第1湯 俺は静かに温泉につかりたい
主人公:風間 亮
28歳・男
身長180cm/普通体型
職業:電気制御技術者
:築40年のアパートで一人暮らし
趣味:温泉巡り
通勤:古びたジムニーでマイカー通勤
仕事ではクールで頼りがいがあると評されるが、プライベートでは静かな生活を好む。週末は温泉地を探してドライブに出かけるのが何よりの楽しみ。無骨で機械いじりが得意。
ヒロイン:佐倉 美月
26歳・女
身長152cm/小柄で元気
職業:同じ会社の総務部(主人公の2年後輩)
趣味:温泉巡り(実は主人公の影響)
明るく、社内のムードメーカー的存在。背は低いが行動力は抜群で、誰とでもすぐに打ち解ける性格。実はこっそり主人公のことを気にしていて、最近は彼の趣味を口実に、よく温泉情報を話しかけるようになってきた。
「先輩、今度の休み、ひまわり温泉連れてってくださいよ。つるつるですよ、お肌が」
佐倉美月が、にっこり笑いながら俺の机に身を乗り出してくる。
「……おまえな、あんなメジャーなとこ、平日ならともかく休日は混んでて……お湯が、泉質が……」
一応それっぽく反論してみたが、美月は全然聞いていない。
「いいじゃないですか〜。153号線沿いで、すぐですよ、すぐ!」
「すぐって……片道2時間以上はかかるんだけどな」
でもまあ、最近はあそこにも行ってなかったし。たまにはメジャーどころも悪くないか――そう思って、俺たちはオンボロジムニーで出かけた。
山の空気が変わったのは、伊勢神トンネルを抜けた瞬間だった。
突然、前方が真っ白になるほどの濃霧が俺たちを包んだ。
「うわ……霧、すご……」
美月の声も少し緊張気味になる。
俺はすぐにフォグランプのスイッチを入れた。黄色く灯るCIBIEが前方をかすかに照らすが、霧はそれでも深かった。
「これでもツラいな……」
視界がほとんどきかない。注意深くスピードを落として進んでいくと――突然、アスファルトの感触が途切れ、ゴツゴツとした振動が車体を揺らした。
「ん? ダート?」
俺はブレーキを踏み、車を止めた。
こんなところ、153号線にあったか? 工事の看板もない。こんな道路、見た覚えもない。
美月が窓の外を見ながら、ぽつりとつぶやいた。
「なんか……空気、違いません?」
俺は小さくうなずいた。霧がただの霧じゃないような、妙な気配がある。音もない。虫の声すらしない。
「……いったん、待つか。霧が晴れるまで」
そう言って、俺たちはジムニーの中でしばらく静かに息を潜めた。
だが、数分後。霧の向こうから――ありえない光が、ゆっくりと近づいてきた。
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霧がゆっくりと晴れていくと、そこに現れたのは――どう見ても153号線じゃなかった。
舗装された道路は影も形もなく、代わりに小さな川沿いに続く石畳の古道。両脇には木造の建物が軒を連ね、格子戸や木看板が時代劇そのままの雰囲気を漂わせていた。
「……えっ、馬籠!? ここ、馬籠じゃないですか!?」
助手席の美月が身を乗り出して目を見開く。
「いやいや、そんなとこまで走ってねぇし。馬籠って、もっと北だろ……?」
「じゃあ……妻籠?」
「お前、分かってて言ってんだろ(笑)」
冗談で返したつもりだったが、笑いはすぐに消えた。
目の前に広がっているのは、俺の記憶にも、地図にもない風景。観光地の復元町並みとも違う。もっと、生々しい生活の気配があった。
「……どこだよ、ここ」
エンジンはまだ動いている。とりあえず、もう少し先に進んでみるか――俺はジムニーのギアを一速に入れ、クラッチをゆっくりとつないだ。
きしむような石畳の振動が、ハンドルを通じて手に伝わってくる。視界の端に、ほうきを持った老婆や、荷車を押す男たちの姿がちらほら見えたが、彼らはなぜかジムニーを見ても驚かない。
「すごい景色だね……。あの建物、どう見ても江戸時代のものじゃない?」
美月が目を輝かせながらそう言った、その時だった。
道の向こうから、何かがゆっくりとこちらに近づいてきた。
