病弱な彼を元気にする薬を作ったはずなのに、元気になったのはxxxだった、というよくある話。
※ムーンライトノベルズ公式企画用に書いた作品から、ばっさりとRを削った作品です。
アウロラ・バーンは、紺青の髪を背に流し、騎士団の訓練の様子をぼんやりと眺めていた。侯爵家の娘でありながら、薬師として王宮で働いて二年目。新米薬師に毛の生えた程度ではあるものの、学生時代から安くてうまくて飲みやすい薬を作る薬師として、界隈では名前が知られている。
だから学校を卒業した後は、王宮薬師として薬を作れることに誇りとやりがいを感じているわけだが、ときおり、彼を思い出しては胸を痛める。
その彼とは、騎士団所属のエーギル・イロム。今だって騎士団の訓練に参加しており、アウロラの琥珀色の目は彼の姿を追っていた。彼はイロム侯爵の息子で将来は爵位を継ぐ者。
年はエーギルのほうが一つ上であるものの、父親同士の仲が良く、互いに騎士団所属というのもあって、昔から家族ぐるみの付き合いをしていた。
彼と初めて会った、と記憶しているのはアウロラが四歳のとき。もしかしたら、実は記憶のないもっと前から会っていたのかもしれない。
二人とも父親の影響もあって、幼いころから騎士に憧れを抱いていた。
だからエーギルが十二歳で王都にある学校に入学したとき、彼は迷わず騎士になる道を選んだ。
それから一年後、アウロラも同じ学校に入学し、同じように騎士科を選択した。まだ女性騎士の数は少ないものの、だからこそ求められる場面は多い。
エーギルの母親は騎士団の侍女として働いているが、アウロラの母親は女性騎士だ。
両親共に騎士であるアウロラが、騎士科を選択したのも自然な流れでもあった。
またこの学校は、教育は平等にという理念を掲げているため、身分など関係なく入学できる。王族だろうが貴族だろうが平民だろうが、とにかく実力さえあれば通えるのだ。
それでもやはり、騎士を目指す女性は少ないのが現実である。
「女のくせに剣を手にするのは生意気だ」
騎士科の生徒は圧倒的に男子が多い。そのため、剣術の授業ではそういった言葉をかけられるのは日常茶飯事。
そのたびにアウロラは授業内の模擬試験で相手男子をこてんぱんにやっつけてやるのだが、その結果、暴言がさらに酷くなるという悪循環。
さらに十二歳という年齢は、子どもだったアウロラを一気に女性へと変化させた。
学校に通い始めて二年目、アウロラが十三歳になった年には、訓練中に故意に身体を触られることも多々起こるようになる。もちろん、相手は男子生徒だ。それに対して文句を言えば、訓練中の出来事だとか、自意識過剰だとか、そんなことを言われておしまい。
結局彼らは、一般的に体力や筋力が男性よりも劣る女性に負けたのが悔しいだけ。その悔しさを晴らすために、アウロラに嫌がらせをしてくる。
だがアウロラだってそんな嫌がらせで泣くような女性ではない。
目には目を、歯には歯を、触られたら触り返して、切られたら切り返す。
訓練中に、いやがらせの首謀者のような男子生徒の制服のズボンのベルトをはずしてやった。さらに鈎まではずせば、ズボンはずり落ち、かわいらしい猫の刺繍が施された下着が丸見えとなる。
剣技も身体のしなやかさも、他の生徒に負けないアウロラは、そうやって自分の身を守っていたのだ。
しかし、あれは季節が冬へと向かう頃。アウロラが学校の校舎前を歩いていたとき。
誰かに名前を呼ばれて振り返ろうとしたら、背中を押された。そして、目の前にあった防火用の池に落ちた。場所、時間、季節を考えても事故とは思えない。
慌てて池から上がろうとしたのだが、今は木枯らしも吹く寒い季節。池の水は冷たい。アウロラの身体は寒さのために震え始め、手足の感覚もなくなりつつあって、うまく動けない。
「おまえが謝るなら、助けてやる」
なぜかそこに彼がいた。どうやら、訓練中にズボンを下げられたことを根に持っていたようだ。
猫パンツ男が何か言っている。だけどその言葉が、アウロラにははっきりと聞こえてこなかった。
そのうち猫パンツ男が慌て始める。
どうせならあのとき、かわいらしい猫パンツまでずりおろしてやればよかったと、そう思いながらも意識が途切れた。
気がついたときには、目の前にエーギルの顔があった。池で溺れかけたアウロラをエーギルが助けてくれたのだ。
絹糸のような銀色の髪には池の藻がついており、心配そうにのぞき込む碧眼を目にした瞬間、涙があふれてきた。
その場にいた猫パンツ男は教師らからこっぴどく叱られ、自分のしでかした事の重大さに気がついたのだろう。意識が朦朧としているアウロラに泣きながら謝罪してきた彼だが、今となってはそんなことがあったかもしれないと、ぼんやりとした記憶。
ちなみにこの猫パンツ男が、後の王太子ユリウスである。だから後日、国王夫妻が謝罪しに来たことだけはしっかりと覚えている。となれば、あのとき背中を押したのはユリウスだったのだ。
そしてアウロラは、これをきっかけに転科した。
ユリウスに池に落とされたからではない。寒い季節、池ポチャしたアウロラは、エーギルに助けられた後はぴんぴんとしていた。くしゃみ一つせず元気なもので、両親すらあきれたほど。
しかし、エーギルが酷い風邪を引いた。何日も高熱にうなされ、身体の痛みや酷い咳もあり、浅い眠りと覚醒を繰り返す。
彼が風邪を引いたのは、池に落ちたアウロラを助けたせい。
だからアウロラも時間のあるときは、エーギルの家に行き看病を引き受けた。それでもなかなか彼の熱は下がらない。
