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アレンの山

作者: スダ ミツル

「待ってー!その電車!」

私はバックパックをゆすって、必死に走る。

一時間に一本の、ローカルな単線の電車を追いかける。

山登り好きに人気のエリアを走るこの電車は、

ゆっくりと発車したところだった。

私はホームを走り、

最後尾のデッキの手すりをつかみ、

何とかタラップに飛び乗った。

「ふう。」

ドアを押し開けて中に入る。

すると、

車両の中は、まるでアパートの部屋のようになっていて、

女の子が一人いた。

短い黒髪のその子は着替え中で、

びっくりして慌ててセーターを抱えた。

「ええ!?ごめんなさい!!」

私はあわてて回れ右して、ドアを開けて出ようとする。けれど、

「危ない!開けないで!」

引き止められた。

私は彼女に背中を向けたまま、

ゆっくりと両手をあげて見せる。

「あ、怪しいものじゃないから!急いで乗ったら、あなたがいて……!

あ、あの、もしかしてあなた、この車両に泊まっているの??」

この路線の社長は、昔から魅力的なアイデアをお持ちだったから、寝台列車を始めたのかもしれない。

あれ、でも、この路線は往復しても半日しかかからない……。

他の路線に乗り入れてるわけでもないし……ん?

不思議に思っていると、女の子は、

「私、この部屋に泊まってるんじゃなくて、住んでいるんです。」

と言った。

「え!?」

驚いて振り返った。

「あ、ごめんなさい!」

彼女はまだ下着姿……。

「住んでる??」

すると、彼女はくすくす笑い始める。

「あの、手を降ろしてください。荷物も重そうです。降ろしてください。」

「あ、ああ。ありがとう。」

私は、大きなバックパックを降ろす。

彼女は、まだくすくす笑っている。

「後ろ向きだと、お話ししづらいので、こっち向いてください。」

と言われたので、私は彼女のほうを向く。

彼女は色白で、きれいな足をしていて、見とれてしまいそう。

窓の外の景色を見るようにする。私は言う。

「あのー、住んでるっていうのは……」

「はい、この列車の、この車両だけ、アパートなんです。」

「え!」

彼女の眼を見る。

「私は、このアパートを借りて住んでいるんです。」

と、微笑んだ。

「へえー!」

なんて素敵!

すると彼女は、私をじっと見て、

「あなたは魔力持ちの人なんですね。

私、そこのドアに鍵をかけておいたんですよ。」

「え!」

私は振り返る。ドアに閂がかかっている。

「あらー、私、鍵ごと開けて閉めちゃったんだ―……。」

もじゃもじゃの髪をかく。

「ほんとごめんなさい、私、せっかちで時々あるの。

やらかしちゃうんだよね。まったく悪気はないんだけど……。」

肩をすくめ、お手上げのポーズをする。

彼女はくすくす笑っている。

「あれ、それ、どうしたの?」

私は彼女の左側の腰を指さす。

「ショーツが破けてるっていうか、切れてるように見えるけど……。」

チャコールグレーのシンプルなショーツのウエストに、切れ込みが入っていて、腸骨のあたりが見えている。

彼女は恥ずかしそうに、抱えているセーターで隠す。

「こ、これは、少しサイズが小さかったから、はさみで……」

「自分で切ったの?」

彼女は困ったようにうなずく。

「うーん、ワールド!ていうか、アーティストね―!自分の着てる服を切るなんて!」

彼女は、下唇を噛んで困り笑いしている。

「私も真似しようかな。

でも、私のショーツ、レオパード柄だからワイルドすぎちゃう!」

ターザンの物まねをしたら、彼女は噴き出した。

「あ、早く服を着ないとね!ごめんね!」

と、横を向く。私は目に留まったものを指さして言う。

「ねえ、そのイーゼルの絵、見せてもらってもいい?」

この部屋には、たくさんのキャンバスが壁に立てかけてある。

この子は画家らしい。

「描き途中の絵ってすごく興味あるの。」

「どうぞ。」

私は絵に近づく。

「カラフル……。抽象画?」

「はい。」

「きれい……!」

お豆のような色とりどりの形が、上の方に浮かんでいる。

「油絵の具の発色とか、筆跡とか、私大好きなの。

でも自分じゃさっぱり描けなくて。

特に抽象画を描く人ってすごく尊敬する!

