第17湯 俺はとまとジュースに感動する
陽はすでに高く、夏の空はまるで絵に描いたような青さを誇っていた。
遠くで蝉の声が鳴き、風がトマト畑の葉を揺らして、さわさわと心地よい音を立てる。
赤く熟れたトマトが陽の光に照らされて、まるで宝石のようにキラキラと輝いていた。
そんな道を、亮と美月はルークに案内されながら歩いていた。猫たちは三人の足元を自由に行き来し、先頭ではミーナが猫たちと一緒にぴょんぴょんと跳ねるように先導している。
「おにぃ、ミーナ先にいってるからぁ〜♪」
「お、おい! 気をつけていけよ〜。すぐ行くからな!」
緑に囲まれたミーナの小さな背中が、夏の風とともに畑の風景に溶け込んでいく。その姿は、まるで陽の妖精のようだった。
「ねぇ、ルーク君って……いくつなの?」
後ろから美月が、無邪気な笑顔で訊ねた。
「え? あ〜、十一歳です」
「じゃあじゃあ♪」
美月はうれしそうに手を合わせて、跳ねるように言った。
「ミーナちゃんは?」
「七歳。うちの自慢の妹だ」
「へぇ〜、七歳……ちっちゃくて、かわいい〜!」
美月のテンションがどんどん上がっていくのを横目に、亮は小さくため息をついた。
「……子ども見るとテンション上がるって、別のスイッチ入ってないか?」
そんなやり取りを聞きながら、亮はふと気になったことを口にした。
「そういえば、さっきの案山子。なんであんなに真っ赤なんだ?」
するとルークは、どこか得意げにニヤリと笑った。
「ああ、あれか。赤いと普通の案山子より三倍の性能があるって聞いたんだよ」
「へぇぇ〜……三倍も……?」
美月が声を上ずらせて笑いをこらえる中、亮は思わず小さく吹き出す。脳裏に浮かんだのは、赤い士官服に仮面をつけた、某アニメの少佐だった。
そんな話をしながら歩いていくと亮は、畑のさらに奥、遠くの丘の上にちらりと見えた木造の建造物を見つめた。
「……ア・バオア・クーじゃね? あれ……どうやって直立してんだよ刺さってんのか(笑)」
亮が目を細めると、ルークが手を挙げて言った。
「あそこが、俺たちの家です」
近づくにつれ、建物の細部が見えてきた。丸太を組んだ温かみのある木造の壁、屋根には藁が葺かれ、壁際にはトマトのつるが這っている。
風に晒されて年季が入っているが、どこか懐かしい雰囲気をまとっていた。
「……お、おぉ。田舎の山小屋って感じだな」
亮は目を丸くしながら、どこか感心したように呟いた。
「見るもの全部に目をキラキラさせんなよ、美月……」
「だって異世界なんですよ!? これ全部“ほんもの”ですよ! テレビじゃないんですから!」
「“現地”感てなんだよ……」
異世界に来るのは何度目だ、と自分に突っ込みながらも、亮の中には今までとは違う何かが芽生えていた。
その時──
「おにぃぃ〜〜〜! おかえりぃ〜〜〜っ!!」
木の扉が勢いよく開かれ、小さな体が駆け出してきた。
ミーナだった。髪は風で少し乱れ、笑顔は陽差しよりもまぶしかった。
「……それがやりたかったのか、相変わらずかわいいなぁ……」
ルークは自然と笑みをこぼし、ミーナの頭に手をのせる。
家の中に入ると、そこには木の香りと、ほんのり甘いトマトの匂いが満ちていた。
丸太のテーブルと手作りの椅子。壁には干し野菜や香草が吊るされ、窓辺では猫たちが丸まって昼寝している。
「とりあえず、座ってて。今、麦茶入れるから」
ルークが台所に向かおうとすると、ミーナが声をあげた。
「おにぃ、もう用意しておいたよ!」
テーブルには木のカップが並び、中には赤く透き通った液体が入っていた。
「……これ、トマトジュース?」
「そうだよ! おにぃのトマトはね、世界一なんだからっ!」
ミーナが小さな胸を張る。
「じゃあ、いただきます」
亮がひと口、そっと口に運ぶ。
その瞬間、目を見開いた。
「……すっげぇ旨い!!」
「ぷっはぁぁぁぁ〜〜〜!!」
美月はのけぞりながら叫んだ。
