第二十九話 河越夜戦 (後)
倉賀野長左衛門為広 山内上杉家臣
管領様=上杉憲政 山内上杉家当主
北条孫九郎綱成 北条家臣
太田源五郎資正 扇ヶ谷上杉家臣
古河公方様=足利晴氏
伊勢左京大夫氏綱 北条家前当主
今川治部大輔義元 今川家当主
長野殿=長野業正 山内上杉家臣
成田下総守長泰 山内上杉家臣
藤田右衛門佐重利 山内上杉家臣
大石源左衛門尉定久 山内上杉家臣
天文十二年(1543年) 六月 武蔵国入間郡河越城近辺 山内上杉家陣地
倉賀野長左衛門為広
「ゴォーン、ゴォーン、ゴォーン」
…これは、鐘の音だろうか?それも一つだけではないな。複数の鐘の音が聞こえてくる。
「…何だ、この音は?」
管領様も聞こえた様で、不思議そうに盃を持ったまま固まっておられる。周りを見れば他の者達も同じ様で、長尾殿に横井殿や遊び女達も固まっている。
「長左衛門、これは何事だ?」
「…鐘が鳴っていますね」
「そんな事は分かっておるわ!何故に鐘が鳴っているのかと聞いておるのだ!」
「…そう言われましても…日の入りの知らせではないでしょうし…」
「そんなものはとうに過ぎたわ!今は亥の刻だぞ」
…管領様の仰る通りだが…それ以外となると。
「…何かの合図、とかで御座いましょうか?」
「合図だと?」
「管領様!管領様!」
皆で何の合図かを考えていると、慌てた様子の伝令兵が陣地に駆け込んで来た。
「どうしたのだ?その様に慌てた様子で」
管領様が落ち着いた様子で語りかけた。こういう時はこちらが落ち着いて話さねばならない。人は鏡だ、此方が落ち着いて見せれば相手も落ち着くというもの。伊勢が降伏した事で機嫌が良いのもあるのだろうが、管領様は驚く程に落ち着いておられる。
「…伊勢が…伊勢が此処に迫って来ております!」
…いや、驚く様な事ではあるまい。我らは今北条と戦っておるのだから、北条が此処へ向かって来ても不思議な話ではあるまい。
「…あぁ。…城兵が打って出て来たのか?氏康が降伏し見捨てられたとでも思ったのだろう。好戦的な綱成の事だ、ただ降伏するのに納得出来なかったのだろう」
…成程。綱成ならばやりかねないな。それにしても今日の管領様は随分と冴えていらっしゃる。戦に勝った事で何か変わられたのかもしれんな。
「いえ、確かに城兵が打って出てきたのは確かですが、それだけではありません!」
ん?それだけではないだと?
「古河公方様が寝返りました!」
「…な、何だと!?」
この伝令兵は今何と言ったのだ?古河公方様が寝返った?この状況で?
「何故に公方様が攻めてくるのだ?…お主の見間違いではないのか?」
管領様の質問に伝令兵が大きく首を振った。どうやら見間違いではない様だ。
「…詳細は分かりません。しかし、先程扇ヶ谷家の使者が参られ、この事を伝える様にと」
「その使者とは誰だ?…この様な大事をそこらの雑兵が伝えに来るはずなかろう」
おぉ!やはり今日の管領様は冴えておられる。確かにこの情報が嘘や間違いであれば冗談ではすまぬ。扇ヶ谷家もそれなりの者を寄越すだろう。
「岩付城主・太田源五郎資正殿に御座います!」
…太田源五郎。扇ヶ谷家に残った二城の内の岩付城を任されている者だったな。家臣の中でも重臣ではないか。つまり、その使者が偽者でもない限り本当の事だろう。
「…それで、その扇ヶ谷はどうしたのだ?」
「はっ。…重臣の難波田殿が二千の兵で殿を務め、修理大夫様が残りの二千を率いて此方に向かっております!」
「…そうか。…長左衛門、如何する?」
古河公方様が寝返ったとは言っても全軍ではなかろう。古河公方様配下の国衆の中には、我らと同盟を結ぶ者達も多い。であれば、一部の独断とも考えられるな。
「向かい討ちましょう。我らの二万四千と扇ヶ谷の二千であれば、数の上では然程変わりません。夜襲であれば、一度目の襲撃を防ぐ事が出来れば後は何とか持ち堪えれます」
奇襲とは最初が肝心なのだ。その点で言えば既に襲撃を知る事が出来たのは大きい。やはり、城から少し離れた場所に陣を構えたのほ正解であったな。
「うむ!であれば早速…」
「伝令!伝令!」
「…何事だ?」
管領様が皆に号令を掛けようとしたその時、またもや伝令兵が焦った様子で陣へ入ってきた。
「南より伊勢の軍勢が迫っております!その数ざっと二万!」
「何だと!?」
二万だと!?その様な大軍を何処に隠していたと言うのだ。もしや里見が裏切ったのか?であればその数も納得だが。…いや、それよりも何故に此処に伊勢の援軍がいる?駿河国で今川と武田の連合軍と争っているのでなかったのか?
