第一話 目覚め
西堂丸=北条氏康の長男
母上=今川雪 氏康の正室 今川氏親の三女
父上=北条新九郎氏康 北条氏綱の嫡男 西堂丸の父
御祖父様=北条左京大夫氏綱 北条家当主
長綱大叔父上=北条駿河守長綱 氏綱の三弟
孫九郎叔父上=北条左衛門大夫綱成 氏綱の養子
孫二郎=北条孫二郎綱房 氏綱の養子 綱成の弟
根来金石斎=大藤信基 北条家家臣 氏綱の軍師
宗瑞公=伊勢左京大夫氏盛 氏綱の父 西堂丸の曽祖父
小弓公方=足利右兵衛佐義明 古河公方 晴氏の叔父
北条常陸介=北条常陸介綱高 氏綱の猶子
里見刑部少輔= 里見刑部少輔義堯 安房・上総の大名 里見家当主
彦五郎殿=今川義元
勢力図
天文八年(1539年) 三月 相模国足柄下郡小田原城 稽古場
西堂丸
「西堂丸、中にお入りなさい」
稽古場で鍛錬をしていると私の名を呼ぶ声が聞こえた。弓を置き、声が聞こえてきた方へと目を向ける。私から見て後方の渡り廊下。そこには、白い息を吐く色白の麗人とその後ろに控える四人の女中が佇んでいた。先頭の麗人と目が合う。そして、ゆっくりと私の方へと歩き始めた。女中達もそれに続く。麗人の取る一つ一つの動作には気品を、多くの女中を従える様には威厳を感じさせる。
「おはようございます。母上。今朝も冷えますね」
目の前の麗人、母上が今度は白い溜息を吐きながら不機嫌そうに挨拶を返してくる。
「えぇ、本当に寒いですね。…それよりも、またですか」
「……」
女中たちに上着を着せられながら母上に苦笑いを向ける。母上の説教が始まりそうだからだ。…そもそも、母上に見つからぬ様にと鍛錬の時間を早めたのだが。…私を見かけた女中の誰かが密告したのかもしれない。母上は嫁入りの身ではあるが、城に仕える女中たちとは大変に仲が良い。それこそ、城内で起きたことで母上が知らない事は無い程に。
「…あなたはまだ四歳なのですよ。弓の鍛錬など早過ぎます」
案の定始まったお説教は、この弓の鍛錬を始めた十日前から毎朝言われて続けている事だ。まぁ、鍛錬とは言っても実際に矢を放っているわけではない。只々、弓を引く練習を繰り返しているだけだ。それに、弓だって父上に頼んで職人に作ってもらった玩具の様な物で筋力も必要としない。前世の様な病弱体質にならない為の軽い運動なのだが、…母上には何度説明しても理解してもらえていない。
「汗を流してきます。母上は先にお戻りください。…お腹の子にも障りますれば」
頃合いを見計らって説教を切り上げる。更に怒られるかと賭けではあったが、母上も〝…そうですね〟と渋々ではあるが納得して奥へと歩いていく。何度も言うが母上のお説教は始まると長い、一か八かでも早め切り上げるのが上策だ。…それよりも母上のお腹の子だ。今年が天文八年だから、お腹の子は次妹の春だと思う。いつも明るく元気で飯事が好きな可愛い妹だった。前世ではろくに構ってやれなかった。…今世は思う存分遊んでやらねば。
…荒唐無稽な話ではあるが、私が西堂丸として生を受けたのはこれで二度目になる。しかも、一度目の西堂丸の人生を終えた後に‶平成〟と呼ばれる、戦国の時より四百五十年後の世界で生きた記憶も持っている。過去から未来へ、そして再び過去へ。つまり、此度の人生は三度目の転生にして一度目の人生のやり直しになる。一度目の転生でもかなり驚いたものだが、よもや二度目もあるとは。
「若様、お身体を拭かせて頂きます」
井戸に着くと二人の女中が待っていた。母上が手配してくれていたのだろう。〝よろしく頼む〟と一言述べて女中たちに身を委ねる。〝平成〟では身の回りの事は自分でするのが当然であった為に最初は僅かながらの抵抗感もあった。しかし、私にとってはこの生活も二度目である。慣れるのにそれ程時間はかからなかった。
