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芥川龍之介『羅生門』の構造

はじめに

 『羅生門』は、「下人の行方は、誰も知らない。」という有名な表現で終わります。その裏で、実は老婆のその後もまた「誰も知らない」状態(闇の中)に取り残されていることは、この作品の対称的な構造を表します。


「その後」が隠される構造

 ふたりの「その後」が隠される構造には、以下のような意味が読み取れます。


1.シンメトリー構造…非対称から対称へ

 物語の終盤、二人の状況は極端に分かれます。

・下人…老婆から衣服を奪い、それを抱えて、羅生門の階段を「夜の底へ」駆け下りる

・老婆…衣服を剥ぎ取られ、死体の間に倒れたあと、はっていって門の下をのぞきこむ

 芥川はどちらのキャラクターの未来も読者に明かしません。下人が闇に消えたのと同じように、老婆もまた語り手の視界から消え去ります。誰からも顧みられない存在になるという意味で、二人の運命は等しく夜の闇に回収されています。


2. 「羅生門」という空間自体が持つブラックボックス性

 この物語において羅生門は、日常の法律や道徳が通用しない異界であり、死とつながっています。そこに迷い混んだ下人と老婆は、(この老婆も、女の死骸から髪を抜くという目的でここにいました)、「生存のための悪の肯定」という呪いのような論理を交わしました。そして、その儀式が終わると、ふたりは等しく「誰も知らない」という忘却の彼方へと消えていきます。


3. 現実社会の冷酷さの反映

 芥川が依拠した『今昔物語集』などの説話の世界では、一般的に因果応報が語られることが多いのですが、芥川があえてふたりとも「その後は誰も知らない」形にしたのは、現実の貧困や極限状態においては、奪う者(下人)も奪われる者(老婆)も、困難な社会状況に埋没し、誰にも知られず消えていく存在にすぎないという、徹底した冷徹なリアリズム(現実主義)の表れとも言えます。つまり、意気揚々と走り去る下人も、裸で後に残された老婆も、実はそれほど変わりがないのです。ふたりが下層から浮かぶ瀬はないのです。

 ふたりの行方が完全に「誰も知らない」闇に消えるというこの構造を踏まえると、『羅生門』という作品全体の余韻がよりいっそう不気味で深いものに感じられるでしょう。


 この後の老婆は、これまでと同じように生きていくしかありません。そもそも彼女が置かれた状況や高齢は、劇的な変化・変位を不可能にします。老婆は周りの死骸から着物を剥ぎ取り、それを身に付け、ふたたび死体から髪を抜くという存在であり続けるでしょう。


 そう考えてくると、下人が老婆を殺さなかったことは意図的だったとも言えます。命だけ・までは取らないでおいたのです。これは一方で、下人の悪はこの時まだ完全・完成されたものではなかったことを表します。


「高齢が劇的な変化を不可能にする」という視点と、「下人の悪はまだ完成されていない」という視点

このふたつの視点は、ふたりの関係性に新しい補助線を引いてくれます。


1. 老婆の抜け出せなさと「高齢」という属性

 老婆にはここから「盗人として都に飛び出す」ような、動的な選択肢・劇的な変位はありません。彼女にできるのは、奪われた衣服を再現するために、這いつくばって再び周囲の死体から衣服をはぎ取り、女の髪を抜き集めることだけです。ここでは「高齢」という要素が、変化を拒む決定的な要素・条件となります。老婆は羅生門という地獄のシステムに組み込まれ、生きるためには永遠にそこから抜け出せない歯車なのです。


2. 「殺さなかった」という下人の不完全な悪

 下人は老婆の命までは奪いませんでした。下人が口封じのために老婆を斬り殺すことは容易だったはずです。しかし、下人は衣服を剥ぎ取って蹴り倒しただけでした。

 これは、下人が老婆の「悪の論理(生きるために行う悪は許される)」に100%乗ったからこそ、「生きるために必要な衣服」だけを奪い、「生きるために不要な殺生」は踏みとどまった、という悪のグラデーション(不完全さ)を示しているとも言えます。彼の悪はまだ「生存のための防衛手段・緊急避難」の域を出ておらず、「完全なる悪」には至っていません。