絵を描けるって、本当憧れる……!」

半分だけ彼女のほうを向いて言う。

「ねえ、電車が走ってるときにも描いてるの?」

「そうです。」

「え、描きづらくないの?」

「初めは描きづらかったですけど、今は……

電車の揺れるリズムがそのまま筆跡になって、絵になっていくんです。」

「へえ!この、ちょっと震えてるとことか、電車の振動なわけ?」

「そうです。」

彼女は着替え終わって、私の隣へやってきた。

グリーンのアンサンブルと、グレーのチェック柄のスラックスを着ている。

私は彼女を見て、ほほ笑んで言う。

「ねえ、あなたの名前を知りたいな。私はアレン。アレン・ゴードン。」

「私はミーシャです。ミーシャ・カロマン。」

「ミーシャ!いい名前ね!」

と、私は手を差し出し、彼女と握手する。

「ありがとう。アレンさん。」

「アレンって呼んで!ねえ、どうしてここに住んでるのか、聞いてもいい?」

「はい。この鉄道の社長さんが、私の絵を気に入ってくださって、毎月絵を差し上げる約束で、一年間、この車両を自由に使って構わないとおっしゃってくれたんです。

ここに住んで半年になります。」

「わあ、素敵!へえー!住み心地はどう?」

「快適ですし、楽しいですよ。」

「この電車って、前から住める電車だったのかな?

知らなかった。私、電車に住んでる人に会うの、初めて!」

私は興奮してて、興味津々で、質問攻めにしてしまいそう。

「もっとミーシャのお話を聞きたいけど、忙しいよね?」

彼女は楽しそうに笑う。

「ふふ。いいえ。ちょうど食堂車にランチを食べに行こうとしていたところです。

一緒に食べに行きませんか?」

私はうれしくて、大げさな身振りで指をパチンと鳴らす。

「私も腹ペコ!朝、山小屋を出てから、ずっと歩きどおしだったから!」





山々と森の間を、電車が走る。

最後尾のアパートの部屋に、私とミーシャはいる。

昨日私は、この部屋に泊めてもらった。

楽しくてワクワクして……でも、ぐっすり眠れた。

この部屋は、なんだかとても、心地いい。

ミーシャは今、絵の具だらけのデニムシャツとジーパンを着て、絵を描いている。

私はベッドに胡坐をかいて、マップを広げて登山ルートを考えている。

手帳と呼ばれている、小型モバイルでも、検索する。

ミーシャは集中してるみたいだから、私は黙っている。

んー、このガイドはこう言ってるけど……私はこっちに挑戦したいな。

一日でここからこの小屋まで……ん?