このままではエーギルは死んでしまうのではないかとアウロラは不安になり、学校で薬学を専門とする教師ドーランに相談することにした。いや、本当は話を聞いてもらうだけでよかったのだ。
ドーランは見た目も若く、黒髪が似合う妖艶な女性で、話しやすい教師の一人だった。だから話を聞いてもらい、エーギルは必ず元気になるよと、そう言ってもらいたかった。
だがドーランは訪れたアウロラを見てこう言った。
「私の弟子になるなら、その男がたちまち元気になる薬をやるよ。どうやら君は、十年に一人の逸材のようだ。騎士科にいるのは知っているけど、私の弟子にならないか? 私のところなら、歌って踊って剣も使える立派な薬師になれるよ」
歌って踊れなくてもいいが、剣技と薬学の二つを身につけることができたら、これほど心強いものはないだろう。
将来は両親と同じように王宮で働きたいと思っていたアウロラにとっては悪くない話だ。
ドーランの弟子になることを約束したアウロラは、彼女から「たちまち元気になる薬」をもらい、それをエーギルに飲ませたところ、あれほど酷かった熱も咳も身体の痛みもすべて彼の身体から消え去ったらしい。
その後、騎士科から薬学科へと転科したアウロラだが、薬学科に同い年の生徒がいなかった。そもそも薬学科で学んでいる者が少ない。その結果、年齢性別関係なく、ドーランからは薬学の基礎から怪しい薬づくりを学ぶ日々。
身体を動かしたいときは、エーギルが剣技の相手になってくれた。
あれから七年。
アウロラは薬師となり、エーギルは騎士となった。
――カキーン、カキーン。
先ほどから訓練場では、騎士たちが剣を合わせている。アウロラは少し離れた場所からその様子を眺めていた。
――ガッキーン!!
(あっ)
鈍い音が響き、剣が宙を舞う。エーギルの手に握られていたはずの剣は、地面の上に落ちた。
「そこまで」
「ありがとうございました」
剣を合わせていたエーギルは相手に敬意を示し、落ちた剣を拾って退場する。
「ギル」
こちら側にやってくる彼に、アウロラは声をかける。
「大丈夫? ケガ、してない? 咳は出てない?」
「ローラ? どうしてここに?」
「どうしてって。あなたのことが心配だからに決まっているでしょう? つい十日前にも熱を出したばかりだというのに」
池ポチャ事件で酷い風邪を引いたエーギルは、それからというもの、季節の変わり目に体調を崩すようになった。
そのたびにアウロラは薬を届け、飲ませている。
「君の薬のおかげで熱はすぐに下がったから問題ない」
「でも……今だって……」
「今?」
「あなたの手から剣が抜けなければ、勝っていたわ。だって、ギルのほうが押していたもの。もしかして、手に力が入らない?」
エーギルは困ったように目じりを下げた。
「なんだ。バレていたのか」
そう言った彼は右手を握って開いて握って開いてを繰り返す。
「何も問題ない。ただ、相手が厄介だったから、わざとああしただけだ」
そこでアウロラは彼が剣を向けていた相手を思い出す。
エーギルが相手していた彼は、猫パンツ男ことユリウス王太子殿下だった。
彼は学校卒業後、立太子の義を経て王太子となった。さらに騎士団に入団し、国を守るために、騎士として剣をふるうこともあると聞いている。
しかし、アウロラの中では猫パンツ男の印象が強い。
ユリウスも今では悪ガキぶりの面影もなく、貴公子のようなふるまいをしているが、アウロラにとって池ポチャの恨みはまだ残っている。
なによりもエーギルをこのような身体にさせてしまったわけだから。
「本当にごめんなさい」
「ローラは悪くない」
その場を立ち去ろうとするエーギルの背に、アウロラは声をかける。
「そういえば、ギル。セクタ地方に派遣されると聞いたのだけれども……」
地方派遣。王都から数か月離れて地方部に常駐し、そこの治安を守る。
「ああ」
「その……身体のほうは大丈夫? 慣れない場所では熱が出てしまうかも……」
「そのときは君にもらった薬を飲むよ。だから、できれば薬を多めに準備してもらいたい」
「あ、うん。わかったわ……」
そこでアウロラは「あ」と声をあげる。
「ねえ、ギル」
「ん?」
「いつもは熱が出てから薬を飲んでいるでしょう? 熱が出ないようにする薬を作ればいいんじゃないかって思ったのだけれど……ええと、回復薬の一種かしら? 基本的な体力をつけるというか。風邪を引かないような強い身体を作る感じ?」
エーギルは碧眼を大きく見開いた。
「それは……そうかもしれないが……そんなこと、できるのか?」
エーギルだって、薬を飲めば治るとわかっていたとしても、体調を崩して寝込むのは辛いだろう。
「絶対とは言い切れないけれど。わたしだって薬師なわけだし」
そこで彼は目元をやわらげる。
「ローラは立派な薬師だよ。俺たち騎士団の間でも君が作る回復薬は抜群だって評判がいい。いっそのこと、俺が全部飲んでやりたいくらいだ」
「そう言ってもらえるのは嬉しいけれど。回復薬は適用を守らないと……飲みすぎはダメよ。わたしだって本当は騎士としてギルと同じ場所に立ちたかったけれど、今は薬師の仕事も悪くないと思っているの。ギルのためにとっておきの回復薬を作るわね」
エーギルが王都を離れるのは一か月後だと聞いている。それまでに回復薬を改良して、彼には池ポチャ事件前の元気な身体に戻ってもらいたい。
そんなアウロラが相談する相手といえばドーランしかいない。