3. 下人はなぜ老婆の「命」を残したのか(意図の二面性)

 下人が老婆を生かしたことには、もう一つの残酷な側面も含みます。

・甘さとしての不完全さ…まだ人殺しになる度胸まではないという、下人の市民的倫理の残り香。

・構造としての残酷さ…命だけを残された老婆は、今後も死体を搾取し続ける生き地獄に縛り付けられる。下人は老婆を、羅生門という地獄に置き去りにした。


未完成の悪

 以上のように、「下人の悪はまだ完成していない」という視点は、物語の見え方を一変させます。

 当初の末尾の、「下人は、すでに、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急ぎつつあった。」(悪の完成・固定化)から、「下人の行方は、誰も知らない。」(悪の未完成・流動性)への改稿・書き換えは、刻々と心情が変化するのが下人の特性であり、だからこの後も下人の心情は変わり続けると予想されます。従って、高校の授業で生徒の感想が二分されるように、この後の下人が善人に回帰するという未来予測も可能です。

 「既に」「強盗を働きに急ぎつつあった」と断定してしまうと、下人のアイデンティティは「悪」の枠組みで完全にロックされてしまいます。しかし、「誰も知らない」という余白にしたからこそ、下人の本質である「流動性(グラデーション)」が最後まで維持されることになるからです。そのことは、ここに至るまでの下人の心情変化のサイクルを振り返ると理解できるでしょう。

(私の『羅生門』のマガジンもご覧ください)


1. 羅生門での下人の目まぐるしい心情変化

 下人はわずかな時間の間に、次々に感情を反転させました。

1.思考停止・途方に暮れる(雨や飢えへの絶望)

2.正義感・激しい憎悪(死体の髪を抜く老婆への怒り)

3.冷ややかな侮蔑・優位(老婆の言い訳を聞く冷淡さ)

4.悪への勇気・引剥ぎの実行(生存のための悪の肯定)

 これほど刻々と心情が変化する人間が、悪の論理を獲得し、門を一歩飛び出したからといって、そのまま「純度100%の極悪な盗人」として固定されると考える方が、むしろ不自然です。


2. 「善人への回帰」という未来予測の妥当性

 従って、「善人への回帰」という予測は十分に成り立ちます。

 下人が老婆から衣服を奪ったのは、老婆の論理(生きるために仕方がない)に一時的に強く感化され、興奮状態(「悪への勇気」)にあったからです。

 しかし、夜の冷たい雨の中に飛び出し、頭が冷え、奪った着物の重みを感じたとき、彼は再び「激しい自己嫌悪」や「良心の呵責」に襲われる可能性がゼロではありません。彼の中にある市民的な倫理観は、老婆の命を奪わなかった(=完全な悪にはなれなかった)ことからも分かるように、まだ完全に死滅してはいないからです。


3. アポリア(難問)を残すための改稿

 芥川が結末を書き換えたことで、この作品は「ひとりの男が堕落した話」から、「環境と状況によって善悪の境界線を激しく揺れ動く、人間の不確かさを描いた話」へと変移しました。下人の流動的な内面に注目したことで、物語の結末が単なる突き放しではなく、人間に残された変化の可能性(善への回帰も含めた)を示すためのオープンエンディングとして立ち上がってきます。


近代知識人の苦悩と、大正初期という時代

下人の流動的で激しく揺れ動く内面は、まさに作者である芥川龍之介自身が抱えていた近代知識人の苦悩と、大正初期という時代の空気を色濃く反映しています。

 芥川が平安時代の古典を借りてこの作品を執筆した1915年(大正4年)という時代背景と知識人の不安を考察します。


1. 理性と野生のあいだで揺れる知識人の自己像

 下人は最初、道徳的な正義感から老婆を「激しく憎悪」しますが、最後にはエゴイズム(利己主義)に負けて衣服を奪います。これは、西洋の高度な思想や倫理(理性)を学びながらも、いざ極限状態になれば生きるための醜い生存本能(野生)に振り回されてしまう、大正期のインテリ(知識人)が抱いていた「人間の不確かさ」への不信感そのものです。自分たちは高尚な倫理を語っているが、一歩間違えればただの獣になるのではないかという不安が、下人の激しい心理変化に投影されています。


