第三話 決心
満姉上=北条満 氏康の四妹 西堂丸の叔母
千代姉上=北条千代 氏康の末妹 西堂丸の叔母
葛山の大叔父上=葛山中務少輔氏広 氏綱の次弟 故人
古河公方様=足利左兵衛督晴氏
西堂丸=後の北条新九郎氏親 氏康の長男
中野殿=中野権右衛門忠昌 堀越家家臣
堀越六郎=堀越六郎康延 今川家家臣 一門筆頭
妻=今川雪 氏康の正室 今川氏親の三女
新九郎=北条新九郎氏康 氏綱の嫡男
父上=北条左京大夫氏綱 早雲の嫡男
叔父上=北条駿河守長綱 氏綱の三弟
孫九郎叔父上=北条左衛門大夫綱成 氏綱の養子
綱房=北条孫二郎綱房 氏綱の養子 綱成の弟
金石斎=大藤信基 北条家家臣 氏綱の軍師
崎=北条崎 堀越六郎の正室 氏綱の三女
義元=今川義元 今川家当主
治部大輔様=今川治部大輔義忠 今川家三代前当主
紹僖様=今川修理大夫氏親 今川家先々代当主
氏輝殿=今川上総介氏輝 今川家先代当主
天文八年(1539年) 五月 相模国足柄下郡小田原城 一ノ丸
西堂丸
「西堂丸!遅いわよ!早く登りなさい!」
日課の弟妹達とのスキンシップを取っていると、満姉上が突然押しかけて来た。いつも一緒の千代姉上が輿入れ前ではあるが、嫁入り先である葛山の大叔父上の一周忌に出席する為、駿河へ向かわれた。満姉上が一人で静かに過ごせる筈もなく、暇潰しの矛先を私に決めたのだろう。勿論、全力で逃げてはみたが息も切れぬうちに捕まってしまった。
そして、私を捕まえるなり〝櫓に行くわよ!〟と宣言し、引きずられながらこの一ノ丸まで来たのが今という訳だ。
弟妹達の成長も早いものだ。長妹の光は二歳になり既に走れる様になったが、怪我をしないか心配だ。常に侍女達が側には居るがやはり心配だ。長弟の松千代丸も日に日に話せる様になってきている。早く話してみたいな。今直ぐにでも抜け出して二人の様子をもう一度見に来たいところだが、九月には小田原を離れる姉上二人の誘いを断る事も出来ない。
「やっぱり、いつ見ても此処からの景色は最高ね!」
「はい。先月、商人からも話を聞きましたが曽御祖父様と御祖父様の政、そして領民の努力の賜物に御座いましょう」
「ええぇ。……そうね」
どうしたのだろうか。…姉上の様子がおかしい。傍若無人を絵に描いたような姉上が慈愛に満ちた顔で城下町を見つめている。…もしや、朝餉で食べたものが当たったのかもしれない。まだ、近くには護衛の兵が大勢いる。なんとかして遠くへ遠ざけた方が良いだろうか。
「…西堂丸?何か失礼な事でも考えてない?」
「……いえいえ、滅相も御座いません」
あまり顔には出ない方だと自負しているが、姉上にだけはいつも読まれてしまうな。
「それにしても今日も城下町が賑やかね。今日は市がある日だったかしら?」
「あぁ、それはですね。…私が御祖父様に自由に市を開かせてみてはどうかと提案したのです」
元々、北条家は他家と比べて市の頻度は多く、場所代も極度に低くはあったが、いっその事場所代を無くす様に提案した。御祖父様と父上もその事については考えていた様で問題なく賛同を得た。
ついでに座の廃止も提案した。これについては商人達にも事前に根回しが必要との事だったが、これも賛同を得る事が出来た。言ってしまえば我が北条家でも、〝楽市・楽座〟を採用した形になる。関所の撤廃も賛同を得たいところだったが、これは四方を敵国に囲まれている今は難しいと言われてしまった。間者が入りたい放題になってしまうと。
「そうだったのね」
何なのだろうか。今日はいつもの様に会話が続かない。姉上は私が話す度に頷きながら何か満足した様な顔で私に微笑んでくる。いったいどうしたというのだ!