後世の書物で私こと‶北条新九郎氏親〟を記した書物は殆どない。室町幕府政所執事の伊勢家出身である伊勢左京太夫氏盛が興した小田原北条家。厳密に言えば〝北条〟を名乗り始めたのは二代目の北条左京太夫氏綱の代からではあるが。…そして、三代目・北条左京太夫氏康の嫡男として生まれたのがこの私だ。未来にて、自分でも可能な限り〝北条新九郎氏親〟を調べてみた。自分で自分を調べるとは、なんとも不思議な気持ちではあったが気になってしまっては止められない。しかし、過去の私は最低限の事しか分からなかった。
それも当然だろう。何も成し遂げる事無く十六歳で死んだ者など歴史に残るわけがない。武士として名を残せなんだは無念ではあるが致し方なし。…そう思うしかなかった。だが、〝平成〟の世を生きた私は知ってしまった。守ろうとした北条家の未来を。愛する家族の最後を。…一度目の西堂丸は無力だった。家族の為に、家臣の為に、領民の為に何もしてやれなかった。
一度目の人生の終わりの間際、あの時に見た母上と父上の泣き顔は今でも時折夢に見る。高熱で視界も朧気であったのに最後の瞬間だけ鮮明に見えたのだ。
二度目の西堂丸としての人生、後悔は一つもしたくない。…二度と家族を悲しませるものか。私は、前世の記憶を思い出した時に誓ったのだ。一度目の経験と〝平成〟で得た知識で北条家を滅亡の未来から守り抜くと。
『ぐぅ~』
井戸の水で汗を流していると盛大に腹が鳴った。お世話をしてくれている母上お付きの女中達は気づかない振りをしてくれている。子供の体は直ぐに栄養が必要になる。少し動けば腹が減り、食べて寝ているだけでも腹が減る。…まずは食事だな。目標の一つである健康的な体作りの為にも食うことは大切だ。
二度目の決意を胸に母上が待つ卓の間へと足を進める。
同日 同城 卓ノ間
今川雪
「若君様が参られました」
卓の間で少し待っていると部屋の外から女中の声が聞こえてきた。汗を流すだけと言っていたのに四半刻も経っている。きっと、光と松千代丸に会いに行っていたのでしょう。兄弟仲良きことは良い事ではありますが、弟妹達のあまりの溺愛振りには少し心配してしまいます。
「母上、遅くなり申し訳ありません」
西堂丸は満足げな顔をして部屋に入ってきた。やはり、光と松千代に会ってきたのでしょう。
「構いません。兄弟、仲が良いのは嬉しい事ですから」
「あはは、流石は母上。全てお見通しでしたか」
西堂丸が気恥ずかしそうに笑う。全く、この子は。…良過ぎるのも困ったものです。特に妹達はいずれ、私の様に何処の家に嫁がなくてはならないのですから。…入れ込み過ぎるのもどうしたものか。
「今日は殿と義父上様が上総から帰られます。昨晩は鎌倉で休息したので申の刻には間に合うとの事でしたので、あなたにも出迎えを頼みますよ」
…新九郎様が帰って来る。嬉しい気持ちを抑え、平静を装う。
「はい、母上。…それにしても、思っていたよりもお早いお帰りになりましたね」
息子の言う様に普段と比べれば確かに早い。もしかしたら戦にならず睨み合いだけだったのかもしれない。…ですが、上総を治める里見家は今が領地拡大の好機のはずだと新九郎様も言っていました。無抵抗のまま終わるとは到底思えませんが。…新九郎様も義父上様もご無事だと手紙に書かれていましたが、仔細は帰ってからとしか。
「母上、膳が運ばれて来ました。冷めない内に食べましょう」
「えぇ、そうですね。冷めない内に」