「甘いのに、すっきりしてる! トマトって、こんな味するんですか!?」
ミーナはふふん、と得意げに腕を組み、笑った。
「ふふんっ、おにぃのトマトは世界一なのです!」
「うぉぉぉ……わが天使よ……!!」
ルークが思わず天を仰いで両手を広げる。
「……なんか心配になってきたわ、いろんな意味で」
亮はトマトジュースを飲みながら、肩をすくめた。
──夏の陽はまだ高く。
世界一のトマトジュースと、世界一かわいい妹に囲まれたこの家は、今日も変わらぬ平和に包まれていた。
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木の窓から差し込む陽光が、テーブルの上のジュースの表面をきらきらと照らす。
風に揺れるカーテンの向こうで、猫たちがのんびりと日向ぼっこをしていた。
どこからか干し草の香りが混じった、懐かしいような、胸がすぅっとするような空気が漂っている。
しばらく、誰も言葉を発さなかった。ただ、カップを口に運び、目を見開いて笑い合う──そんな時間だった。
やがて、美月がふと顔を上げて言った。
「……先輩。私、ここ、けっこう好きかもです」
亮は少し驚いたように彼女を見た。
「……そうか?」
「うん。なんか、こう……全部手作りって感じがして、落ち着くし……」
彼女の目が、木のテーブル、乾いたハーブの束、そして猫たちの丸まる姿へと静かに移っていく。
「……それに、ミーナちゃんがめちゃくちゃかわいいし」
「そっちかよ」
亮が苦笑しながら突っ込む。
その声に、ルークが楽しげに笑った。
「ありがとう。でも、あいつ、可愛いだけじゃなくて、すごいんだぞ」
「ほう……?」
亮がトマトジュースを飲みながら眉を上げる。
「朝は一番に起きて、猫たちのごはんと、畑の見回り。それが終わったら水くみして、火をおこして……」
「えぇ〜!? ミーナちゃん、そんなに働いてるの!?」
美月が驚きで目を丸くする。
「うん。俺より働いてるかもしれん」
ルークが冗談めかして言うと、奥の部屋から「おにぃー! それナイショって言ったじゃーん!」という可愛らしい声が聞こえてきた。
そのあと、どたどたと足音が近づいて──
「ふふ、照れてるな」
ルークが笑いながら立ち上がった。
扉の向こうから現れたミーナは、手に小さな木の皿を持っていた。
「えっとね、これ、今日とれたお野菜!」
皿の上には、色とりどりの野菜が並んでいた。小さな黄トマト、ほんのり紫がかった葉っぱ、そして丸くてつやのある赤い実。
「すごい……これ、全部畑で?」
美月が感嘆の声を上げた。
「うんっ! 猫たちも手伝ってくれるんだよ〜! ……ちょっとだけ、だけど!」
「猫が手伝うのか……すげぇ世界だな」
亮は感心しつつも、どこか現実味のなさに半信半疑な顔をしていた。
しかし、そのとき──
「にゃ〜」
と、足元から一匹の猫がやってきて、ミーナのスカートの裾をちょいちょいと引っ張った。
まるで、「説明しろよ」と言っているかのように。
「あ、この子ね、ちゃんとトマトの病気とか見つけてくれるの!」
「「猫が!?」」
二人同時に叫ぶと、ルークが少し肩をすくめた。
「まあ、俺たちの畑……ちょっと不思議なことが起こるんだよ」
ルークの言葉に、亮と美月は顔を見合わせた。
「……ちょっと、じゃない気がしてきたな」
「完全にファンタジーだよね、先輩」
苦笑しながらも、ふたりの顔にはどこか期待と高揚が混じっていた。
そのとき、外から再びセミの声がわっと響いた。夏の午後を彩る、騒がしくもどこか愛おしい音。
ゆっくりとした時間が、この村には流れている。
異世界に来たという事実を忘れそうになるくらいに、やさしい空気がそこにはあった。
そして──
亮の胸の中には、まだ言葉にならない、だが確かに広がっていく“違和感”と“予感”が芽吹いていた。
ここには、きっと何かがある。
まだ見ぬ何かが──