001 背後から異世界が迫る時
お風呂が好きだ。
日本人としてもそうだけど、個人としても「風呂好き」と言える。
実家が銭湯というのも影響があるかも。
大人になり、自分で稼ぐようになってからは入浴剤にまで手を出し現在は沼化してしまっている。入浴剤は奥が深いんだよ。
自分としてはそれ以外何の趣味も取り柄もなく、さらには人生に潤いもない。……入浴剤の効果でお肌の潤いだけはあるのだが。
それでも何の不満もなく、社会の荒波にもまれながら日々の生活を送っていた。
「なのになぜ」
周囲は草原、遠く右手側には木々が茂る森、左手側にはやはり遠くに山が見え、それより手前には大河か湖かそれっぽい水辺が見える。
そして自分の前後に伸びるのは道。
比較的幅の広い道路で舗装はされているものの、土はむき出し。
さらに前方に見えるのは大きな町。町の中心より少し奥側にお城なんてものが見えちゃってる。
それが丸ごとすっぽりと高い壁で囲われている。
壁の外側には畑。壁に近い方が野菜畑か。壁から離れるにつれ穀物だろう畑が広がっている。
それより何よりもまず目の前に、「グギャグギャ」と騒ぐ草色をした小人が棒きれを持って今にもこちらに襲いかかろうとしている。
ていうか、襲いかかっている。
棒きれでぺちぺちとこちらを叩いてくる。
地味に痛い。
何故か目の前に現れる謎の文字。何故か読める。
それによると〈ゴブリン:レベル1〉と出ている。
あー、やっぱりあれか。
あれは夢でも幻でもなんでもなかった。
本当にあったことだったんだ……。
「異世界に来てしまった……」
未だそのゴブリンに棒きれでぺちぺちされながらぼんやりと空を見上げ、ここに来た経緯を思い出しながらそう呟いてしまった。
~
年に一度、自分へのご褒美として温泉旅行に行く。
……1人で。
その帰り道――最寄り駅から自宅に帰る道すがらのこと。
「へーっくしょいっ」
というおっさんのようなくしゃみの掛け声が少女声で聞こえたと思ったら、それからプツリと意識が途絶えた。
「お、気付いたかの?」
いつの間にか眠っていたのか、寝起きで目がしょぼしょぼする。
意識も目もぼやけ気味。
だけど、この声はどこかで聞いたような?
「わっしじゃーい。わっしわしー」
目の前には謎の和装美少女が。
てかどこのわしわしだよ。
「ほれ、○○駅北通りでおぬしをくしゃみ殺してしまったわしじゃよ~」
くしゃみ殺すとかなにそのわしこわい!
「えー、と、ほら、よくあるじゃろ? くしゃみの勢い余って人の子殺しちゃうとか」
ないよ!
あってたまるか!
「いやー、久々の現世、ついうっかり気が緩んでのう。高密度な神気をくしゃみで出してしまって、それがたまたま前を歩いておったおぬしにかかってしまったわけじゃよ」
なんだよ現世とか神気とか……
ん?
なんで自分はシンキを新規でも新期でも心機でもなく神気だとわかったんだ?
「そりゃあ肉体を通さず魂に直接話しかけているからのう」
肉体を通さず、魂……?
「おう、なんたっておぬしの肉体、わしがくしゃみで粉みじんにしてしまったからのう。いやー、まいったまいった」
改めてどんな原理だよ!
普通くしゃみで人が粉みじんになんてならねーわ!
「いやいや、言ったじゃろ。くしゃみの勢いで口と鼻からぶわーっと神気が……」
それからちょっとくしゃみ談義が続いた。
よくわからない問答を続けること数十分。
その間に自分の現状を知る。
肉体はなく、今は魂で目の前の和装美少女改め女神と向き合っている事。
自分が死んじゃった事。
肉体が無いからそれはすとんと納得し、受け入れられた。
他人のくしゃみで死んだことはまだ受け入れられてないけどね。
「落ち着いたかの?」
ええ、まあ……。
「その、すまなんだな」
元の生活に戻ることはできないと聞かされた。
まあ、仕方ないか。
相手は女神様だし、所詮自分、人間だもの。
その人間だったこのちっぽけな魂では何もできないよ。
「うっ……、それを言われると、のう。なんか、すまんかった」
なんか、かあ……。
「いや! ほんにすまんかった! 神とて人を簡単に、しかも無意識で殺していいなどとは思っておらん! 償いをさせてくれ! これは百パーセントわしの過失じゃ! だからどうか創造神様に訴える事だけは勘弁してやってくれい!」
……ほう、創造神様に。
「ハッ」
美少女神は自らうっかり口を滑らせたことに気付いたようだ。
「あ……ああ、あわわわ……あっ、そうじゃ、えーっと、うー……」
消沈し、慌て、それから何かを思いついてアレコレ考えているご様子の神さま。
「うむ! おぬし、日本人じゃろ! 異世界好きじゃろ! 中世ヨーロッパ風の剣と魔法とスキルの世界! そこに転生させてやろうぞ! ちーとってやつもつけるぞい」
ぬははははっ!
とどこか勝ち誇ったご様子にイラァ……
日本人だからって全員が全員異世界転生に憧れを持つわけではない。
そういう創作物が嫌いではないけど、自分が行く側は絶対に嫌だ。
「ふえ? そ、そんな……なぜじゃ?」
んなもん決まってる。
今まで読んだことのある異世界モノはたいてい風呂なしで困っている主人公がほとんどだった。
それでもなんとか風呂を作ろうと画策して大変な思いをしているのをいくつも読んで、それはもう涙と同情を禁じ得なかった。
異世界に行かされて風呂に入れるまで何日かかる?
それまでの間の事を考えただけで吐き気をもよおし寒気がするし、頭や体のあちこちが急に痒くなってくる。かきむしりたい!
なんて恐ろしいんだ異世界。
「それ、あれじゃろ。おぬし、風呂中毒とかいうやつなんじゃないのか? それ、大丈夫なレベルのやつか?」
残念なものを見る目でこちらを見てくる女神さま。
自分も目があったら同じ眼差しを女神様に向けたいよ。
くしゃみで人を殺すって……
「ううっ、だからそれは申し訳ないと思うておる。ううううう……だからあれじゃい、おぬしへのちーととして風呂に関するスキルを授けるわい。それがあれば異世界行っても初日から風呂にはいれるぞい」
ほう。
元現代社会人にスキルひとつ授けて異世界にぽいですか?
それが神様のやり方ですか……。
へー。
ほー。
なるほどー。
「ち、ちがわい! そそそ、そうだな。前世知識を持ったままにして……、えー、元の体は再生する事はできなんだし、んー……赤子から新ためて転生というのもおぬしの風呂基準としては不便じゃろう。それから、それから……えーと、えー……」
それからいろいろ話を詰めて、女神様には椀飯振舞をもって異世界に転生させてもらえる事になった。