「…西堂丸。私はね、あなたと会うまでは毎日がとてもつまらなかったし、武士の家に生まれた事が嫌だったわ」
そう言われて、出会ったばかりの頃の姉上を思い出す。最初の印象は冷たい目をする人だと思った。今とは別人と言っていいだろう。
少しの静寂の後、姉上が思いの丈を語り始めた。
「大名である父上の娘として生まれて、大切に育てられて来たけど。いずれは顔も知らない殿方に嫁ぐ事になる。そして、子を産んで、その子を立派な武士に育てて戦地へ送る」
天文の世だけでなく、平成の世も生きた私なら分かるが、戦国の時代において女性の権利なんて無きに等しい。自由など知らずに死んで行く者も少なくはない。
「侍女達は北条家の姫だという自覚を持ちなさいと言うけど、私にはよく分からなかったわ。北条家の姫って何よ!大名って、武士って何よ!?ただ戦が強いだけじゃない!領民達から年貢や銭を取るだけじゃない!ってね」
これは、驚いた。姉上がそこまで考えていたとは。確かに、戦ばかりして領民を顧みず、重税を続ける大名はいる。上杉や武田はこの代表格だろう。
「……でも、あなたが教えてくれたわ。…西堂丸。」
「………」
「御祖父様や御父様が民の為にしてきた事、皆の為に戦ってきた事、国の為に尽くしてきた事を。他の大名とは違う事を」
民の為とは、曽御祖父様の代から続く四公六民や職人の保護等の政策。家族の為とは、先々代の今川家当主であった紹僖様の家督相続。国の為とは、幕命による足利茶々丸討伐。姉上には父上から聞いた事や私が前世で私が知っていた事などを話している。
「禄と寿は応に穏やかなるべし。領民全ての〝禄〟と〝寿〟を北条が守る」
「〝禄寿応穏〟ですね?」
これは、北条家の当主が代々受け継ぐ虎の印章に刻まれている言葉であり、謂わば政治宣言の様なものだ。
「ええぇ。私、この言葉好きよ」
「はい。私も好きです。……鎌倉より、武士の治める世なれど。武士の本分とは、何を守り、何故戦うのか。この言葉があれば、自分を見失わずに死ぬ瞬間まで胸を張って戦えます」
「そうね。………西堂丸」
「はい」
私の名を呼ぶ姉上の声は小さかったが返事を返す。すると姉上は、先程までとは違い難し顔から何時ものにこやかな顔に戻った。
「あなたなら北条家の民を、…いえ、関東の民を守れる武士になれるわ」
何時ものように戻ったかと思えば、また突拍子のない事を語り始めた。
「…姉上、…私はまだ四歳に御座います」
「いずれの話よ。だから、その時、あなたに少しでも味方が増えるように私も千代もこれから頑張るわ」
「……姉上にそこまで期待されていたとは」
あのお転婆の姉上にここまで言われてしまっては、私もそれなりの返答をしなくてはならない。
「姉上。関東となどと言わず、私の、北条の守護を必要とする全てを民を救い、守り抜いてご覧に入れましょう!」
小さな体で出来るだけ大きく見せる様に、背伸びをして、手を広げ、高らかに宣言してみせた。
「よく言ったわ!それでこそ、私の弟だわ!」
「まぁ、正確には甥ですけどね。叔母うっ」
すかさず手刀が入る。すっかり何時もの姉上だ。こんなやり取りも後僅かしかない。いつの日かこんな日々を共に懐かしむ事が出来るようになりたいものだな。
天文八年(1539年) 六月 相模国足柄下郡小田原城 謁ノ間
北条新九郎氏康
「待ってたぜ、兄貴」
葛山の氏広叔父上の三回忌も終わり、いよいよ二人の婚儀の準備を始めた頃。遠江より一人の使者が小田原に遣わされた。父上に呼ばれ急ぎ支度を済ませ謁ノ間へ向かうと、何時もの様に弟の孫九郎(綱成)が部屋の前の廊下で待っていた。弟と言ったが孫九郎と私に血の繋がりはない。しかし、幼少の頃より供に切磋琢磨してきた友であり、父上の養子にもなり、妹の夫ともなった。兄弟として受け入れるのに抵抗は微塵も無かった。
「待たせたな。…孫次郎はどうした?」
これも何時もの事なのだが、孫九郎が廊下で私を待っているときは孫次郎同伴が常だ。しかし、廊下を見渡しても孫次郎が見当たらない。
「おう、孫次郎なら昨夜の内に親父殿の命で彦九郎の所に向かった」
「そうか。……いや、父上を待たせるわけにも行かぬな。急ぐとするか」