薬師の中でもトップの彼女は上級薬師とも呼ばれている。学校では子どもたちに薬学の魅力を伝え、一人でも多くの者がこちら側の世界にのめり込むのを願っている彼女。その魅力に取りつかれたアウロラは、ドーランを「師匠」と呼んで慕っていた。
「……というわけなんですよ、師匠。ギルが体調を崩すようになったのはわたしのせいなので」
「なるほどね。病弱な彼氏を元気にする薬ってわけね」
「はい。だけどギルは、昔は本当に丈夫な子だったんです。おば様――ギルのお母様もギルは風邪一つ引かない子だったって。それが、あのとき、わたしを助けたのがきっかけで病弱になって……ギルの両親にも悪いことをしたなって……」
「はいはい。その話は何度もきいている。泣くんじゃないよ」
ドーランがお茶とお菓子をすすめてくれたので、ずびっと鼻をかんでからアウロラはそれに手をつけた。
「……もぐ、もぐ……。で、師匠。そういう薬ってありまふかね?」
お茶とお菓子をお腹に詰め込んだアウロラは、ふぅと一息ついた。
「回復薬というよりは体力増強薬みたいなものね……う~ん」
ドーランは立ち上がり、本棚に向かって歩き出す。本棚にはさまざまな文字のさまざまな装丁の本が乱雑に並べてあり、アウロラにはどれがどこにあるのかさっぱりわからない。
だというのにドーランは迷うことなく一冊の本を手にした。
「これかな?」
お菓子をどけて、ドーランはテーブルの上で本を開いて見せた。
表紙も背表紙もしっかりとしており、分厚い。古い本なのか、ところどころかすれていたり、シミになっていたりする。
「二百年ほど前のものなんだけれど……。私も一度は作ってみたいと思っていた秘薬なんだよね」
「秘薬?」
「一般的に出回っていない薬を、私がそう呼んでいる」
なるほど、とアウロラは頷く。
「材料は……」
ドーランが読み上げるのをアウロラも隣で聞きながら、メモをする。
「師匠。ここ、ちょっと読み取りにくくありません?」
「そうね。古い本から仕方ない。だけど、イクリ……ン……前後の文字から推測するに、イクリニンの実だろう。これは果実酒などにも使われるからね。なんにでも使える薬草だ」
ドーランと二人でああでもないこうでもないと本の内容を解読し、なんとか秘薬作りに必要な材料と作り方を把握できた。
幸いなことに、材料はすべてドーランが管理している薬草園にあるものと、調薬室の鍵付き保管庫に保管されているもので間に合いそうだ。
となれば、あとは作るだけ。
作るとなればアウロラは時間を忘れて集中してしまう。それは食事も睡眠も忘れてしまうほど。それを監視しているのがドーランでもある。
また、アウロラは学校を卒業してから家を出てこの調薬室に住んでいるため、アウロラの命を握っているのがドーランだと言っても過言ではない。
アウロラが調薬室に住むようになったのも、そこに寝泊まりできるような部屋がいくつか備え付けてあり、その部屋を目にした彼女は「ここで暮らせるのでは?」と思ってしまったからだ。そのため、本当に住んでいる。
まだ学生だったときは家と学校を往復していたわけだが、それすら時間の無駄だと感じるようになっていた。
だからこそドーランからは「十年に一人の逸材」と言われたくらいなのだ。
ちなみに他の薬師は毎日きちんと自宅に戻っている(ただし、夜間の研究が必要なときを除いて)。
そのため調薬室に住んでいるのはアウロラとドーランの二人のみ。女性同士だし、個室を使っているし、ここでの生活に不便はない。
「ええと……あと必要なのはイクリニンの実」
アウロラはエーギル用の体力増強薬を作るため、薬草園に足を向けた。
両親と同じ騎士になりたくて学校に入学したというのに、よもや薬草園で薬草を育て、採取しているとは思ってもいなかった。
薬草園の管理もドーランの仕事であるが、彼女はなんでも無作為に育てる傾向がある。だから、たまに相性の悪い薬草が近くに植えられていて、悪臭を放っている時もあり、そういった場合はアウロラが植えなおす。
ドーランからすればまさに優秀で気が利く弟子なのだ。寝食を忘れるといった点では、少々手のかかる弟子ではあるが。
「こんなところにいたのか、アウロラ・バーン」
学校を卒業してからというもの、アウロラをフルネームで呼ぶ人物など一人しかいない。
「ご機嫌うるわしゅうございます、ユリウス王太子殿下」
アウロラは薬草と薬草を入れるための籠を手にしていたため両手がふさがっていた。それでも足を引いてスカートの裾をつまむような仕草をしてみせる。
だが、なぜかユリウスが顔をしかめた。
アウロラとしては、ユリウスは心の中では悪態をつきたくなる相手ではあるものの、立場が立場なだけに敬意を見せたつもりなのだ。しかし、籠と薬草を持っていたままではよくなかったのだろうか。
「おまえ。さっき訓練場に顔を出していたよな?」
午前中に騎士団で行われた模擬戦のことを言っているのだろう。エーギルの様子が気になって、こっそりと見学していたのだが、まさかユリウスにまで気づかれるとは。
「なぜ私に声をかけない」
「え?」
「私の試合を見ていたのだろう?」
「それは……」
ユリウスではなくエーギルを見ていたのだ。
「殿下のご迷惑になるかと思いまして……」
彼を盛りたてておく言葉をかけておけば問題ない。
本音は「さっさと帰れ」と言いたいところだが、アウロラだって大人になった。彼が王太子で、自分はしがない薬師だとわきまえている。
学校入学したてのように、ズボンをずり下げてやろうとかは思っていない。と言いたいところだが、池ポチャを根にもっているので、いつかはみんなの前でずり下げてやろうと思っている。
