでから難しい顔をする。
「それって、水田さんの仕事帰りってことは、夜ですよね。普通、夜に墓参りしなくないですか? そもそも夜に墓地とか行きたくないし。そんなこと言ったら墓地の近くに住みたくもないけど」
そう言いながら、稲田はジョッキを傾けた。
──確かに。
水田は妙に納得して、記憶を辿った。
確かに、記憶の中であんな時間に墓地で見掛けた姿は、あの赤い服の女ただ一人だ。勿論、ずっと監視している訳ではないから、何某かの事情があって夜に墓地に立ち入る人間も居たのだろうが。
「それ、幽霊だったんじゃないですか」
ふいに言う稲田のその言葉に、水田の心臓がズキと鳴った。しかし、それを鼻で笑い飛ばす。
「馬鹿言うなよ。確かに夜に墓参りなんて妙な女だけど、脚とか生えてたし。──うん、ちゃんと脚生えてたな。思い出した。赤い服を着た妙な女に笑い掛けられた……ただ、それだけの話だ。自分で話していてあれだが、こう考えると心霊体験ってそうないものだな」
水田は豪快に笑うと、ジョッキを傾け、ポテトサラダに手を伸ばした。
「脚が生えてる幽霊も居るみたいですよ」
その言葉に、箸でつまんでいたポテトサラダが皿に戻る。水田は誤魔化すように皿の上でポテトサラダを掻き集めた。稲田は、考える素振りをしてから言った。
「三隈──あぁ、さっき話してたオカルト好きの高校時代の友達が言ってたんですけど、幽霊の中には脚が生えてる奴も居るって。幽霊が視えるって自覚がある人はそうだと判るみたいなんですけど、そうじゃない人は一見すると普通の人間と見分けがつかないって。で、幽霊っていうのは視えてるって気が付いたら近寄って来るみたいですよ」
稲田は伺うような視線で見つめている。一体、何を言わんとしているのか……。
記憶の中で赤い色が揺れる。
「いや、いや……別に何も」
言い掛けた水田は、ハッと体を硬直させた。その拍子に卓の脚にぶつかり、皿が揺れる。稲田が慌てて傾いだジョッキを支えた。
「な、なんすか水田さん」
「あ、悪い……」
隣の席に座る女二人組が、怪訝そうな顔で水田を見やった。気恥ずかしさにジョッキを飲み干し、通りかかった店員にビールの追加を注文する。稲田が「あ、俺も!」と手を上げた。
「もしかして、本当に幽霊だったとか?」
いやいや、と頭を振り、水田は薄く笑った。
ふいに稲田が、あっと声を上げた。
「そのアパートの住所教えてくださいよ」
「何で。というか、昔過ぎて覚えてねぇよ」
「どの駅使ってました? 地図で調べるんで」
鞄からタブレットを取り出した稲田は、あれこれと質問を繰り返し、かつてのアパートを割り出してみせた。
「で、これをこのサイトで見ると──」
暫く画面を触っていた稲田が、ニンマリと笑った。
「あった。水田さんが住んでたアパートじゃないけど、向かいのアパートで殺人事件」
「えっ」
水田は眉間に皺を寄せた。隣の席の二人組が、今度は稲田を訝しげに見やる。水田は慌てて稲田を制するように手を振った。丁度店員がビールを運んで来て、ジョッキを入れ替えた。
稲田は隣の席の様子に気が付いたのか、僅かに声を落とし、顔を近付けて続けた。
「これ、怪しいすよ。一人暮らしの女性がストーカーに攫われて押し入れに入れられてたって事件。当時の記事もあるけど……発見された時にはもう亡くなってたって」
稲田は少しだけ顔を曇らせる。水田はふっと頭に浮かんだものを否定するように訊いた。
「それが、俺の話とどう関係するんだよ」
稲田は、意地悪そうに笑みを作ると、とっておきの秘密を打ち明けるように口元に手を添えた。
「だから、そこで死んだ女性が、墓地を通って水田さんの部屋まで来たってことですよ。もう死んでることに気が付かずに助けを求めて……とか。死後、天袋に詰められてたみたいですから」
水田は、急速に頭が回転する感覚を覚えた。
駄目だ、気がついてはいけない。思い出しては……いけない。
勢いよくメニュー表を取り、文字を追いながら、鼻で笑い飛ばす。
「そんな訳あるか。もう、この話は終わりだ」
水田が言うと、稲田は「えぇー」と残念そうに声を上げた。
「というか、怖いんじゃなかったのかよ。さっきから怖い怖い言ってたくせに」
「それはそれ、ですよ。昔っから怖い話を聞くのは好きなんで」
「ふぅん。──そういえば、この間お前がヘマした件だけど」
「……そういうのはもっと怖いっス。やめてください」
稲田は、僅かに背を伸ばしてから、口を曲げた。
家に帰り着いた水田は、静かに鍵を開けた。
まだリビングに灯りが点いていた。
「ただいま」
そう言って部屋を覗くと、妻の亜希子がテレビから目を離し「おかえり」と答えた。そのまま廊下へと戻って二階への階段を上り、寝室へと向かう。
子供達二人は既に寝入っているのか、二階はシンと静まり返っていた。
寝室の扉を開いた水田は、灯りの点いていない部屋を前に、足を止めた。
扉を開けて左側にキングサイズのベッドが鎮座している。そしてその反対にはクローゼットがあった。その扉が僅かに開いている。観音開きの手前側が開いているせいで中の様子は見えない。扉の影から、何かが覗いている。
それは、薄暗がりの中で赤く滲む。
水田は、急速に脳裏に蘇る景色を振り払おうとした。しかし、それは確かな感触を持って蘇っていく。ふと、鼻の奥で煙草の香りがする。
そうだ。見えていた。
いつも開いている天袋。その中に……その中に、納まる女の姿が。
何故、忘れていたのだろう。
何故、あまりにも、鮮明な……。
水田は壁のスイッチを探って明かりを点け、僅かに開いたままのクローゼットの取っ手を掴んだ。
息が上がる。口が渇く。指先が震える。取っ手を、引いた──。
ずるり……。
扉を開けた水田の上に、纏わりつく何かが滑り落ちて来た。
うわぁあ、と声を上げた水田は尻もちをつき、後退った。纏わりつく赤いそれを振り払おうと必死に腕を振る。
階段を駆け上る音が近付いて来ると、亜希子が部屋に転がり込んだ。
「なに、どうしたの⁉」
ベッドに半分だけ乗ってジタバタしていた水田は、丁度振り払った赤いそれを見下ろした。視線を追った亜希子が、それを拾う。
「なにこれ。あぁ、お遊戯会で使ったマントじゃない。どうしたの、そんな声あげて」
水田が答えられないままで居ると、廊下の方から「ままぁ?」という眠そうな声が聞こえて来た。亜希子が振り返り「ごめんねぇ」と子供達の許へ歩み寄っていく。
水田は痺れた感覚のまま、クローゼットの中を見上げた。
上の段から箱が落ちて、扉との間に挟まっている。適当に積んでいたのが仇となった。
浅くなっていた息を深く吐き、水田はクローゼットに歩み寄った。突っかかっていた荷物を退け、クローゼットの扉を閉めた。
こんなところに女が居る筈がない。少なくとも我が家のクローゼットの中には、女が入り込む隙間なんてない。
水田は、もう一度ゆっくり長く息を吐いた。