父上が綱房を使者に立てたとなれば、彦九郎を小田原に呼ぶつもりだろうか。そうなれば、何処かと一戦交えるつもりやも知れぬ。
「父上、お待たせしました。新九郎と孫九郎に御座います」
考え込む前に部屋に着いた。〝入れ〟と言われ部屋の中が見えると、何時ものように金石斎と叔父上。そして、驚く事に西堂丸が座っていた。
「西堂丸!?…もしや、お主も同席するのか?」
「私も先程呼ばれたばかりで、何が何だか」
西堂丸も困惑しているのが分かるとすぐに首謀者の方を向いた。そこには楽しそうに笑顔を向ける父上がいた。
「良いではないか。西堂丸はまだ子供ではあるが、いずれは北条家を継ぐ者。それに儂らが考えもしない奇策を思いつくときもある。試しに同席させてみたのよ」
「…父上がお許しになったのであれば、私に異論は御座いません」
「うむ」
ここ数ヶ月の出来事で皆の西堂丸への評価は驚く程に高くなっている。父上からも期待は大きいと叔父上にも聞かされていたが。…まさか、他国の使者との謁見にも同席させるとは。
一人何が何だか分かっていない西堂丸が困惑している様は少し可笑しく見えた。西堂丸は時に童らしくない態度であったり、賢さを見せる事がある。しかし、弟妹達と遊ぶ姿や今の様な困った顔は普通の童と変わらない。
「御本城様、使者殿が参られました」
小姓が使者の到着を告げると、室内の空気が一瞬で変わった。父上が皆の顔つきが変わったのを確認すると、部屋に通すよう告げた。
「お久しゅう御座います、左京大夫様」
「うむ。武田との戦以来よの、中野殿」
父上に中野殿と呼ばれた男は、私の次妹・崎の婿である遠江堀越城主・堀越六郎康延殿の重臣・中野権右衛門である。堀越家とは、南北朝の時代に今川家の分家筋でありながら九州探題に任ぜられた今川左京亮了俊を祖とする今川家の一門筆頭家である。
そして、義元の進めた武田との縁組に反対し、父上と同調して挙兵されたのが三年前になる。義元との敵対は今も続いており、今回の使者としての訪問もその話についてだろう。
「はい。その節は我が主の窮地を救って頂き忝う御座いました」
「いや、なに。六郎殿程の御人を失うわけにもいかぬと思っただけよ」
堀越家が北条家に同調し挙兵されたのは、武田との同盟に反対であったのは勿論だが、父上に恩があり誘いを断れなかった理由もある。六郎殿の窮地を父上が救ったというのは、天分四年にあった武田と今川・北条の間で起こった山中の戦いの事だ。
当初、甲斐国河内郡万沢で交戦していた武田軍と今川軍は、地の利を生かした武田軍が優勢だった。その時、今川軍の前軍に配置されていた六郎殿は正に討死に寸前の窮地にあったが、父上が二万の大軍を率いて援軍に駆け付けると形勢は逆転。武田軍は全軍撤退となった。六郎殿はこの時助けられたことを今でも忘れていないのだとか。
「して、本日の要件は」
「はい。要件とは他でも御座いません。御屋形様との戦の事で御座います」
堀越家に限らず、父上の駿河侵攻に同調した国衆は義元を完全に見限ったわけではなく、今でも御屋形様と尊称で呼んでいる。そして、戦とは言うが実際に義元と合戦を起こした者はまだ誰もいない。頑なに籠城するばかりである。唯一、北条家のみが駿東郡と富士郡を制圧した時に合戦に及んだだけである。それでも駿河の深くにまで侵攻したというのは、それだけ武田との同盟に反対の国衆が多かったよいう事だ。
「うむ。物資の援助だろうか?」
「いえ、我が主は此度の挙兵の帰結を左京大夫様にお聞きしたいので御座います」
つまり、北条家としてはどの様な終わり方を望んでいるのかという事だろう。今川を滅ぼすのか、再度同盟を結びたいのか。私も前に父上に聞いた時はお返事を返しては頂けなかった。父上もそこまで考えてはいなかったのだろう。父上としては珍しく頭に血が上って咄嗟に挙兵したのやも知れぬ。
「北条家は先の戦で里見の領地深くまで侵略し、多くの国人を従属させたと聞いております。また、古河公方様との縁組も進めていると。今ならば北も東も北条家に手は出せませぬ。今川を攻めるならば今をおいて他はないかと」