そう思いつつも、なんとなく心の底から憎めない。それは時間が経ったからなのか、自分も大人になったからなのか。
「まあ、いい。それよりも、先日も茶会の招待状を送ったというのに、来てくれなかったな」
「申し訳ありません。家族が体調を崩してしまい、わたしだけ茶会にいけるような状況ではありませんでした」
「なるほど。エーギルだな? 彼はおまえの家族なのか? ちがうだろ?」
できるだけユリウスの気分を損ねないようにと、アウロラも言葉を選ぶ。
「エーギルはわたしにとって兄のような存在ですから、家族も同然です」
「兄であれば、しかたないな」
ユリウスが納得したようで、アウロラは安堵の息を吐く。
「だが、兄であればおまえとは結婚できない。そうだろ?」
「ですから、兄のような存在だと……いえ、なんでもありません」
これ以上何かを言えば、いら立ちのあまり、我を忘れそうになる。アウロラはぐっと耐えた。
「それで、ユリウス王太子殿下は、このような泥臭い場所までいったいどのようなご用件でしょうか? 急ぎ薬草が必要になりましたか? ですがここにある薬草はそのまま使用できるものではありません。殿下が使用できるように煎じますから、どうぞ、調薬室へおいでください。師のドーランもおりますので、殿下にあった薬を煎じることができるかと」
「ドーランに用はない。おまえに用がある」
そう言ってユリウスは一通の封書を差し出した。
「再来月に行われる、私の誕生日パーティーの招待状だ。おまえの両親に聞いても、おまえは家に帰ってこないと言うし。だからといって調薬室宛てに送れば、他の者に知られてしまうだろう?」
見るからに招待状といった、立派で繊細な封書だ。しかも、王家の封印付き。
「本物ですか?」
受け取る前に、じとっと彼を見上げる。
「な、なんだ。疑っているのか」
「まぁ、殿下のことですから……今までも散々、わたしのことをいじめてきたでしょう? あのとき、池に落とされたことは忘れておりませんし、あのせいでエーギルも体調を崩しやすくなったのです」
「そ、それは……あのときも、謝ったと思うが……本当に悪かったと思っている……だから、あれ以降は……」
その言葉のとおり、池ポチャ事件以降、ユリウスが直接手を出すようなことはなくなった。だが、こうやってちょくちょくとアウロラに声をかけてきて、困った様子を見せれば喜んでいるのだ。
手を出さなくなった分、口を出すようになった。そんな感じである。
「偽物だと思うなら、そう思っていてくれてもいい。だが、それに間に合うようにドレスは贈る。その日には迎えもやる」
「えっ?」
と言ったつもりだが、「げっ」と聞こえたかもしれない。
「殿下からのドレスも迎えも、わたしには分不相応です」
「だが、去年。おまえはドレスがないからという理由で私の誘いを断っただろう?」
「あ」
それは昨年のユリウスの十九歳の誕生日パーティーのことを言っているのだ。
今と同じように、彼から招待された。招待状をもらったのがパーティーの十日前、しかも新薬の研究がノリにのっているときで、ユリウスの誕生日パーティーには、ぶっちゃけ参加したくなかった。
だから「王太子殿下の誕生日パーティーに出席できるようなドレスを持ち合わせておりませんので」とかなんとか、適当な言い訳をしたような気がする。
彼はそのことを覚えていたのだ。だから招待状もこんなに早くもってきたに違いない。
「ドレスは家で準備しますし、迎えは誰かに付き添ってもらいますから、不要です」
「いい、気にするな。私がそうしたいんだ。パーティーは二か月後。そのときであれば、エーギルはもう、ここにはいないだろう?」
まるでエーギルの不在を喜んでいるような言い方に、ピンとくるものがあった。
「もしかして……ギルがセクタ地方に派遣されるのは、殿下のせいなのですか?」
「まさか。騎士団において、私にはそんな権限はないよ。まだまだ私も下っ端だからね」
それでも不気味にニタリと笑った顔を見れば、ユリウスも絡んでいるのではと思えてくる。
「だが、いつも邪魔してくるあいつがいなくなれば、私にとっても好都合だな……」
そうやって余計な一言を口にして、アウロラに脅しをかけた。
「では、パーティーを楽しみにしている」
アウロラは招待状を受け取ってはいない。左手に薬草の入った籠、右手には採取した薬草を持っているため、受け取れる状況ではなかった。
ユリウスはその招待状を、アウロラの前掛けのポケット部分にぐいぐいと押し込んでいったのだ。
「は? 何よ、あれ……」
心の中で呟いたつもりであったのに、驚きのあまり声に出ていたらしい。
その後、草むしりもしつつ必要な薬草を採取する。
すべてを終えたアウロラは、調薬室へと戻った。
「薬草が見つからなかったのかい?」
不機嫌なアウロラを見て、ドーランはそう思ったようだ。
「薬草は全部ありました。ですが、ちょっと……」
薬草園にユリウスがやって来たことをドーランに伝えるべきかどうか悩んだ。だが、ユリウスとのことはアウロラ個人の問題であり、ドーランは関係ない。
「いえ、問題ありません。わざわざ師匠の手を煩わせる問題ではないと判断しました」
「アウロラのそういう真面目なところは評価できるが、真面目すぎるが故、視野が狭くなっている。もう少し、物事を客観的に見るようにしたほうがいいな」
