第8湯 俺は温泉で”アレの発進”に感動する
波と戯れていた美月が、はだしの足でサンダルをパタパタ鳴らしながらジムニーの方へ戻ってくる。
美月「さて先輩、温泉はどこでしょう?」
亮「……相変わらずブレねえなぁ、お前は」
見渡せば、青い空、白い砂浜、そしてヤシの木。
どう見ても、南国リゾートって感じである。温泉の“お”の字も見当たらない。
亮「……グァムかサイパンかって景色だけど、こんなとこに温泉あるかね?」
美月「大丈夫です、きっとあります!私の中の温泉センサーがビビッと!」
そう言って胸を張る美月。どこにそんなセンサーがあるんだ。
俺はジムニーのエンジンをかけ直し、砂浜をゆっくりと走らせる。
タイヤはしっかりと砂をつかみ、安定した走りを見せる。
美月「さすがジムニーですね!砂浜でもスイスイじゃないですか」
亮「まあな。でも実際問題、現実世界じゃ砂浜走行ってNGなんだぜ?
ウミガメの卵とか環境保護の観点で禁止されてるとこが普通だ」
美月「へぇ〜、そうなんですね……ジムニーって万能だけど、自然には優しく、ですね」
亮「うむ。人間も同じだな」
のんびりと会話しながら進んでいくと、ヤシの間にぽっかりと小道を見つけた。
砂利と草が混じったような細い道だが、明らかに“導かれてる”感がある。
亮「……行ってみるか」
俺はハンドルを切り、小道へとジムニーを進めた。
しばらく進むと、木々がパッと開け、ちょっとした広場のような場所に出た。
そして、そこには――
「ようこそおいでくださいました」
着物姿で、日傘を差した一人の女性。
――お約束の女将である。
亮「……出たよ」
美月「おぉぉ……まさかここにも!?」
女将はニコリと笑い、手招きする。
女将「よろしければ、こちらの湯にご案内いたします。
この島の“海照の湯”、珍しい泉質でございますよ」
俺たちは顔を見合わせ、ジムニーを降りた。
女将の案内で、緩やかな坂道を下っていくと、
木々の合間から見えてきたのは――まるで海に浮かんでいるような露天風呂。
波打ち際ぎりぎりに作られた岩風呂には、うっすらと白濁した湯が湛えられている。
湯けむりが風に乗って揺れ、海と空の境界がぼやけるような幻想的な風景だった。
美月「……わぁ……すごい……」
亮「ここ、すげぇな……なんだこの雰囲気……」
女将「この湯は“月珀泉”と申しまして、
月の光を反射する成分を含むため、夜になると光を帯びるのです」
美月「ま、まじで……ファンタジーじゃないですか」
亮「いやもう、すでに現実の線は超えてるだろこれ……」
女将「ごゆるりと。お着替えも、あちらの茅葺の湯小屋をご利用くださいませ」
俺たちはしばし、ぽかんと立ち尽くしていた。
まさかこんな場所があるなんて。いや、もう“まさか”にも慣れてきたのが怖い。
――そして、次の不思議なひとときが始まろうとしていた。
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白濁の湯に体を沈めながら、俺はただ、水平線へと沈んでいく夕日を眺めていた。
空と海の境界が溶け合って、すべてが赤く染まっていく――そんな時間だった。
だが、気の利いたセリフのひとつも出てこない。
亮「……」
俺はぼんやりとしたまま、ただその美しさに呑まれていた。
言葉を探すけど、なぜか喉まで来て、声にならない。
そんな俺の様子に気づいた美月が、隣でふっと笑う。
美月「言葉なんか、なくてもいいじゃないですか。
今、この瞬間を一緒に感じて、楽しめれば、それで」
その声は、夕焼けの湯けむりに溶けるように優しかった。
俺は少し目を細めて、美月の横顔を見る。
亮「ああ……そうだな」
言葉がなくても、伝わるものがある。
今さら何か言わなくても、美月は――本当に、よくできた子だよ。
やがて太陽は完全に姿を消し、空には一番星が現れた。
少しずつ、夜の帳が下りる。
波の音だけが、規則的に寄せては返す。
美月「先輩……星がすごいですよ。なんか、吸い込まれそうなくらい……」
そう言われて、俺も上を見上げた。
――満天の星空。
まるで宇宙にぽつんと取り残されたような感覚。
手を伸ばせば、指先に星が触れそうな錯覚さえある。
亮「……すげぇな、こりゃ……。こんなん、現実で見られるなんて……」
ふと我に返る。
亮「いや、ていうか……これって、現実か?」
そんなふうに思っていたその時。
「牛乳はいかがですか?」
ぬるっと背後に現れる着物姿の女将。
亮「……相変わらず、ぬるっとしてんなぁ!?」
驚く俺に、美月はくすっと笑う。
美月「あーぁ、ちょっと早いかもですが、いただきましょうか」
そう言って、美月は湯船のふちに手をかけて立ち上がる。
白い肌に湯気がまとわりついて、一瞬、言葉を失う。
亮「……いや、温泉って言ったら日本酒とかのイメージだけどな」
美月「いいじゃないですか~。温泉でアルコールなんて、本当は体によくないはずですよ?