微かに歌が聞こえた気がした。

電車の走る音でほとんどかき消されているけれど、

ミーシャが歌を口ずさんでいる。

何の曲かな。

本当に、何してても絵になる子だな。

少しだけ開けてある窓から、ごくたまに、紅葉した葉っぱが舞い込んでくる。

山の木々は、

美しく紅葉した葉を

キラキラと降らせている。

電車は、

色とりどりの落ち葉を舞い上げながら、

快調に走っている。

ミーシャの持つパレットの絵の具が、

つややかに光る。

絵筆も、彼女の鼻筋も、

つややかに光る。

私は微笑んで、深く息をする。

そしてまた、

マップに目を落とし、登山ルートの続きを考える……。





私が食堂車にいると、彼がやってきた。

「マーシャルさん!」

彼は私に手をあげてほほ笑んだ。

「ミーシャ!元気そうだね!」

「ええ、元気ですよ。」

「今日はストーブを持ってきたんだ。朝晩冷えてきたからね。」

「ありがとうございます。

社長さん自ら運んでいらしたんですか。」

「ローカルな鉄道だからね。社長だってなんでもやるさ。今、部屋に入っても大丈夫?」

私は今、紅茶を飲みながら本を読んでいるところだった。なぜかというと……

「今、友人が中で昼寝していて……。」

「それはよかった! 半年の間、だれもたずねて来ないようだったから心配してたんだ。」

やさしい目を細めた。

確かにずっと一人だった。ご心配をおかけして、申し訳なかったな……。

「すみません、そろそろ起きるころだと思うので、様子見てきます。」

「起こさなくていいよ。僕もお茶を飲むよ。」

「でも、ちょっと見てきますね。」

音が立たないように鍵を開けて、そっと部屋に入ると、アレンはベッドに起き上がっていた。

伸びをしてから私に微笑んだ。

「よく寝たー!ありがとうミーシャ、疲れが取れたよ!」

三日かけて山々を歩いたらしい。

「アレン、お客様がいらしたんだけど、入ってもらってもいい?」

「ヒュウ、大変!服を着なくちゃ!」

身軽にベッドを下りた彼女は、Tシャツとレオパード柄のショーツ姿。

足にはあざがある。岩場を上ったらしいから……

「どんな人?お客様って。」

「この部屋を貸してくださっている方よ。」

彼女は目を丸くして、

「魔法でドレスアップしなくちゃ!」

バックパックからブラシを取り出して熱心に髪をとかし始めた。


「よいせ!」

と、力持ちのマーシャルさんが、ストーブを運んでくれた。

板張りの床には、一か所だけ金属プレートがはまっていて、そこにストーブを置いてくれた。

排気のパイプを天井の小さな煙突にセットする。

「これで良し。燃料は駅の待合室のをもらってきて使って。」

私は、最近仕上げた絵を、みんな彼に見せた。

「いいね!これも素敵だ!」

たくさん褒めてくれた。帰り際に、彼は言った。

「今度、我が家のディナーにおいでよ!お友達も一緒に!」

「わ、ありがとうございます!」

マーシャルさんは、終点の駅で降りた。

私とアレンは、窓から手を振った。





「そうだ、登山のお守りに、ここに何かマークを書いてよ!」

と、私は自分の頬を指さす。

「その絵の具でいいから。」

「……。」

「?」

ミーシャは棒立ちになって何も言わない。

「あ、いやならいいから!」

と、私は両手を振る。ミーシャはあわてて首を横に振る。

「あの、この油絵具だと、すぐに乾かないから髪の毛や服についちゃうし、そのまま固まったら取れなくなるの。」

と、スーツケースを開いて何かを探し始めた。

「別に取れなくなってもかまわないよ。」

ちょっと悪かったかなと思いながら、後ろで見ていると、彼女はスーツケースから何かを取り出した。

パステルの箱だ。

机に紙を置いて、ピンクのパステルを少し折って、瓶の底でゴリゴリと砕く。

それを絵皿に移し、化粧水と乳液を垂らして指で混ぜる。

「なるほどね!」

細くて柔らかい絵筆に、手作りの絵の具を取って、私の頬にマークを描いてくれた。

「できた。」

私は壁の鏡を見に行く。

「わー!キュート!」

生き生きと走るシカの絵が描いてあった。

「ありがとう!鹿みたいに元気に山を駆け回ってくるわ!こんなに細い足じゃないけどね!」

私は感激してミーシャをハグした。

「ふふ、気を付けて行ってきて、アレン!」

嬉しそうに笑って送り出してくれた。





ディナーの後、

マーシャルさんが近づいてきて、こっそり私に言った。

「アレン、君は、ゴードン財団のご令嬢。そうでしょう?」

私は、内心ギクッとしてミーシャのほうをうかがう。 

彼女は、マーシャルさんの奥さんと、隣の部屋で楽しそうに話している。

私は彼に笑顔で言う。

「ええ、そうよ。どうしてわかったんですか?」

「こないだ行ったパーティーに君がいた。ネイビーのドレス、よく似合っていたよ。」

「フーム……私って目立たない顔立ちだし、パーティーでは特にわざとシックな装いをして、おしとやかにしてるのに……、よくわかりましたね。」

「偶然ね。」

と、彼は肩をすくめてみせる。

「あの……ミーシャには話さないでほしいんですけど。」

「わかった。」

微笑んでうなずいてくれた。

私はほっとする。

「私はね、ただの人になりたいと思ってるんです。小さいころから財団のお嬢様で、だから、私は私でパイオニアになりたいの。ミーシャみたいに。

でもね、経営と株取引のセンスしか持ってないんですよねー……。」

私はミーシャのほうを見る。

「ミーシャがとってもまぶしい。自分の足で走ってる。私は彼女をもっと応援したいんだけど、どうしたらいいのか、わからなくて……ずっと考えてるんですけど……。」

「きっといい方法が見つかるよ。」

「ありがとう。私、不安なんです。もし彼女が私の出自を知って、今までと何かが違ってしまったら……それが、怖い。」

「アレン、ミーシャはアレンのことが大好きだから大丈夫さ。」

「だといいんですけど……。」



ゴードン財団のアレン嬢。

皆がそういう目で私を見る。

私じゃなくて、親と、財団を見る。

どうして!?私を見て!