それはアウロラも自覚している。騎士科にいたせいか、どうしても周りに負けたくない思いが強く、物事に集中しすぎてしまうのだ。それが寝食を忘れるにつながるのだが、ドーランがこうやって適宜助言を与えてくれるため、アウロラもなんとか生きている。
ドーランがいなければ、それを成し遂げたときには燃え尽きて、寝不足と栄養失調でぶっ倒れているかもしれない。
「今日はこんな時間だからね。材料を確認したら、明日から早速始めよう」
アウロラとしては今すぐにでも取り掛かりたいところだが、ドーランがそう言うのであればそれに従う。
「さて、と。今日の夕飯は何にしようかな~。ほら、一緒に食堂にいくよ」
調薬室に住んでいるドーランとアウロラの食事は、王城関係者が使用する食堂を利用する。だから食事には困らない。定期的にドーランがアウロラに声をかけて、食堂へと連れていってくれる。そうしないと、アウロラは食事を抜く。そしてふらふらになってドーランに注意されるというのを、幾度も繰り返している。
「今日は、アレですね。激辛スープを飲みたい気分です」
「アウロラがそんなことを言うのは珍しいな」
アウロラとしては先ほどのユリウスとの出来事がくすぶっていて、激辛スープを飲んですべてを燃えつくしたい気分だった。
††‡‡††
「できた~」
アウロラは両手をあげてそう叫ぶと、ドーランも「どれどれ」と様子を見にきた。
「見た目はこの本のとおりだが……効果はいかほどか」
にやっと笑うドーランを見れば、その効果が重要だと言いたいのはよくわかる。
「では、わたしが先に飲んで効果を試してみます」
「いや、それでは効果がわからないな。ここを確認しなかったのかい?」
ドーランが広げてあった本のページの下部を指で示す。
「ええと……『この薬は、男性にしか効果がない』って、ああ、なるほど。そうなんですね? てことは、わたしが飲んでも何も変化が起きなければいいというわけでは?」
「まぁ、そういう考え方もあるかもしれないね」
ドーランは苦笑する。
「やっぱりわたしが味見をします。まずい薬よりもおいしい薬のほうがいいですよね」
「ははははは……相変わらずだね」
「師匠も味見します?」
瓶に詰めたゲル状の薬を、アウロラはスプーンですくって一口食べる。
「う~ん、美味しいです。ジャムみたい」
別のスプーンでもう一口すくって、それをドーランに手渡した。
「うん。味はいいね。いつも思うけれど、アウロラの作る薬は味がいい」
だから安くてうまくて飲みやすい薬をつくる薬師として、一部の人間からは重宝されている。
「それって褒めてます? 味はいいけど効果はないとか、思っていません?」
なぜかアウロラは卑屈になっていた。
「思ってない思ってない。前から言っているだろう? アウロラは十年に一人の逸材なんだ。よかったよ、早いうちにこっちに引っ張ってくることができて。将来のこの部屋の主はアウロラだからね」
すでに主化しているアウロラだが、やはり尊敬するドーランからそのようなことを言われてしまえば、嬉しいものだ。
自然と顔がほころんで、ふふふふふ……と不気味な声をあげたくらい。
「これで、エーギルの体調がよくなればいいのだけれども……」
「そうだね。だが、自信を持ちなさい。アウロラは誰よりもおいしくて、効能の高い薬を作れる」
ドーランがははっと笑って、アウロラの背中をばんばんと叩いた。
師匠にも認めてもらったのであれば、この薬も間違いはないだろう。
アウロラは早速エーギルに連絡をいれた。だが、薬が完成したからってその辺でほいほいと飲んでもらうのも危険である。
男性にしか効果がない薬。アウロラとドーランも飲んではみたけれど、なんの反応もなかった。ただ甘くておいしいジャムといった感じだ。
だからできればエーギルの休みの日に飲んでもらって、副作用がないかどうかを確認したい。そこで何もなければ、今後は定期的に飲んでもらえばいい。
それを彼に伝えたところ、三日後であればちょうど休みだから都合がよいと言っていた。
三日後が休みであれば、二日後の夜にどうだとアウロラは提案する。もし副作用が出たとしても、次の日が一日休みであれば対処できると考えたからだ。もちろんエーギルは断らない。
アウロラは、二日後の夜はエーギルの家に行くとドーランに伝えた。調薬室に住んでいるため、部屋を空けるときはドーランに連絡することにしている。それは彼女に余計な心配をかけないように。
ちなみにドーランが夜間に出かけることはない。だからといって誰かを連れ込んでいる様子もない。
そんなわけで薬が完成してから二日後。アウロラはエーギルの家を訪れた。正確にはエーギルが家に帰る前にアウロラの部屋によって、アウロラを連れて帰った。
エーギルが体調を崩すたびに訪れている彼の家は、勝手知ったる第二の我が家のようなもの。
「あれ? おじ様とおば様は?」
「父さんも母さんも泊まり」
両親共に現役。もちろん、アウロラの両親もまだ騎士として務めているため、泊りがけだったり遠征だったりというのも多々ある。
幼いときは、アウロラも両親が不在のときはエーギルの家へ行ったり、またその逆もあったりとよくしたものだ。
「夕食は? まだだろ? ドーラン先生から聞いている。アウロラはよく食事を抜くって」
エーギルは学生時代の名残もあり、ドーランを先生と呼ぶ。
「食事を抜いているわけじゃないの。食事を忘れちゃうだけ」
「だからドーラン先生が近くにいて助かるわけだ。アウロラは一人では暮らしてはいけない人間だな」
「どういうこと?」