白い装束をまとい、長い髪を風に揺らす女。頭には金色のかんざしのようなものをさし、手には――何だ、あれ?――細長い、巻物のようなものを持っていた。
「……あれ、人?」
「っぽいけど……なんか……ヤバい雰囲気あるな」
その女は、まっすぐ俺たちのジムニーを見据えたまま、無言で歩み寄ってくる。周囲の人々は、何かに気づいたように、建物の中へとスッと消えていった。
空気が変わる。
まるで、周囲の世界ごと時を止められたような、そんな重苦しい静寂が広がった。
そして、女はジムニーの前でぴたりと立ち止まると、静かに口を開いた。
「――湯の印、持つ者よ。ようこそ、“古湯郷”へ」
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「湯の……印?」
思わず俺は聞き返した。
目の前に立つ白装束の女性は、どこか旅館の女将みたいな雰囲気で、巻物を手に、ジムニーに向かってにっこり微笑んだ。妙に優雅で、現代人とは思えない立ち居振る舞いだ。
「ようこそ、“古湯郷”へ。湯の印を持つおふたり、お待ちしておりました」
「お、おふたり……?」
美月が首をかしげた。
「先輩、あれですか? 道の駅のご当地スタンプラリーみたいなやつ?」
「いや……俺ら何も参加してねぇぞ」
「そっか。じゃあ温泉手形……? いや違うか、印って言ってたし……あ、入湯証明書とか?」
「だからそんなもん持ってねぇって」
俺が言うと、女将風の人がくすっと笑った。
「その“印”は、心に刻まれているのです。湯に呼ばれし者のみ、ここへ辿り着くのですよ」
「……え、それって俺たち、選ばれし温泉マニアみたいな?」
「うん。なんかレア温泉へのご招待みたいで、ちょっとワクワクしてきたかも」
美月は妙にノリ気だ。
しかし俺は、ジムニーがいつの間にかエンジン止まってることに気づいて少し焦っていた。
「……って、ちょっと待て。エンジン止まってるし。なあ、これってマジでヤバいやつじゃね?」
「えー、せっかくレトロ町並みと天然温泉の夢コラボっぽい感じなのに~」
「温泉旅じゃないだろこれ、どこだよここ……」
そんな俺たちのやり取りを見て、白装束の女性は優しく微笑んだ。
「ご安心ください。こちらで温泉をご用意しております。まずは、お湯で旅の疲れをお流しくださいな」
「え、ほんとに温泉あるんですか!?」
「えっ、ちょっと……お前、乗り気すぎ」
美月はもう完全に温泉モード。
後ろのシートにおいてあったいつもの温泉セットが入ったバッグまで取り出してる。
「だってほら、あんな煙……じゃなくて湯気出てるし! 見てください、あれ絶対源泉ですよ!」
「……まあ、温泉入ってから考えるか」
謎すぎる状況だけど、逃げ道もないし。何より、こんな風景の中に湧く温泉――興味がないわけがない。
こうして俺たちは、わけもわからないまま、“古湯郷”という不思議な町に足を踏み入れることになった。
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案内された温泉は、木造の小屋の奥にひっそりと湯気を立てていた。岩を組んだ露天風呂。囲いはあるが空は見えるし、景色もバッチリ。
「うわ、いい感じじゃないですか先輩! 完全に穴場ですよここ!」
「……いや、穴場っていうか、現実じゃない可能性が高いけどな」
「夢でもいいから入りたい。疲れがすごいです、最近」
もう美月はタオルを首にかけて、片足をぴょこっと上げて足湯スタイルに入っていた。
俺も観念して服を脱ぎ、そっと湯に浸かる。――熱すぎず、ぬるすぎず。ふわりと体が包まれるような感覚がある。
「……うわ、これマジでヤバいな」
「でしょ? やばいくらい気持ちいいですよね」
肩まで湯に沈んで、ふたりして「ふあ~~~」と脱力した声を出す。
「先輩、こんなとこ見つけたら、マジで転職して湯守になった方がよくないですか」
「真剣に考えるなよ。てかそもそもここどこだよ」
「え、異世界の温泉郷?」
「軽く言うな」
美月はご機嫌で、ぽかぽかと湯を手ですくって顔にかけたりしている。俺はというと、肩にお湯を感じながら、じわじわと疲れが抜けていくのを感じていた。
……ところが。