2. 「明治の終焉」による価値観の崩壊と閉塞感

 『羅生門』の冒頭では、地震や飢饉によって都が徹底的に荒廃し、仏像を打ち砕いて薪にするという古い価値観の崩壊が描かれています。現実の1910年代の日本もまた、明治天皇の崩御や幸徳秋水事件などを経て、それまで国家が信じていた明治の理想が失われ、社会に強い閉塞感が漂っていました。頼るべき絶対的な正義(主人)を失い、雨の羅生門で途方に暮れる下人の姿は、これからの日本はどこへ向かうのかという方向性を見失った大正知識人たちの精神的迷子状態とシンクロしています。


3. 自然主義への反発と「終わらない内省」

 当時の文壇では、人間の暗黒面をそのまま生々しく描く自然主義が流行していました。芥川は、その泥臭いだけの描写に馴染めず、理性的・知的に人間を解剖しようとしました。その結果生まれたのが、下人の心理を冷たく実況するあの「語り手の視点」です。しかし、理屈(老婆の論理)で悪を正当化したはずの下人が、その後、善人に回帰するかもしれないという流動性を残した点に、理屈だけでは割り切れない人間の複雑さに生涯悩み続けた芥川の内省(考え続ける苦悩)が表れています。


 芥川が結末を「誰も知らない。」に変えたのは、彼自身が、人間とは時代や環境によって善にも悪にも転び続ける、答えの出ない存在(アポリア)であると確信していたからだと言えます。


まとめ

1. 羅生門という「静止した地獄」のシステム

 老婆の本質は極限の困窮であり、その「高齢」という属性は、環境に対する劇的な変化や変位がもはや不可能な状態であることを意味しています。衣服を奪われた老婆は、この後も生きるために死体の髪を抜き、死骸から衣服を奪うという行為を繰り返すしかありません。羅生門とは、社会的弱者がさらなる弱者を搾取し続ける、円環的な地獄のシステムなのです。


2. 下人が残した「命」=未完成の悪のグラデーション

 下人は老婆を圧倒し、その衣服を奪い去りますが、老婆の「命」までは奪いませんでした。口封じを考えれば殺害する方が合理的であるにもかかわらず、彼は暴力をそこで踏みとどめました。

 これは、下人の悪がこの時点でまだ完成されておらず、市民的倫理の残り香を宿した未完成で不完全なものであったことを示しています。彼は老婆の「生きるために悪は仕方がない」という防衛的エゴイズムの論理に一時的に強く感化され、興奮状態(悪への勇気)の勢いで引剥ぎを働いたにすぎないのです。


3. 「誰も知らない」=流動的な内面が暗示する善への回帰

 芥川龍之介が結末を、「既に」「強盗を働きに急ぎつつあった」から、「下人の行方は、誰も知らない」へと書き換えた真意も、ここにあります。下人の最大の特徴は、絶望、憎悪、侮蔑、そして悪への勇気へと、刻一刻と心情を激しく変化させる流動性そのものです。門を飛び出し、京都の冷たい夜の闇に包まれ、頭が冷えたとき、彼は自らが犯した罪の重みと、奪った着物の生々しい感触に激しい自己嫌悪を抱いたとも考えられます。

 「誰も知らない」という余白は、彼が単なる極悪人として固定化されなかったことを意味します。激しく揺れ動く近代知識人の苦悩を宿した下人は、衣服を奪ったその手で、再び善人へと回帰するというもう一つの未来への可能性(グラデーション)を、闇の中に残しています。


 以上のように『羅生門』は、従来の、一人の男がエゴイズムに目覚めて悪に染まる話ではなく、人間の善悪の境界線は常に流動的であり、極限状態の過ちの後にもなお、善へと回帰する可能性(人間の不確かさと希望)を残した話という解釈も可能なのです。


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