「だれかがいないと食事をしない」
反論できないため悔しい。
だが夢中になると食事どころではない。その気持ちもわかってほしいと言ったのに、エーギルからは「わからない」と一蹴された。
アウロラはそのまま夕食をごちそうになった。イロム侯爵家の屋敷の料理人の腕もよく、また幼い頃から何度もアウロラが遊びに来ているため、アウロラの好物まで覚えている。
お腹もいっぱいになり、あとは薬を飲むだけとなった。
何かあっても困るため、すぐにエーギルが休めるようにと彼の部屋へと向かう。
「アウロラには隣の部屋、用意してある」
それもいつものこと。エーギルの両親にはエーギルしか子がいないため、アウロラを娘のようにかわいがってくれている。それも互いの両親の仲がよいというのも関係しているのだろう。
幾度となく入ったことのあるエーギルの部屋。
「ギル。これが元気になる薬。師匠は体力増強薬みたいなものって言っていたけれど」
ソファに座るやいなや、アウロラは例の薬をテーブルの上に置いた。
「瓶詰のベリーのジャムみたいな感じだから、飲みやすいと思うわ」
エーギルが隣に座り、ソファが沈む。
「なるほど。見た目もそれほど奇抜ではないし、ジャムだと思えばいくらでもいけそうだ」
「だから、薬は一度にたくさん飲めばいいというものではないわ。適量を守って。これは、一日三回、食後にスプーン一口よ」
瓶の蓋を開けたエーギルは、スプーンを用意するのが面倒だったのか、そのまま指を突っ込んですくった。
「また、おいしそうなにおいだな」
鼻先に近づけてからぺろりと舐めとる。そのしぐさが妙な色香をまとっており、アウロラは柄にもなくとぎまぎしてしまう。
「どう? その薬、男性にしか効果がないみたいで……わたしも師匠も試しに飲んではみたけれど、おいしいってだけで終わっちゃった」
「うん。味は悪くない。これなら毎日続けられる」
「よかった。これで問題なかったら、明日は剣の稽古、つけてね」
「そうだな。今までこの薬を作るために不健康な生活を送っていたんだろ? まぁ、食事くらいはとっていたみたいだが」
エーギルはアウロラのことをよくわかっている。たいてい新薬をつくりはじめると、アウロラは引きこもる。あれだけ騎士になりたくて、訓練に励んでいたのが嘘ではないかと思えるくらい。
そして薬ができると、やっと出てくるのだ。だが、引きこもっていたとしても、エーギルが熱を出したとなればまた別。調薬室にある薬を小脇に抱えて駆けつける。
池ポチャ事件から七年近く経とうとしているが、その間、熱を出しては苦しむエーギルの姿を見るのは胸が痛んだ。
「ギル、今まで本当にごめんね」
これでエーギルが元気になると思うと、感慨深いものがある。目頭が熱くなった。
「別に、ローラのせいではないだろ? すべてはあいつが悪いんだから」
あいつとはもちろんユリウスのことだ。
「そうね。でも、あの後は少しおとなしくなったみたいだし……」
「当たり前だ。下手すりゃ、溺死したかもしれない」
そう言ったエーギルからは怒りがにじみ出ている。
「あ、そういえばそのユリウス殿下からなんだけど……」
「あいつに敬称なんてつける必要はない。それに今はここにあいつはいない」
そう言われても、あまりユリウスに対してなんだかんだと文句をつけられるような行動は慎みたい。たとえ本人が、その場にいないとしても。
「それは……ギルが同じ騎士団の人間で、対等な立場にいられるからよ。わたしは変に緊張するから、できるだけあのお方とはお付き合いしたくないし……。だけどね、招待状をもらってしまったの。どうしよう? 気が重い……」
「招待状?」
エーギルは怪訝そうに碧眼を細めた。
「うん。殿下の二十歳の誕生日パーティー」
さらに眉間にしわが刻まれる。
「それって、いつ? 確かあいつの誕生日は……?」
「うん、二か月後。ギルが地方に行っていていないときね。ドレスも準備するっていうし、迎えも寄越すとまで言われたら、逃げられないわよね。一応、自分で準備するから問題ないとは言ったんだけど……」
「ふ~ん?」
そこでエーギルは席を立つ。
「ギル?」
「風呂、確認してくる。ローラ、先に入ったら?」
「あ、うん。そうね、ありがとう」
エーギルは指示通りの量の薬を飲んだ。今のところ、副作用などはみられない。
だからエーギルにも言われたように風呂に入ってさっぱりすることにした。
(エーギルには前のように元気になってもらわないと。薬の効果があるといいな)
そんな上々気分で汗を流した。
アウロラが風呂からあがってネグリジェに着替えた。さらにガウンを羽織ったところでエーギルを呼びにいく。
少しだけエーギルの顔が火照っているように見えたが、「心配するほどじゃないから」と言った彼は、浴室へと向かった。
眠る前にカードゲームでもしようかという話もしていたので、アウロラはお菓子とお茶の用意をして彼の部屋で待っていた。カードの数字を見て瞬時に判断し取り合うゲームは、騎士団の訓練の一つなのだとか。
「あ、ギル。待ってたよ。用意、しておいた」
風呂を終えたエーギルが部屋に戻ってきたため、アウロラはそう声をかけた。薄いシャツにズボンと、いかにも寝ますといった格好だ。しかし、エーギルの様子がどこかおかしい。
「……ギル?」
「水、あるか?」
「あ、うん」
すぐに水の用意をする。グラスに注いだ水を、エーギルに手渡した。
「どうしたの? 顔が赤いみたいだけど、のぼせた?」
グラスを受け取ったエーギルは、水を一気に飲み干した。