「……ん?」
視界の端で、なにかが浮かんだ。
「なあ、美月。なんか……あれ、見えるか?」
湯の中央あたりに、ぽこぽこと泡立つ一点。そこに――湯気で形が曖昧だが――しゃもじのようなものが、ゆっくり浮かんできた。
「……え?」
美月も目を見開く。
「しゃもじ? なんで?」
「いや、俺が聞きたい」
しゃもじは、ゆらゆらと湯に浮かんだまま、俺たちの方を向いた(ような気がした)。
その直後――
「いい湯だよ~」
しゃもじがしゃべった。
「うわあああああ! しゃもじしゃべったあああ!」
「落ち着け! まだ“気のせい”って可能性あるから!」
「でも今、“いい湯だよ~”って言いましたよ!?」
「たぶん、幻聴か、温泉成分でハイになってるだけだろ。大丈夫、大丈夫、俺たちは元気……」
「今日の湯は“白花の湯”、お肌つるつるコースだよ~」
「お前、確実にしゃべってるってコレ!」
浮かぶしゃもじは、ぴょこんと縦に跳ねてから、シュルシュルと湯の中に沈んでいった。
二人して、しばらく湯の中でぽかーんと見つめ合う。
「……先輩。これ、あれですよね。たぶん“異世界でも温泉成分は効く”ってことですよね?」
「いや、もう何が効いてんのか分かんねぇよ……」
でも、不思議と怖くはなかった。むしろちょっと面白くなってきていた。
そう――この“古湯郷”、どうやらそういう世界らしい。
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風呂から上がった俺たちは、脱衣所の隅にあった年季の入った木製の冷蔵ショーケースを覗き込んだ。
「うわっ、見てくださいよ先輩、牛乳瓶……!」
「……昭和かよ。まだ現役だったんだな、こういうの」
中には整然と並べられた、ガラス瓶のフルーツ牛乳とコーヒー牛乳。おまけに瓶の口には昔ながらの紙のフタ。
「はいっ、私はフルーツのほう!」
美月は迷わずピンクのフルーツ牛乳を手に取ると、瓶を指でクイッと回しながら紙のフタを上手に外す。
「くぅ〜、この一瞬が最高なんですよね!」
「どこで練習してんだよ」
「大学のとき、温泉好きの友達と回ってたんです。こういうとこ見つけるとテンション上がって!」
俺はと言えば、迷わずコーヒー牛乳派。手に持つと、ほんのりと冷たい感触が伝わってきて、ちょっとだけ懐かしい気分になった。
「じゃあ――」
「「おつかれさまでした!」」
二人して軽く瓶をカチンと合わせ、一気にグイッと飲み干す。
「ぷはーっ! やっぱり風呂上がりはこれですね!」
「ここのコーヒー牛乳、ちょっと甘めだな。だけど……うん、うまい」
「先輩、顔がゆるんでます」
「そっちだって、にやけてるじゃねーか」
「そりゃもう、こんな温泉と牛乳がセットで出てきたら、笑顔になるしかないですよ」
湯上がりのぽかぽかした空気と、瓶の中の甘さと、どこかレトロな時間の流れ。
――不思議な場所に来てしまったというのに、なぜか俺たちは、心の底からのんびりしていた。
「ねぇ先輩。もうちょっとだけ、ここにいてもいいですか?」
「……そうだな。しゃもじの件は気になるけど、まあ……もう一本ぐらい飲んでもバチは当たらんだろ」
美月がうれしそうに笑った。
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フルーツ牛乳とコーヒー牛乳を飲み終えて、のんびりした空気に包まれていたところへ――
「ごゆっくりできましたか?」
浴場の奥から、白装束の女将がすっと現れた。
「わっ、ぬるっと出てきた……!」
美月が肩をすくめる。女将は気にした様子もなく、にこやかに俺たちに近づいてきた。
「こちら、“湯の印”を持つお二人へ、ささやかではございますが、湯守からのお土産でございます」
そう言って女将が差し出したのは――小ぶりな、黒塗りの木箱。細やかな金模様が施され、やたらと厳重そうな雰囲気。
「……お、お土産ですか」
俺が受け取ろうとすると、美月が横からぐいっと袖を引いた。
「先輩、ダメです、それ開けたらダメなやつかもです!」
「え、なんで」
「だって、これ絶対……玉手箱のやつですよ。開けたら“ふわぁ~”って白煙出て、先輩が老人になっちゃうやつ!」