良く把握されている。確かに北条家は四面楚歌の状態から一時的にではあるが平穏となっている。東の里見が動けないのは勿論だが、北の山内、扇ヶ谷の両上杉は立場上は古河公方様の家臣。その舅となる父上に敵対するのは外聞が良くはない。少しの間ではあるが、北条家は窮地を脱却する事になった。
「武田はどうじゃ?駿河に侵攻すれば武田が出てくると思うが?」
「既にご存知かと思いますが、信虎めは今は北にばかり意識を向けている様子。今川家との同盟も背後を固め、北に侵攻する事が目的だったのかもしれませぬ」
当初、武田の進める今川との同盟は北条への牽制、または今川家と北条家の軋轢を狙ったものかと思ったが、蓋を開けてみれば南への領土拡大を諦め、北に矛先を変える為だったのだと風魔の調べで分かった事だ。
「…帰結か。…実はな、儂もそれについては悩んでいてな」
「…悩んでいるとは?」
「息子も家臣も〝矛を収めてはどうか〟〝義元を許してはどうか〟とな。誰も今川と戦を続けろとは言わぬ」
「………」
「儂とて本心では今川との戦など望んではおらぬ。されど、義元の裏切りは許せぬ。我が北条家では父・宗瑞、今川家では三代前の治部大輔様から続く盟友であった」
元々は祖父・宗瑞様の姉君が今川の三代前当主・今川治部大輔義忠様に嫁いだ事が始まりであった。そして先々代当主・紹僖様は父上の従兄、先代当主・氏輝殿は妻・雪の兄であった。
「すまぬが、儂では答えは出せぬ。……そうだな、…新九郎、お主に妙案はあるか?」
これまでの経緯を考えていると父上に名前を呼ばれた。急に妙案などと言われてもな。父上が答えられぬというのに、私に答えられる訳がなかろう。しかし…。
「…妙案はありませぬが、父上に今一度お聞きしたく」
意を決して父上に問う。
「申してみよ」
「父上は上杉との戦の片手間で駿河が手に入るとお考えですか?」
「考えておらぬ」
私の質問に迷うことなく父上は否定された。答えは予想通りではあったが。…私は常々考えていた。今川の兵は弱くなどない。譜代家臣や駿河、遠江の国衆も歴戦の猛者たちである。そして、その事実を北条家で一番に理解しているのは彼らと共闘してきた父上だ。そんな父上が容易に駿河を落とせるなどと考えていないだろうと。
「彦五郎殿が未だに父上を、北条を侮っておられるとお考えですか?」
「…考えておらぬ」
二つ目の質問は僅かな沈黙の後に否定された。そもそも私は、彦五郎殿が父上を侮っていたとは考えられぬのだが。少なくとも父上の考えは違う様だ。しかし、一つ前の質問で父上がはっきりと否定したことで父上に駿河を落とす心算がないことは分かった。ならば、父上の此度の駿東郡、富士郡の占領の目的は北条を侮った彦五郎殿に北条の力を見せる事。
「ならば、父上のなかでも答えは出ておられるのでは?」
彦五郎殿には十分すぎる程に北条の力は見せつけた。父上の目的は既に達成されている。これ以上は無意味だ。
「…」
今度は返答がない。父上も分かっておられるはず。
「父上!」
未だに意固地になる父上に生まれて初めて怒気を飛ばしてしまった。
「…そうだな。確かにこれ以上の敵対は愚策である」
二度目の沈黙の後、父上は静かに答えられた。
「あ、兄者。それでは…」
父上の心変わりに叔父上も驚かれている。
「うむ。…中野殿、儂の考えを伝える」
皆が中野殿へと向きを変える。
「はっ」
「今川とは和睦したいと思う」
今川との和睦。父上の言葉に私を含め、この場にいる者全てが安堵している。
「はっ、主も喜ばれることでしょう。…して、どのように」
皆が安堵したのも束の間、中野殿の言葉で現実へと引き戻される。
「それが難題であるが…」
父上が他の皆を見渡すが全員が首を横に振るばかりだ。
「うむ。そうか。………西堂丸、お主はどうだ?」
皆が口を閉ざし考え込み始めると、最初から静かに話を聞いていた西堂丸に父上が目を向けた。中野殿は西堂丸の存在に今気づいたのか、謁見の場に童がいる事に驚いている。
「一つ、案があります」
すると西堂丸は、時折見せる童らしくない顔ではっきりと告げた
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