「はぁ……そうかもしれない」
エーギルがどさっとソファに倒れ込む。
「……ローラ。さっきの薬だが……」
「もしかして、副作用が出た? 合わないとのぼせとか動悸があるって、本には書いてあったのだけれど……」
「まぁ、のぼせ、動悸……あるかもしれない……」
「え? じゃ、今日は安静にしないと。ほら、ベッドにいって。わたし、薬を用意してくるから」
「待て」
エーギルがアウロラの手首を掴んだ。
「ローラ。この薬……体力増強薬みたいなものだと言っていたよな?」
「え、えぇ。師匠にエーギル元気にする薬がないかって相談したの……病弱な男性を元気にする薬だって。それで探してもらったのだけれど……」
「なるほど……そういう意味では……間違ってはいないか……」
エーギルの視線が彼の下腹部を見やった。アウロラも釣られてそこを見る。
「あっ……」
見るからに大きくなって、窮屈そうに布の下に隠れているものがある。
「もしかして、これがあの薬の副作用? ちょっと待ってて、資料をとってくる」
アウロラは急いで部屋へ行き、薬を作ったときの資料を手にして戻って来た。
その間も、エーギルは苦しそうに息を荒くしていた。
「ごめんなさい、ギル」
アウロラは急いでページをめくる。
今回の薬は、ドーランに言わせれば秘薬と呼ばれ、一般的には出回っていないもの。ドーランですら作ったことのない二百年前によく使われた薬だ。
薬の作り方が書かれていた本は、ところどころ文字がかすれ、汚れて読めないところもあったが、ドーランの知見によってなんとか解読した。ただ、男性にしか効果がないというのは、アウロラの完全な見落としだった。
そういった内容を、アウロラは独自にまとめている。研究ノートと呼んでいるものだ。
参考となる資料は膨大な数になる。それらを毎回持ち歩くことはできない。そのために、必要なところを抜粋してまとめているもの。
「ええと……副作用はどんなものがあったかしら?」
病気にかかりやすい人を元気にする薬。男性向け。
材料、作り方、効能、副作用、その他の注意事項、参考文献といった形でつらつらと文字が並べてあった。
効能は『体力を徐々に高める』。だが、アウロラの目は重度な副作用の項目で止まった。重度な副作用には『体力が一気に高まる』と書かれている。
(どどどどど……どうしよう)
もしかして、エーギルには副作用が強く出てしまったのではないだろうか。少しずつのはずが一気に高まった。
(でも、一気に高まったからって、あ、あんなことになる?)
チラリと彼に視線を向けてみれば、ふぅふぅと辛そうに熱い呼吸をしている。
「ギ、ギル。とりあえず、ベッドで横になりましょう。身体が辛いでしょ?」
エーギルもその言葉に頷き、よろよろとしながらベッドまで歩いて、そのまま仰向けに倒れ込んだ。
さて、困った。
研究ノートに何か書かれていないかを確認すると、次のページには自分の字ではない字で書かれている文章が目に入った。
――一気に高まった場合は、発散させるべし。
意味がわからない。いや、なんとなくそういったことをすればいいだろうというのはわかる。だが、なぜこのページにそのようなことが書かれているのかがわからない。そしてこの字はドーランのものだ。
(もしかして師匠。こうなることを予想していた? 副作用が起こるかもしれないと? さすが師匠だわ……)
ベッドの上で苦しそうにしているエーギルの姿を見るのは、アウロラにとっても胸が裂ける思い。
冷たくした手巾を彼の額にのせてみるが、それで彼の熱が冷めるわけがない。
「あの……ギル。多分、それがさっきの薬の副作用みたい。師匠のメモによると、発散させるしかないってあって……だから、ほら。わたしがいたら邪魔だろうから……わたし、部屋に戻るね……何か、あったら、その……」
アウロラがその場を離れようとしたとき、ガシッとエーギルに手を掴まれた。
「ローラ……一人にしないでくれ……。いつも俺が熱を出したときは、側にいてくれただろう?」
「うっ……」
彼のほうが年上なのに、こうやって弱った姿を見せられたら、アウロラの中の母性本能が刺激される。
「で、でも……その……あ~発散しないと、いけないみたいだし。わたしがいたら、ギルも好きにできないでしょ?」
「だったら手伝ってくれ……」
潤んだ碧眼でそのようなことを言われてしまえば、アウロラの胸は鷲づかみにされる。
ただでさえ、彼が病気にかかりやすい体質であることを後ろめたく思っている。それを治そうとした薬による副作用。
どれもこれもアウロラのせい。
そう思っているところに、捨てられた子犬のような瞳で訴えられたら、ダメと言えるわけがない。
アウロラは完全に堕ちた。
††‡‡††
ドーランが本を片手に薬草を混ぜ合わせていたところ、珍しい客人が現れた。
「なんだ、エーギルじゃないか。アウロラは薬草園にいるよ」
「ええ、わかっています」
月光を思わせるような銀色の髪に、碧玉の瞳。騎士団に所属し、鍛えられた身体はがっしりとしつつもすらっとしており、野性味の中に憂いがある。
騎士団の若手騎士の中でも、ユリウス王太子と人気を二分していると聞いているが、そんな彼は幼馴染の女性に夢中だ。
「こちら、いつもの薬の必要経費と……御礼です」
「おお。これは、あの有名な菓子店。妖精の羽根の幻のパイじゃないか。一日限定五個。早朝に並ばないと手に入らないという……」
ドーランはこう見えても甘いお菓子に目がない。国内のありとあらゆる菓子店の菓子を調べ、そこに向かう者がいれば買ってくるようにと頼んでいる。