そう言いたくてもがくのだけど、私が何をしても、何を頑張っても、財団の存在が大きすぎて、負けてしまう。

私には何のとりえもなくて……、高校の時、とうとうすべてが、どうでもよくなってしまった。

味方がいない。誰も私の気持ちを汲んでくれない……。

私が自由な自分になれるのは、山だけだった。

私は……まずは力をつけないといけない。

そうしないと乗り越えられない。

自在に動けない、と思った。

だから、財団に就職して、仕事をして、メンバーの一人という立ち場を自分になじませた。

力はついたし、仕事に詳しくなった。

責任ある仕事を任されている。

でも、進んで取り組みたいと思える仕事じゃない……。

私は、自分のやりたいことが、いまだにわからずにいる……。

将来が楽しみ……優秀……才能がある……

飽きるほど聞かされてきたそんな言葉は、中途半端な私をなだめる恩情だとわかってる。

私は、ここにいたくているわけじゃない。

でも、どうしたらいいのか、わからない……。

ずっと息苦しかった。

ミーシャ。

自由で、いつも楽しそうに絵を描いているミーシャ。

私も、ミーシャのようになりたい……。





終着駅の、広いホーム。

いくつもの路線が、この駅を通っている。

高いガラスの天井に反響して、人々が行き来する足音や声が、車内まで聞こえてくる。

私の部屋のドアがノックされた。

「はい。」

開けると、荷物運びをしている男の子が、小包みを手渡してくれた。

「ミーシャさんにお届け物です!」

明るい子で、よく私にあいさつしてくれる。

「ありがとう。今日もたくさんの荷物ね。がんばって!」

彼の引いているカートは満載。

「はい! ミーシャさんも、絵―頑張ってください!」

と、絵筆を動かすしぐさをする。

「ありがとう。」

アナウンスが流れ、私の住んでいる電車がもうすぐ発車すると言っている。

荷運びの男の子は、帽子を振って、発車を見送ってくれた。

窓を開けて、顔を出して、私も手を振った。

駅から遠ざかり、私は窓を閉める。

彼が届けてくれた小包をよく見た。

「あ!アレンからだ!」

紐を解き、包み紙を開く……。





「社長、ミーシャさんが探していらっしゃったので、客間にお通ししておきました。

なんだか不安そうでしたよ。」

「わかった、今行く。」

ミーシャが?どうしたんだろう。

僕は客間のドアを開ける。

「やあ、待たせてすまなかったね。」

と、中へ入り、ドアを閉じた。

「マーシャルさん!」

彼女は駆け寄ってきた。

「私、身近に相談できる人が、マーシャルさんしかいなくて、どうしたらいいのかわからなくて、」

「うん、頼ってくれてありがとう。まずは座って。お茶を入れるから。」

彼女の肩をたたいて、キャスターに向かう。

「ダージリンとカモミール、どっちがいい?」

「カモミールで。」

「OK!」

「……あの、アレンから、贈り物が来たんです。」

「へえ、彼女が帰ってから一週間ぐらい?よかったじゃないか。」

僕は紙コップにティーバッグと湯を入れて、テーブルに運ぶ。

「はい、でも、混乱してしまって……。」

テーブルに、箱が置いてある。

「これを送ってくれたの?中を見てもいい?」

「はい、どうぞ。」