「ねぇよそんな都合のいい昔話展開」
「でも万が一、万が一そうだったら、私が看取る羽目に……」
「おまえ、どんな想定してんだよ」
俺が呆れてると、女将がくすくすと笑った。
「ご安心くださいな。これは“湯の実”と申しまして、旅の記憶を少しだけ持ち帰るためのもの。中身は、ごく普通の湯玉でございます」
「……湯玉?」
「お風呂に入れると、ほんのひととき、この地の香りと癒しが広がるのです」
「バスボムか」
「ちょっとロマンない言い方しないでください」
美月はひとまず納得したのか、「じゃあ帰ったら一緒に使いましょうね」と言って、俺の手の中の箱をじーっと見つめていた。
だが――俺の頭の中には、別のことがよぎっていた。
「……っていうかさ、美月」
「ん?」
「ジムニー、大丈夫かな」
「え、なんで?」
「エンジン止まったままだし、あんな濃霧の中で、どっか異世界とかに入り込んだっぽいし……下手したら、もう帰れないとか」
「うーん……でも、ジムニーなら大丈夫じゃないですか?」
「根拠は?」
「昭和の名車ですし。なんか、こういう場所に強そう」
「それ、お前の車観ってどこで育ったんだよ……」
不安と期待がないまぜになった俺の横で、美月は箱を抱えてご機嫌そうだ。
「とりあえず、ジムニーのとこ戻ってみましょ。……エンジンかかったら、もう少し走ってみます?」
「そうだな。次は“コケの湯”とか出てくるかもしれんしな」
「やだそれ、ちょっとカエルっぽい!」
ふたりで笑いながら、俺たちは元来た道……いや、たぶん戻れるかわからない道を目指して歩き出した。
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「……戻ってきたな?」
ジムニーのドアを“バタン”と閉めたその瞬間――
濃霧がすうっと晴れていき、視界が一気にクリアになった。
見慣れたアスファルト。見慣れた駐車ライン。見覚えのある建物。
そして、俺の目の前に広がっていたのは――
「どんぐりの湯」の駐車場だった。
「……おいおいおいおいおい」
俺は思わず頭を抱えた。間違いなく、現実の景色。標識も、看板も、車も、普通に平成の世のものである。
助手席では、美月がぽかんとしたあと、にっこり笑って言った。
「どんぐりの湯って……改装してたんですねぇ。知らなかったぁ~」
「するか、江戸時代風に」
「でもあの雰囲気、けっこう良かったですよ? また行きたいな~」
「俺も“行った記憶”はあるけど、“どうやって行ったか”が不明なんだよ……」
俺はハンドルに額を押し当てた。現実だ、間違いなく現実。でも、記憶は確かに“あっち”に行っていた。
……そして、ジムニー。
「とりあえずエンジン……かかるかな」
おそるおそるキーを回す。
キュルキュル……ブオォン!
「よし、かかった……!」
「さすが昭和の名車!」
「もはやお前の中でジムニーは“異世界対応車”扱いなんだな」
エンジンがかかったことにホッとするのも束の間――
俺はダッシュボードの下、見慣れないスイッチ(S-301じゃね)に気づいた。
「……ん?」
そこには、小さな銀色のトグルスイッチ。黒い枠の中に英語でこう書かれていた。
『ON・OFF / YUNO-GATE』
「……美月、お前何か見覚えあるか?」
「うーん、ないです。でもなんか、湯のゲートって、いい響きですね。ぽかぽか感ある!」
「そんなふわっとした感想じゃなくてさ……これ、押したらまた“あっち”に行くスイッチじゃねえのか?」
「わあ、めっちゃ行きたい!」
「軽いなオイ!!」
俺はしばらくそのスイッチを見つめていたが、結局、手は伸ばさなかった。
代わりに、助手席の美月が言った。
「じゃあ次の休み、また温泉行きましょうね、先輩。今度は“こけの湯”とか?」
「やめてくれ、その名前聞くだけでカエル出てきそうなんだって……」
俺は溜息をつきながらエンジンを吹かし、ギアを一速に入れた。
異世界か、幻か、夢か。わからない。だけど――
俺のジムニーには今、**“湯のゲート”**が付いている。
……次は、どこへ行くんだろうな。