「何故に伊勢が武蔵国におるのだ!?今川と対陣しておるのではなかったのか?」
「…そ、それが……伊勢の軍勢の中に赤鳥紋の旗が多数確認されました」
…赤鳥紋。その家紋を使うのは一人しかおらん。今川治部大輔義元、よもや裏切ったか!
「…管領様、どうやら今川が裏切った様に御座います」
「な、何!?」
何時からだ?古河公方様と言い今川と言い、あまりに手回しも息も合い過ぎている。
「…それだけではありません!…伊勢の軍勢を率いている武将は……伊勢左京大夫氏綱に御座います!」
「ど、どういう事だ!?氏綱は二年も前に死んだではないか?…それこお主の見間違いではないのか?」
「いえ、氏綱を確認したのは長野様に御座います!」
…長野殿がそう言ったのであれば、まず間違いないだろう。それに、これで合点もいく。何故に古河公方様が裏切り、今川の軍勢が伊勢と共にいるのかも。…全ては伊勢の策略か。
「管領様、どうやら我らは嵌められた様に御座います」
「…長左衛門、私はどうすれば良いのだ!?」
氏綱の死ですら偽りであったのだ、伊勢は少なくとも二年前からこの戦を仕組んでいた事になる。…いや、もっと前からかもしれないな。古河公方様をも巻き込んでの策略だからな。手抜かりはあるまい。…ならば、せめて管領様だけでも。
「ここは一先ずお逃げ下さい。…管領様のお命さえ有れば何とか立て直せましょう。此処は私が刻を稼ぎます。その間に少しでも遠くへ、上野へ向かって下さい」
今ならば何とか上野へ逃れられる筈だ。敵の兵は河越城の三千と古河公方様の軍勢が東からと、南から迫っている二万の兵で全てだろう。管領様には五千も付ければ大丈夫だろう。一万九千も残れば逃げる刻ぐらいは稼げるだろう。
「伝令!伝令!」
「な、何なのだ!?次から次へと!」
…いかんな。管領様が取り乱し冷静を装えていない。これでは伝令兵から雑兵へ伝わり全体の戦意にまで影響が出てしまう。ここは私が指揮するしかないな。
「要件を伝えよ」
「…はっ。長野様より伝令に御座います!成田下総守長泰様、藤田右衛門佐重利様、大石源左衛門尉定久様が陣を引き払い退却したとの事!」
「ど、どいう事だ!?…何故、伊勢と戦わずに逃げるのだ!?」
…まさか、通じていたと言うのか。しかもあの三人が通じていたとなると武蔵の国衆は軒並み裏切ったと考えても良いかもしれないな。…そこまで伊勢の触手が伸びていたとは。
「伊勢と通じていたので御座いましょう。…さすれば管領様!一刻も早く、此処を離れて下さい!あの三人が退いたとあれば、我らの軍勢は一万五千を切ります。管領様は五千の兵を率いて退却して下さい。私と長野殿で殿を務めます!」
此方の兵は我らの一万と扇ヶ谷の二千。対する伊勢とその援軍は二万三千以上か。…何時の間にか逆の立場になってしまったな。やはり厳しいだろうか。…いや、この暗闇だからな、上手くやれば伊勢の同士討ちで刻を稼げるやもしれぬ。…その前に一つだけ心残りがある。
「…管領様、最後に一つお願いが御座います。どうか幼少の頃より仲という事で聞いてはくれないでしょうか?」
「長左衛門、いや梅丸。…最後などと言うでない」
梅丸と呼ばれるのは随分と久しいな。昔を思い出す。
「…五郎様、お願いに御座います」
「…申せ」
「上野にはまだ幼い子供たちがいます。どうかお引き立ての程、お願い申し上げます。元服も見届けてやれませんが、どうか私の代わりに五郎様が…」
「……分かった。…梅丸、お主の事は生涯忘れぬ。達者でな」
「はっ!」
管領様の足音が遠のいていく。…五郎様もどうか御達者で。
「皆の者!持ち場へつけ!伊勢の連中を返り討ちにしてやるぞ!」
少しでも、少しでも多くの刻を。
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