蓮 ー時間旅行者ー
800年前の種子から発芽した「中尊寺蓮」の話を、「種子は旅行者である」という観点から書いたものです。短いです。
種子は、旅行者だ。
例えば、柳や蒲公英ならば、綿毛のついた種子で風に乗り、新天地へと旅立つ。
樹上の蘭は、埃のように細かい種子が風に吹かれて、再び新たな樹上にたどり着く。
椋の木は、その甘い実が鳥に食べられることで、鳥の翼を借りて遠くへと飛んでゆく。
菫や片栗は、蟻の好物を種につけることで、蟻に運ばれてゆく。
自ら動くことの出来ない草木は、こうして空間を旅するのだ。
ところが蓮の実は、熟せば種子がぽとり落ち、足元の泥の中に潜るだけだ。空間を旅する手段を持っていない。それでも、蓮の実は旅をする。
空間ではなく、時間を旅するのである。
蓮が生える湖沼は、山や川などに比べると、寿命の短い環境だ。
湖沼に流れ込む土砂や、そこに生える植物の遺骸などが少しずつ堆積し、やがて湖沼は浅くなり、ついには陸地に変化してしまう。だから、そこに生えている水草は、そうなる前にどこかへ行かなければならない。
だが、蓮などの多くの水草は、深く休眠する種子を作り、湖沼の底に沈ませる。そう、どこへも行かないのだ。
湖沼はもともと水が集まる地形にできる。だから、川の蛇行の変化や浸食、堰き止めなど、様々な理由で、長い年月の後、再び湖沼になる可能性は決して低くない。
そこで、蓮などの水草は、長い寿命と深い休眠をもつ種子をその場に残し、湖沼が陸地になってからも土の中で耐え忍び、再び湖沼になる時代を待つ。
つまり、時間を旅することで、未来に子孫を残すのだ。
◇
八百年ほど前、陸奥国のとある池で、春、蓮の種子が芽生えた。池のかいぼりを行った翌年のことであった。
蓮の根からではなく、種から芽生えるのは何十年ぶりになるのだろう。蓮は水底から芽を伸ばし、やがて水面に小さな丸い葉を浮かべた。
やがて夏になると、蓮は大きくなり、水面から立ち上がって、空中に大きな葉を広げはじめた。
蓮は成長を続け、やがて秋になって、葉を枯らして冬を迎えた。
その翌年の夏、蓮は花を咲かせた。その花は大きく、濃い紅色で、他の蓮とは明らかに違う美しいものだった。
ある僧がその花に目を止め、蓮の根を掘り、寺の庭の池に植えてその特別な美しい花を愛でた。
その美しい蓮の花は、寺の庭の池で育ち、やがて再び実を結んだ。
◇
「泰衡様が戻ってこられた。」
寺の僧たちが騒ぎ始める。奥州藤原氏の、その最後の当主泰衡は、源頼朝に追われて平泉から逃れ、比内の郎党を頼ったが、そこで裏切りに遭い討ち取られた。その首だけが焼け落ちた平泉に戻されて、いまこの寺に届いたのだった。
僧侶たちは、泰衡の首を黒い漆塗りの首桶に入れ、その父・秀衡の棺の傍らに納めた。首桶の中には、その魂を慰めるため、また極楽往生を願うため、寺に咲く、あの美しい蓮の実が入れられた。
◇
ここは水底の泥の中ではない。
何か、乾いた箱の中だ。
寺の僧に実からとり出され、何かと一緒にこの箱の中に納められたのだ。
一緒に納められた、その何かとは、人の首であった。
よく見れば、その首は傷だらけであった。鼻と耳は削ぎ落され、顔には幾つもの刀傷が刻まれていた。額には大きな穴が開いていた。
私を見つけ、拾い上げて育ててくれたのは人だ。その心優しいはずの人が、同じ人に対して、何故このような惨い真似ができるのだろう。私には分からぬ。
いずれにせよ、何の運命のいたずらか、私は再び池の水底へ還ることは出来なかった。ここで長い刻をかけてゆっくりと乾き、死んで朽ちて行くのだろう。
それはもう仕方のないことだ。それならば、誰かは知らぬが、せめてこの哀れな首の慰めとなろう。
蓮の実は、そのまま長い眠りについた。
………………
水の声が聴こえた。
その声は、「目覚めよ」と私に告げていた。
私は生きていた。箱の中で朽ちていたのではなかった。
突然、種皮の中は水で満たされた。そして、その水はゆっくりと、本当にゆっくりと、体の中へと沁みこんでいった。
私は目覚めた。
◇
「発芽しています!」
とある大学の研究室で、ある朝、歓喜の声が上がった。
寺に納められていた首桶が学術調査のために開けられ、その中から蓮の種子が見つかった。その蓮の種子が、この研究室に託されて、発芽実験が試みられたのだ。
過去には、二千年前のものとされる蓮の種子の発芽に成功した例があり、この首桶の蓮の種子も、まだ生きていて発芽するのではないかと思われたのだ。
そして、一度の失敗の後、再び試みられた発芽試験で、蓮の種子は八百年ぶりに芽を出したのである。
◇
芽を出した蓮は、小さな池に植えられて育てられた。
蓮は少しずつ成長し、やがてある年の夏、蕾をつけた。
蕾は成長し、葉の高さを少し超えるところまで伸びたある朝、ゆっくりと開花しはじめた。
史実に照らすならば、種子が首桶に納められてから、八百十年が経っていた。
私は、再び池に戻ってきた。
最初に芽生えた池とも、拾われて育てられた池とも違う。だが、またこうして成長することができた。
一度は諦めた命は、運命のいたずらにより永らえた。
そして、今日ここで、再び花を咲かせることが出来たのだ。
葉の上に、花は咲かねばならぬ。
花は開き、光と風とを知らねばならぬ。
知恵の訪いを待たねばならぬ。
その日、八百年ぶりに開いた蓮の花に、花蜂が訪れた。