まだ、慣れないわね。今までの食事は、全て冷めた物だけでしたので時を気にして食べる習慣は中々身に付きません。温かい食事、…今でも昨日の様に鮮明に覚えています。言葉を話す様になった西堂丸の初めての我儘が冷たい食事の改善でした。毒見の過程があるために私達が食す頃にはどうしても冷めてしまう食事。それが嫌だとはっきり言ったのです。
どうしたものかと悩み、新九郎様にも相談しました。そして今では、女中と小姓を厨と台盤所に置き毒見と監視を任せる様になり、御飯を温かい状態で食べられる様になりました。考えてみれば簡単な事ではありましたが、西堂丸の喜ぶ姿が見られたので良かったです。
「あら、この鯏美味しいですね」
手に取って食べた鯏の汁物がとても美味しかった。いつもと比べて量も大きさも倍はあります。
「あぁ、それは。今朝方、女中に頼んで買って来てもらったものです。今が旬で身も大きく、何より妊娠中に食べると良いと書物に書いてありました」
最近は弓稽古の他に、書物も手当たり次第に読んでいると聞いてはいましたが、このような知識まで身に着けていたとは。それよりも、息子の不意な優しさに目頭が熱くなってしまいます。
「そう。…ありがとう、西堂丸」
「はい!母上に喜んでいただけて何よりです」
同日 同城 表門
北条新九郎氏康
「戦勝、御目出度う御座います」
「〝御目出度う御座います〟」
先頭に立っていた妻の言上に続き家人と女中達が祝いの言葉を告げた。
「うむ、出迎えご苦労」
父上が馬上から皆を労う。
「皆も大儀であった。明日、論功行賞を行う。それまではゆっくりと休むが良い」
城門を通り過ぎ皆が馬から降り始めた頃合いで父上が解散を告げた。褒美が貰えると喜ぶ者。やっと休めると気を抜く者。今回も無事だったと安堵する者。次の戦では活躍するぞと意気込む者。何ともの千差万別の反応だった。…そして、ここにも。
「…新九郎様、此度は随分とお早いお帰りでしたので私含め皆も驚いております」
よほど気なっていたのだろう。父上への出迎えが終わるや否や、妻が私に駆け寄り、馬から降りる間もなく疑問を口にした。
「思っていたより早く戦が終わったのでな、早う小田原に帰ることが出来た」
妻の疑問に私が答えようとすると、前方から父上が嬉々として語った。…それもそうだろう。此度の戦は、当初予定していたものよりもかなり早く終える事が出来た上、兵も殆ど失わずに戦も小競り合いを数度しただけ。それだけで上総の大半を得たのだから嬉しいに違いない。だが、それ以上に嬉しいのは…。
「それよりも雪殿。西堂丸は何処に居るのだ?」
父上は妻に声を掛けると周囲を見渡した。
「御祖父様。ここです」
視線の下の方から声が聞こえると妻の後ろから息子が出てきた。まだ、三尺程しかない背を精一杯に高くしようとつま先で立って背伸びをしている。
「おぉ、西堂丸、二月の間にまた背が伸びたのではないか?」
父上は西堂丸にたいそう御執心だ。私や弟達には鬼の様に厳しかった父上が、西堂丸を相手にするとただの好好爺になる様は何度見ても慣れない。老臣達も子より孫の方が何倍も愛おしいとは言っていたが父上も例外ではなかったらしい。
「そうだと良いのですが…。私も早く父上や御祖父様の様に戦で武功を上げたいです」
「うむ。良い心がけだ!」
人前では余り笑わない父上が大きな声で笑っている。余程機嫌が良いのだろう。私もそんな父上を見ているとつい笑ってしまう。それに釣られて家臣や女中達も皆笑っていた。これだけでも此度の戦果が大きいと感じてしまう。
「義父上様、此処で話しているよりも中にお入りくださいませ。今宵はささやかな宴を用意しております」