ドーランの菓子好きはエーギルの母親も知っており、珍しいお菓子が手に入るとドーランにおすそ分けをしてくれるのだ。それだけ侯爵家はドーランに治療薬で世話になっている。表面上は。
「ドーラン先生……今回の薬は、俺の指示じゃないですよね?」
「ああ、あれね。単純に間違えたのさ。参考にした本が古くてね。ところどころ読めなくて、私が補間して読んでみたが……。どうやら、材料の一つを間違えたみたいだね」
ははっと笑ってはみたものの、それはエーギルが元気にこの場に立っているのが理由である。さすがに体調を崩し、寝込んでいるようであれば、すぐに対処法を考えていただろう。
「まあ。それならいいのですが……あれは、体力増強薬というよりは、性的興奮剤ですね」
「なるほど……材料を一つ間違えたら、元気になるのがあっちになったってわけね。副作用が効果になった……。まぁ、よくあることだ」
アウロラから副作用が強く出たとは聞いており、ドーランはもう一度作り方を確認した。さらに、他の薬草学の本まで取り出してきて、調べた。
その結果、薬草イクリニンだと思って読んでいたところが薬草イクリコンだったというオチである。どちらも似たような薬草であるため、人が摂取しても害はないが、それによって本来の薬の効果が失われてしまったのだろう。念のため、副作用が出たときの対処法は教えたつもりだ。
「アウロラは何も言わなかったが……彼女は無事だったのかな?」
「さあ? それはご想像におまかせしますが……」
「なるほど」
つまり彼女は無事ではなかったのだ。ドーランの前では何事もなかったかのようにふるまってはいるが。
そしてその彼女は今、正しい薬を作るために薬草をとりにいっているところだった。
「そうそう。今後は、あのいつもの薬は不要になったということだけお伝えにきました」
「あの薬……あれは、薬というよりは毒薬だからね。飲んだら熱が出る」
「えぇ……俺が熱を出せば、アウロラが慌てて看病にきてくれますから」
ドーランはなんとも言えずに、笑みを浮かべてごまかした。
「アホ太子が、未だにしつこくアウロラを誘っているみたいでしてね」
「だから彼女が彼に誘われたと聞いたら、毒薬を飲んで熱を出していたと」
ユリウスがアウロラに好意を寄せていることは、誰が見てもわかる。それに気づいていないのはアウロラ本人くらいだろう。
アウロラがユリウスを苦手としているのは、彼に池に落とされたからだと聞いているが、あれだって事故のようなもの。
ユリウスがアウロラに声をかけようとした瞬間、足がひっかかって転びそうになったところ、アウロラの背を押してしまった。というのを、他から聞いていた。
その当時からユリウスは彼女が気になっていて、何かとちょっかいを出しては気を引こうとしていたようだが、もちろん鈍いアウロラはそれすらわかっていない。
ユリウスも子どもだった。彼はいまだにその辺については疎いというか。
とにかく見ているこっちのほうがいじらしいと感じる。ユリウスのアウロラへの気持ちはすれ違ってばかり。いや、空回りだ。
「そうです。ですが、もう、アウロラは俺のものになりましたので」
麗しい顔に浮かぶ笑みは、天使のほほえみというよりは悪魔の嘲笑。
「そうかいそうかい。私はアウロラが誰とくっつこうが気にしないよ」
「そうですか? 王太子妃になっては、彼女は好きに薬作りなんてできないでしょう? 彼女が好きなことを続けていくためにも、俺と一緒になったほうが幸せなんですよ。だけど、俺としては彼女が作った薬を他の男が飲むのが許せないのですがね。まぁ、そこまで制限してしまうと彼女も悲しみますから、俺が我慢しています」
そういうことをさらりと言ってのけるのが恐ろしい。
もしかしたらアウロラ本人のことを考えたら、ユリウスと結ばれるほうがよかったのかもしれない。
そう思ってしまうくらい、エーギルの腹の中は真っ黒だ。
「なるほどね。だけど、当事者が幸せだと思っているなら、私からは何も言わないよ」
「ええ。ドーラン先生はそういう方ですから。ただ、一つだけお願いがありましてね」
「君のお願いは嫌な予感しかしないな……」
それでもこうやって貴重なお菓子を手に入れてくれるのだから、無視もできない。結局ドーランも自身のエゴのために動いている。
「いいえ、何も難しいことではありませんよ。俺も約半年間、セクタ地区に派遣されるのですが、それに同伴する薬師としてアウロラを望みたいな、と」
「そうきたか」
「彼女を一人にするわけにはいかないでしょう? アホ太子が誕生日パーティーの招待状を送ったようですし。今までは俺がここにいたから、俺が熱さえ出せばよかったのですが……」
そう言葉を発する彼の唇が、異様なほど艶めかしい。
「俺がここにいない。となれば、アウロラを連れていくしかありません」
「なるほどね。考えておくよ」
「ドーラン先生の考えておく。それは肯定の意味だとわかっていますから」
そう言ってエーギルは部屋を出て行った。
アウロラはかわいい愛弟子。師としては彼女の幸せを願い、そしてこの国を支える立派な薬師になってもらいたいのだが。
面倒な男に好かれたもんだな。
そう心の中で思ってみるものの、アウロラ本人がエーギルを望んでいるのなら、第三者が口をはさむものでもない。
ドーランは、薬草の調合を再開させた。
春短編テーマ:ふたりのすれ違い
ぽんこつモブ男のすれ違う恋をテーマに書いてみました。