冷えた牛乳飲みながら、星空眺めて――最高じゃないですか♪」
――たしかに、俺もそう思う。
女将が手にしていたトレイには、俺にはコーヒー牛乳、美月にはフルーツ牛乳。
そのセレクト、実に見事である。
「……女将、よくわかっていらっしゃる(笑)」
美月はフルーツ牛乳の瓶を両手で抱えて、ふふっと笑う。
美月「じゃあ、いただきます……ぷはーっ! やっぱりこれですね!」
亮「ったく、子どもかお前は……」
でも、その表情が、やけに愛おしかった。
俺も瓶のコーヒー牛乳をひと口。
冷たくて、ほんのり甘くて、少し懐かしくて――
湯けむりの中、星空の下、最高の一杯だった。
もうしばらく、このままでいられたら――
そんなふうに思ってしまう、穏やかな夜だった。
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湯上りにまったりしていると、静かな波音を破るように、突如サイレンのような音が響いた。
「なんだ、この音は……!?」
慌てて俺ははあたりを見回す。
「緊急地震速報……?」と美月が呟くが、スマホは圏外のまま。
「いや、ここ圏外だぞ?ってか、そもそも異世界だろここ……」
混乱する亮の横で、ぬるっと女将が登場する。
「申し訳ありません、お客様。少々騒がしくなりますが、大丈夫でございます」
その言葉を皮切りに、唐突に軽快なテーマソングのようなBGMが温泉全体に流れ出す。
そして――風呂の水面が静かに、しかし確実にスライドし始めた。
「うおっ、マジか!?」
湯が引いていくその下から、暗い穴がが現れる。そして、そこから巨大な銀色をした筒状の物体がせり上がってくる。
下部には大きく“1”の文字。
「先輩!これ、これ絶対あれですよ、ゼーットってやつですよ!」
「いや、ちょっと待て、美月……これは……ロケットだ!」
次の瞬間、温泉の向こう側――崖の前のヤシの木が、左右にぱたんと倒れた。
そして、崖が格納庫の扉の様にせり上がりそこからゴトゴトと音を立てて現れたのは、緑色の丸っこい航空機のようなもの。
こちらには“2”の文字が刻まれていた。
「お、おぉぉぉ……まさか、まさか……!」
「先輩、見てください! 飛ぶ、飛びますよ!」
美月が指差す方に目をやると、緑の機体がゴォォォォッと激しい音を喚きながら、ふわりと浮かび、轟音とともに空へと舞い上がる。
続いて“1号”も温泉の底から力強く発進し、真っ直ぐに星空へ向かって飛び立っていった。
「……すげえ……子供の頃の夢が全部混ざってる……!」
亮は湯けむりの中で立ち上がり、思わず空を見上げた。
「もしかして……あの空の上に、5号が浮かんでるのかなぁ」
「うわ、先輩が完全に少年になってる(笑)」
サイレンの音が遠ざかり、再び静けさが戻る。
風が通り抜け、波の音が戻ってくる。
露天風呂の水も何事もなかったかのように元に戻っていた。
女将がにっこりと笑って言う。
「すみません、少々取り込み中でして。でも、温泉はいつも通り最高でございますよ」
「……いや、最高すぎて現実感ないっす」
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サイレンが遠ざかっていくと同時に、発進した“1号”と“2号”は空へと吸い込まれるように飛んでいった。潮の香りと風だけがその場に残され、再び静寂が訪れる。
亮:「……なあ、美月。あれ、雷な鳥ってやつで合ってるよな?」
美月:「たぶん……でも実物見ちゃうと、もう合ってるとかどうでもよくないですか? あたし今、生きててよかったって思ってますもん」
亮:「いや、なんでお前がそこまで満足そうなんだよ(笑)……しかし、あのロケットの下って露天風呂だったんだよな?」
美月:「お湯がスライドしてロケット発進って、温泉施設の構造じゃないですよ、どう考えても(笑)」
亮:「風呂の下に秘密基地があるとか、俺の少年時代が報われすぎて逆に怖いわ……」
そのとき、またしてもぬるっと女将が登場した。