ノートパソコンくらいの大きさの上質な木箱。

ふたに金文字でロゴが書いてある。知らないブランドだ。

留め金をはずし、ふたを開ける。

中には、色とりどりのチョークのようなものが、上品に並んでいる。

「これは……」

「パステルです。」

「へえ、これが。すごくきれいだね!」

二段になっていて、階段状に開いている。

これがパステルか……。本当に美しい。

「まるで宝石みたい……」

彼女が何を悩んでいるのかが、わかった。

「ミーシャ、もしかして、これはとても高価なものなんじゃないか?」

「そうです。学生のころ、画材屋さんで、見とれるだけで買えなかったものです。

この三分の一のサイズで、そのころの二か月分の食費と同じ値段でした。」

「……。」

「今でも、とても手が届きません。そんな高価なもの、私、いただいたことがなくて……

どうしたら……。」

「アレンが、高価な贈り物をしたために、お金に困ってしまうんじゃないかって心配なんだね?」

「ええ、はい、そうです。すごくうれしいんですけど、自分を大切にしてほしいって伝えたくて……」

「うん。そうだね。でも、その心配はいらないと思うよ。」

僕はカモミールティーを一口飲む。

「え。」

「ミーシャ、アレンは、自分の職業をなんて言ってた?」

「パソコンで、何でも屋みたいなことをしてるって言ってました。」

僕はポケットから手帳を取り出して、とあるホームページから、一枚の写真を探し出してミーシャに見せた。

アレンが上品なスーツを着てほほ笑んでいる。

「え……」

「アレンはね、ゴードンファミリーの一人娘なんだよ。

僕は知ってたんだけど、アレンに口止めされてたんだ。ミーシャには言わないでほしいって。」

「……。」

「親が家業で手広く商売してて有名だと、いろいろ言うやつもいるんだよね。

ごまをするやつもいるし、離れていく人もいる。

こんな小さな鉄道会社の社長でもね。」

僕は肩をすくめる。

「アレンはゴードン財団の一人娘だ。

親しくなった人にそのことを打ち明けるのは、勇気がいるだろう。

ミーシャ、アレンは君にとても感謝していたし、大好きだから、何かプレゼントしたいと言っていた。

でも、この先友達を続けて、いつか自分のことをミーシャが知った時、なんて思われるのか怖いって。」

ミーシャは、ぽろぽろと涙をこぼした。

「アレンは、アレンなのに……!何も怖がらなくていいのに……!」

ミーシャは何度も首を横に振る。

両手で顔を覆う。

僕はティッシュの箱を取ってきて彼女の前に置いた。

「ありがとうございます……。」

ミーシャは何枚か引き出して顔を覆う。

「マーシャルさん……!」

「なんだい。」

「マーシャルさんも……!」

僕にも同情してくれている……。本当にやさしい子だ……。

「ミーシャ。ありがとう。僕は大丈夫だよ。強い味方がいるしね。僕のパートナーの彼女は、僕が次期社長って知っても、それまでと変わらず接してくれた。」





私は、電車アパートの自分の部屋に戻った。

テーブルに滑り止めのマットを引いて、その上にパステルの箱を置いた。

私は椅子に座って、箱を見つめる。

それから、手に持った、アレンからのカードを読む。

「ミーシャ、一月もの間、私の山登り旅行を支えてくれてありがとう!

