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「羅生門」1~冒頭34文字の創造性について

或日(あるひ)の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待つてゐた。」


いつ…或日(あるひ)の暮方

誰…一人の下人

どこ…羅生門の下

何を…雨やみを待つてゐた


冒頭のわずか34文字で、物語の舞台設定が過不足なく示される。聞き手は、舞台の情報理解に、多少のせっぱ詰まった忙しさ・息苦しさを感じるとともに、その簡潔明瞭な説明に、やや気圧(けお)される。とても頭のいい人の話を聞いている緊張感に、作品冒頭から身構える。

この冒頭部を読むたびにいつも私は、何か理由のわからないものに圧倒・圧迫されるような、妙な心持ちになる。そうして、それはなぜなのだろうと、いつも思う。

簡潔過ぎるのだ。


もちろん、「羅生門」冒頭は、説話の冒頭の決まり文句である、「今は昔、○○ありけり」に倣っている。文学の流れにある、説話の型にはまっているのだ。


この後にも物語世界の説明が続き、それもやはり簡潔なのだが、適切で、変な言い方だが、文句のつけようがない。舞台上の照明、音響、大道具、小道具、空気、匂い、すべて完璧なのだ。それゆえ、かえって観客は緊張させられる。あまりに整った顔つきの人を見た時の不安。まるでマンションのモデルルームに入った時のような緊張と違和感。それらを、いきなり感じさせられる切迫感のようなもの。

なんなんだろう、これは。いかにもありそうで、でも、整い過ぎている。

完璧への恍惚と完璧過ぎることへの不安。そのふたつを同時に感じ・体験させられるのが、「羅生門」の冒頭だ。


冒頭部をもう一度見ていきたい。「いつ」というのは、時代や時間の設定。「或日(あるひ)の暮方」は、時代、季節が朧化(ろうか)されており、聞き手の想像に任される。この舞台はいつの時代の何月ぐらいの話なのだろうかと考えながら、この後の話を辿(たど)ることになる。これは、普遍性も獲得できる始まり方だ。朧化は、普遍化、一般化の効果を持つ。

それに対して、時間は「暮れ方」と提示され、何時かはまだはっきりとは分からないが、夜へと向かう時間帯だと理解できる。あたりは次第に暗くなっていく。闇に生きるものたちの時間がやってくる。


「誰」というのは、登場人物・主人公のことだ。「下人」がその人。現代の読者には、古い時代を感じさせる表現。

そしてこれには、「一人の」という限定が付いている。下人はたったひとり、登場する。この、下人はたった一人であることは、この後何度も繰り返される。それについては、後述する。

他に登場人物がいないので、観客の視線は、この男に集中することになる。


「どこ」というのは、話の舞台・場所。「羅生門」の、その「下」だ。

「下人」も「羅生門」も、現代の読者にはなじみがない語なので、検索をかけることになるだろう。教科書には、注や図が資料として付されるが、一般の読者には、この後もその作業は続く。(もしくは無視するか)

下人はたったひとり、羅生門の下で何をしているのだろう?


その答えが、続く、「雨やみを待つてゐた」になる。これが、「何を」にあたる。

読者の舞台のイメージは、こうして次第に整ってくる。

頭の中のステージに、まず、夕暮れの照明が射し、そこには下人がたった一人。次にステージ上には大きな羅生門が浮かび上がり、その下に下人を配置する。彼は、雨が止むのを待っているようだ。雨が降るからには、夕暮れの照明もそれに合うように変えねばならぬ。

雨音が客席に響いてくる。雨は、羅生門の屋根を、柱を、地面を打ち、そうしてここに駆け込むまでの下人を打っていた。下人の体は雨に濡れている。

いつの間にか我々は、夕暮れの湿った雨の匂いまで、感じているだろう。

雨宿りであるからには、彼は、どこからか来て、何処へかに去る存在だ。物語を読み進め、最終場面に至るとその答えが得られる構造になっており、この物語の精密さを、その時読者は改めて感じさせられる。


この冒頭部をもし演劇にするとしたら、私なら次のようにする。

暗転で始まり、遠くから雨音が聞こえて来る。それはやがて大きくなり、それと同時に、次第に夕暮れの照明が暗く入る。羅生門は雨に濡れている。

雨よけ代わりに上着で頭を覆った下人が、門の下に駆け込む。

彼は服や髪に付いた(しずく)を手で払い、外の様子をうかがう。

雨は止みそうにない。

やがて下人は石段の上に腰を下ろし、止まない雨を見上げる。

雨音は相変わらず続いている。

下人は遠くを眺めたまま。


ここまででは、下人は「なぜ」そこにいて、雨が止んだら「どのように」するのかが、まだ描かれていない。だから、観客の関心は、そこに移るだろう。5W1Hの、

「なぜ」と、「どのように」が、まだ示されていないのだ。


このように、この物語は、冒頭から、構造自体が息が詰まるように精密に作られている。だから読者は、不安になるのだ。この緊張感は何なのだろう。この、夜へと向かう物語は、どこへ向かい、どのように終息するのだろう、と。

作者はそこまで計算して、物語を作っている。精密機械は見た目に美しいが、人の感情や温かみに欠ける。それらを作者はどのようにこの物語に盛り込むのか。それがうまく成功するのか。そこにも読者の興味はそそられる。精密ゆえの違和感を抱きつつ、この物語の世界を旅する。


読者・観客が初めに抱かされた不安や緊張は、結局最後まで維持・継続させられ、物語が終わって緞帳が降りた・本を閉じた後まで余韻として残る体験をさせられる。「させられる」という表現が適切なほどの強い力を持ち、我々に迫ってくる物語が、「羅生門」だ。


繰り返しになるが、冒頭のわずか34文字が、以上説明したほどの情報量と創造性を持つ「羅生門」。芥川龍之介、恐るべし。

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