女将:「失礼いたしました。たまにあるんですよ、ああいう出動が。でもご安心ください、お客様の滞在には支障はございません」
亮:「いや支障しかないでしょ!? あれ国家レベルの出動でしょ!?(笑)」
美月:「女将さん、雷な鳥の隊員なんですか? っていうかあれ、どこ行ったんですか?」
女将:「それは企業秘密でございます。でも……この星を守る大切な仕事なんですよ」
そう言って、にこりと笑う女将の顔はどこか誇らしげで。
美月:「なんか、そう言われると納得しちゃうなぁ……」
亮:「なんかさ、温泉と非日常と妄想と現実の境界が、どんどん曖昧になってきてる気がするんだけど……」
美月:「先輩、それが“癒し”ってやつなんですよ。現実からちょっとだけ離れて、自分を取り戻す時間」
亮:「……お前、たまにすごいこと言うよな」
海の向こうに、光の尾を引きながら飛び去っていく“1号”と“2号”の影が消えていく。
美月:「さ、先輩、さっきの続きしませんか? 牛乳二本目、いっちゃいましょ♪」
亮:「……あぁ、そうだな。俺も、今はこの世界でいいやって思えてきたよ」
ふたり、再び湯に浸かり、静かな夜の帳に包まれていく。
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露天風呂の湯面が静かに揺れている。
さっきまでロケットだの飛行機だのが発進していたとは思えないほど、今は穏やかな空気が流れていた。
「……この温泉、内部構造が気になりすぎる」
ぽつりと呟く俺。
「ですねぇ~」
美月が湯にあごまで浸かりながら、のほほんと笑っている。
「中に入ったら先輩、絶対AIロボに見つかって、働かされるパターンですよ。
“人類の希望を確認”とか言われて(笑)」
「うわ、それめっちゃありそうでこわい。しかも俺にだけ重労働回ってくるやつ……もう帰ろ」
俺が立ち上がると、美月も後に続く。
湯けむりの向こうに、いつの間にか“あの人”が立っていた。
ぬるっと、まるでそこに最初からいたような自然さで現れる女将。
「お帰りですか? それでは――」
女将の案内で俺たちは、再び砂浜の小道をゆっくりと歩いていた。月明かりの下、ジムニーのシルエットが見えてくる。
「ではこちらをどうぞ」
女将が懐から取り出したのは、小さな玉手箱のような入れ物だった。
漆塗りに見える黒い箱には、湯気を模した金の蒔絵が描かれている。
「中に湯玉が入っております。おふたりでお持ちくださいませ」
「おぉ、今回は演出が一段と凝ってるな……」
俺が受け取ると、箱の中には、例の“湯玉”がそっと収まっていた。
「また、ぜひお越しくださいませ」
女将は深くお辞儀をする。
その仕草がどこか別れというより“また会える”ことを約束しているようで、少し不思議な気分になる。
「じゃ、帰るか」
「ですねー。次はどこに出るか、楽しみですね」
美月がにやにやしながら助手席へ乗り込む。
俺も運転席に座り、湯玉の入った玉手箱をダッシュボードの上にそっと置く。
ふと、ジムニー全体がわずかに震えた。
「……きたな」
白い靄がジムニーを包み込む。
エンジンの音も、風の音もかき消されるような無音の中、時間が止まったような感覚に包まれる。
この瞬間だけは、何度味わっても現実なのか夢なのかわからない。
しばらくして、靄がスーッと引いていった。
「……どこだここ?」
窓の外を見ると、堤防が複雑に入り組んだ港のような場所だった。
見覚えのあるような、ないような――そんな景色。
「……あれ?」
視線を向けると、そこには大きな赤い蛸のオブジェが鎮座していた。
「うおっ!? 日間賀島じゃねぇか!!」
俺は思わず叫んだ。
「へぇ~、日間賀島って、世界平和を守ってたんですねぇ……知らなかったなぁ」
美月が、しれっとした顔でとぼける。
「いやいや、何食わぬ顔して言ってるけど、どういう世界観で繋がってんだよこれ……」
ジムニーのフロントには、まだほんのりと湯気が残っているような気がした。
まったく油断も隙もあったもんじゃない。
だが――少しずつ、“次”を期待している自分がいるのも事実だった。