とっても楽しかったです!お礼にパステルを送ります。

ミーシャはきっと素敵な絵を描くだろうなと思って、これを選びました。

描いたらまた見せてね!」

私はカードを指でなでる……。





私が住んでいる列車は、

毎晩八時ごろ、終着駅へ止まり、九時半ごろ、近くにある車庫に入る。

私は、停車しているその一時間半の間に、コリンランドリーと浴場へいく。


車庫入れされると、庫内はすぐに消灯、施錠され、翌朝六時までは、私一人になる。

私はベッドに横になって、窓の外を眺める。

静まり返った車庫の、高いところにある窓から、月明かりがさしている。

満月に近いらしく、明るい。

私は目を閉じる。

月は、

ゆっくりと山の上を滑り、

空を上っていく……。





私はインターホンを押す。

「はい。」

と、男性の声。

「あの、突然お伺いしてすみません。私はミーシャ・カロマンと申します。友人のアレンに会いに来たのですが、今日はおりますでしょうか。」

「ミーシャ・カロマン様ですね。

ご案内いたしますので、左手の門をお入りになって、道なりにまっすぐ歩いていらしてください。」

カタ、と音がした。

左の門の鍵が開いたみたい。

右にも門があるけど、そちらは車用の大きな門。

私は左の門から入り、道を歩いていく。

まるで森の中にいるみたいに、木が茂っている。

土地に起伏があって、アレンの家は全く見えない。


石垣のカーブを曲がると、その先には初老の男性が立っていた。

きちっとしたスーツ姿で、私に上品にほほ笑んで言った。

「ミーシャカロマン様、アレンお嬢様から、お話は伺っております。

大変お世話になったそうで、私からもお礼申し上げます。」

と、頭を下げた。

私もお辞儀する。

「いいえ、私のほうこそ、お世話になりました。

今日は彼女にお礼が言いたくて来ました。あの、あなたはどなたかお伺いしても良いでしょうか?」

「申し遅れました。私はゴードン家にお仕えしている執事のアービンでございます。」

またお辞儀する。私も。

「では、ご案内いたしますので、こちらへどうぞ。」

道を案内してくれる。

彼は、歩きながら言う。

「今日は、アレンお嬢様は本社のほうへ出られております。

夕方にはご帰宅されますので、今しばらくお待ちいただくことになりますが、よろしいでしょうか。」

「はい。」

すぐに会えるとは思っていなかった。

「ミーシャ様は親しいご友人とうかがっておりますので、アレン様が使っていらっしゃる、離れのほうへご案内いたします。」

「離れへ通じる小道は、今までの道と違い、細くて落ち葉が多い。

枯れ葉を踏んで、私たちは森の中を進む。

その先には、小ぶりのログハウスが一件、建っていた。

「この家は、アレン様がご自分のお給料で建てられました。

以来、たいていこちらで過ごしていらっしゃいます。」

玄関へやってきた。

「少々こちらでお待ちいただいてもよろしいでしょうか。ほんの一分ほど、お時間をください。」

と、彼は鍵を開けて中へ入っていった。

私はもう一度外観を見る。

アレンらしい、山小屋のような家。

さっき、ちらっと見えた母屋は、全体が見えないくらい大きくて、お城みたいに威厳があった。

私は丸太の壁をなでる。

「アレンは、こういう絵本に出てくるみたいな、かわいい家に住みたいと思ってたんだ……。」

ドアが開いた。

「お待たせいたしました。お入りくださいませ。」

入ってすぐが、リビング。

「今火を入れたばかりですので、温まるまで少しかかりますが、おくつろぎください。

と、ソファーを示す。」

私が腰かけると、

「コーヒー、紅茶がございます。どちらにいたしますか。」

「コーヒーをお願いします。」

「かしこまりました。」

小ぶりなキッチンで、アービンさんがコーヒーを入れてくれた。

私の前の低いテーブルに、丁寧に置いてくれた。

「ありがとうございます。」

「お熱いのでお気を付けください。」

「はい。……あの、アービンさん、アレンはご両親とはあまり仲が良くないんですか?」

「いいえ。決して仲が悪いわけではありません。

それぞれに思いやりをお持ちです。

アレン様は独立心がお強いので、自立のために、母屋を離れていらっしゃるのです。」

私は微笑む。

「きっとそうだと思っていました。」





「え!?」

聞き間違いだと思った。

「ですから、ミーシャ・カロマン様が、お見えになりました。」

と、アービンはもう一度繰り返した。

「ミーシャが!?うちに⁉」

「はい。離れのほうへお通しいたしました。

なんですね。お会いしましたら、ミーシャ様は、アレンお嬢様がおっしゃっていたとおりの方でございますね。お優しい方です。」

アービンが何か言ったようだったけど、私は聞いてなかった。

そうだ!贈った小包に、うちの住所を書いたんだった!でもまさか、来るなんて!

「な、何か言ってなかった!?驚いたり……」

「いいえ、落ち着いていらっしゃいましたよ。

アレン様と会うことを、楽しみにしていらっしゃるご様子でした。」

「今すぐ帰るから!」

私は運転手に電話して、エレベーターに飛び乗り、駐車場に着くと、車へ走った。



母屋の車寄せに、

シルバーグレイの車が、滑るように入ってきて、

私とアービンさんの前に止まった。

アレンは、ドアガラス越しに、不安げな表情で私を見ている。

アービンさんがドアを開けてくれた。

アレンはそのままで言う。

「ミーシャ……知ってたの……?いつから……?」

私はかがんで言う。

「昨日。マーシャルさんから聞いたの。」

「え、」

「アレン、私、お礼を言いたくて来たの。

とってもきれいなパステルを送ってくれてありがとう!

いてもたってもいられなくて……!」

「ミーシャ……あ……私、何かやらかしちゃった……?」

アレンは、きれいにセットしてある髪をくしゃっと握る。

私は、アレンの眼を見たまま、微笑んで首を横に振る。

「私、一人でパステルを使う気になれなくて。

アレンのいるところで描きたくなったの。

だから、今度は、私がアレンの部屋に泊めてもらってもいい?」

アレンは驚いた表情。アービンさんのほうをちらっと見た。

彼は、

「今日と明日のご予定は、すべてキャンセルにいたしました。」

アレンは私にゆっくりとうなずいた。




ミーシャが車寄せに立っているのを見て、

私は心臓がバクバクして、

冷や汗で手がべたべたになった。

私は混乱していた。

ミーシャはいつから気づいていたんだろう?

私、何か失敗したのかな……。

ああ、私は今、似合わないスーツを着て、メイクしてる……。

逃げたいくらい……!

ミーシャは、私がこんな家に住んでるって知って、どう思っただろう……!

『落ち着いていらっしゃいましたよ。

アレン様と会うことを楽しみにしていらっしゃるご様子でした。』

私はアービンの言葉に、すがった。


ミーシャは……私を見ても、何も変わらなかった。

いつものミーシャだった。

「私、一人でパステルを使う気になれなくて。

アレンのいるところで描きたくなったの。

だから、今度は、私がアレンの部屋に泊めてもらってもいい?」

「……も、もちろん……!」



私は微笑んで、アレンに手を差し出す。

アレンはまだ不安そうに、車の中から私を見ていて、おずおずと私の手に手を重ねた。

私は彼女の手をしっかりとつかみ、そっと引く。

アレンは、膝をこちらへ向けて、車から降り立った……。

私は笑顔で言う。

「アレン!ありがとう!」

彼女をハグする。

「……ミーシャ……。」




ミーシャは今、私の目の前で絵を描いている。

私のログハウスのリビングで、床に敷いてある羊の毛皮のふわふわのマットに座って、

テーブルに画帳とパステルの箱を広げ、もう何枚も、絵を描いている。

かわいい絵が、床に次々と並べられていく。

ここへきて、どのくらいたっただろう。

もうすぐ夕方になる。

私は、ミーシャと、彼女の絵を眺めている。

ミーシャの絵は、すんなりと私の心に溶け込んでくる。 

かわいくて、安心できて、

彼女の描く形が、空気感が、色彩が、私は大好き。 

絵の中に入り込みたくなる。

ミーシャの世界に行きたい……。

何気なく部屋を見て、私はあることに気が付いた。




私は、また一枚、絵をかき上げて、アレンを見た。

アレンは、ゆったりしたセーターを着ていて、テーブルの向かいに肘をついて、うるんだ目をして、できたばかりの絵を見ている。

私は彼女の表情に、心が動く。

初めて見る表情……。

何か、心の奥から満ち足りたような、柔らかな微笑み。

私は見とれてしまう。

キラキラと光りながら小波が打ち寄せてくるみたいな……。

そんな、幸せな顔をしている……。

彼女は私を見つめて言う。

「ミーシャ。どうもありがとう。」

笑顔が、光のしずくがこぼれる花のよう……。

「……。」

「ミーシャ。私、もっと生きていたい。

私、ミーシャのおかげで、この世界が好きになった……!

たった今、好きになったよ……!」

アレンの頬を、涙が伝う。

「……アレン……!」

私も泣いてしまった……。




私は、ふと顔をあげて気が付いた。

ミーシャの色彩、

ミーシャの形。

それらが、いつの間にか、私にも見えるようになっていた……。


触れるくらい近くて、ほっとする、ミーシャの世界が、

私の身の回りのそこここにある。

テーブルにも、ロフトにも、キッチンにも、窓の外の景色にも。

思いうかぶ、どの景色にも、それが感じ取れる……。


きっと、

世界中、どこへ行っても

見つけられる……。


そのことに気づいたら

私は、ものすごく久しぶりに

明るく柔らかな喜びに満たされた……。


私は彼女に感謝を、そして、私の気持ちを伝える。

「ミーシャ。どうもありがとう。

ミーシャ。私、もっと生きていたい。

私、ミーシャのおかげで、この世界が好きになった……!

たった今、好きになったよ……!」





初めてミーシャの部屋に泊まった夜。

私が床に寝袋を広げると、ミーシャは言った。

「アレン、ベッドで寝て。」

「ううん、私は寝袋で大丈夫!キャンプの時は、でこぼこの地面の上でだって、これ一枚で眠れちゃうんだから!」

「でも……」

やさしいミーシャは心配そうに私を見ている。

「……ミーシャ、ありがとう。でも私、ちょっと寝相悪いんだ……。」

彼女はくすっと笑う。

「そんなの、全然気にしないよ!」

私はもじゃもじゃの頭をかく。

「……じゃあ……お言葉に甘えて……」

丸めた寝袋を枕にして、ミーシャのベッドで一緒に眠った。

朝、目が覚めると、片足がベッドからはみ出てて、片手がミーシャの足に当たっちゃってた。

彼女はこちらを向いて、お行儀よく眠っていて、かわいい寝息を立てていた。


「ごめん、私、ミーシャをぶったり、毛布を独り占めしたりしてなかった!?」

彼女はくすくす笑って、

「大丈夫だったよ。あったかくて、よく眠れた!」

「そ、そう?私もぐっすり。」

なんだかおかしくて、二人で笑った。




夜。

「ミーシャ、今日は、私のベッドで一緒に寝よう!」

「ありがとう!」

薪で沸かしたお風呂に入って、二人でロフトへ上がり、並んでベッドに座る。

私はあかりを消し、壁をスクリーンにして、写真を写した。

私が山で撮った写真。

「わあ!すごい眺め!」

山頂の景色に、ミーシャが感激している。

「ほら、そこにミーシャの電車が通ってるの!」

高くない山だったから、ふもとがよく見える。

森の中を細く線路が通っている。

「ミーシャ……、今度は一緒に登らない?」

彼女は目を輝かせて言う。

「うん、登りたい!」

「やった!」

私はうれしくって笑う。

ミーシャも。


プロジェクターの電源を切り、私たちは並んでベッドに横になる。

幸せ……。

「アレン。」

「ん?」

「……アレンは、お父様の跡を継ぐの?」

彼女は、綺麗な黒い瞳で、私を見ている。

「……ううん……わかんない……。」


「アレンなら、きっとできるよ。立派に後を継げるよ。」

と、ミーシャは優しく目を細めてほほ笑む。


私は不安になりながら話す。

「……でも……全然……

私には、

めざしたい山すら

見えてないっていうか……。


もっと自由で楽しいことが、

ほかにはたくさんあるのに……

まだまだ

いろんなことしたいし……」


跡を継ぐ……。

もう、行く先が険しいことはわかりきっている。

低く雲が垂れこめていて、

巨大で怖い山を

自分で登っていかなきゃならない。

登れる気がしない。

もっと楽しく生きていきたい。


ミーシャが明るい声で言う。


「いろんな経験しながら、

自由に楽しんで進んだらいいよ。


きっと、アレンだけの、


アレンにしか登れない山が、


そのうち見えてきて、


大好きになって、


夢中になると思う。」


「ミーシャ……。」

そんな風に考えたことなかった……。


「私も、そんな山を登りたい。」


「……ミーシャはもう登ってるよ。」

「ふふ。ありがとう。でも、もっと夢を見たいから。」

「そっか……。」


そうかもしれない……。

そういうものなのかもしれない……。


あったかくて……、

キラキラしてて……、

ワクワクして……、

でも……ほっとする……。


いつか見上げる、

私だけの山を、


思い描いて、

楽しみにして……


私は……

眠った……。





アレン。

こちらはもう、真っ白の、銀世界です。

山々も、木々も、雪をかぶっていて、

とてもきれいです。

私は毎日、絵をかいて、

楽しく暮らしています。

アレン。

アレンのために、絵をかきました。

気に入ってくれたらうれしいです。

タイトルは、

「アレンの山」です。





ミーシャから、小包が届いた。

中には、手紙と、小さい絵が入っていた。

綺麗に額装された、はがきくらいの大きさの、その絵は、

山頂に雪を頂いた、美しくてかわいい山が描かれていた……。

タイトルは、「アレンの山」……!

今すぐに上りたくなるような、素敵な色使いの絵で……

私はさっそく返事のメールを書いた。


ミーシャ、素晴らしい絵をどうもありがとう!

すっごく素敵!

玄関に飾りました。

毎日、出社前と、帰ってすぐに見て、元気をもらいます!


ミーシャ。

またミーシャの部屋に泊まりに行ってもいいですか?

欲しい絵の具があったら言って!

私、画材屋さんって大好きなの!

綺麗な色の絵の具がたくさん並んでるのを見てると、とっても楽しくなる!



買いすぎちゃうとミーシャが困っちゃうから、セーブしないと。

でも、どの色も素敵!




あったかそうなダウンを着て、赤いミトンをはめて、

ミーシャは白い息を吐いて、私に手を振った。

「アレン!」

私もスポークから手を離し、彼女に手を振る。

「ミーシャ!」

スキー板で歩いて、駅のホームで雪かきしている彼女のもとへ進んだ……。


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