妻がそう告げると、家臣達からも歓声が聞こえる。早く帰れたとは言え、二月近くも気を緩める事は無かったのだ。今日は騒がしくなるだろう。
同日 同城 会ノ間
西堂丸
出迎えが終わると、会ノ間に来る様にと父上に言われた。御祖父様の小姓で私の義叔父である北条孫二郎綱房義叔父上に案内され部屋に入る。部屋の中には五人の偉丈夫が座っていた。つくづく思うが北条家の男子は皆、体格が良過ぎる。今世での私なら、このまま成長すれば同じ様に丈夫な体付きになるだろうが、前世で病弱だった私は弟達よりも明らかに細かった記憶がある。孫二郎義叔父上に促され、御祖父様の前に座った。私から見て右手には父上と孫九郎叔父上、左手には駿河《長綱》大叔父上と御祖父様の軍師である根来金石斎が座っている。
「うむ、よう来た。西堂丸」
普段の御祖父様の様に厳格な話し方であるが、先程と同じように何処か嬉しそうであった。
「お話とは何事に御座いましょうか」
「話の前に、西堂丸。此度の戦の経緯は知っておるか?」
…上総遠征の経緯か。前世では存在しなかった出兵ではあるが、大よその事は母上と女中たちから聞いている。
「はい。…事の発端は昨年まで御祖父様が保護しておられた丹波殿です」
真里谷丹波守信隆。上総国西部を治める真里谷家の当主だった男だ。
「うむ、続けよ」
「信隆殿は上総一帯を治める領主でしたが、小弓城を拠点に影響力を広げていた小弓公方様、家督を巡り対立していた弟の信応殿、上総侵攻を目論む安房の里見家により居城を含む全ての城を攻め落とされ、身一つで御祖父様の元まで逃れました」
今話してみて思ったが、信隆殿が経験した四方を敵に囲まれた状態は今の北条家と通じるところがある。
「…」
御祖父様も他の皆も、黙して話の続きを待つ。私も一呼吸をして話を再開した。
「しかし、先の国府台の合戦により小弓公方様は戦死。小弓公方様の後ろ楯により真里谷家の家督を継いでいた信応殿も敗軍の将となりました。後ろ盾と影響力を失った信応殿に対し、信隆殿は空かさずに反撃を加え、市原郡とその周辺地域を取り返しました。」
「ただ、信応殿も新たに真里谷城を居城とし、里見家後援のもと信隆殿に抵抗の意思を見せた。また、それに従う者も多く、上総攻略は難航。…事ここに至って、信隆殿は同盟者ではなく北条家の家臣になる事を条件に御祖父様に再度の救援要請。それにこたえる形で此度の出兵が決まりました」
「うむ、よく理解しておるな」
御祖父様が唸るように褒めて下さった。
「…では金石斎、此度の戦を西堂丸に」
御祖父様に呼ばれると、金石斎が〝ははぁ〟と何時の銅鑼声で返事をした。そして、少し口角を上げると此度の里見家との戦を話し始めた。
「此度の戦は戦に有らず、ただの接収で御座いました。まずは昨年の国府台での合戦により討ち取りました小弓公方様の旧領地と真里谷殿の居城・椎津城を足掛かりにし、御本城様率いる一万の北条本隊は房州街道を南下。
上総北西部にて敵対する市原郡、上埴生郡の国衆は真里谷家の分家筆頭であった庁南城主・庁南兵部大輔吉信を中心に激しい抵抗を続けましたが、これを二日と掛からずに攻略。
それにより、市原郡は木々土城主・木々土宗三郎清重殿、市原城主・芦野丹波守頼次殿、高島城主・高島越中守恒重、湯浅館主・湯浅七良右衛門政重殿、土橋城主・土橋孫次郎忠秀殿、上村城主・村上大輔義芳殿、池和田城主・多賀越中守高明殿、市原郡で敵対していた国衆の全てを五日も掛からずに降しました。
敵対勢力が皆無となった上埴生郡には、庁南城に北条家一門の常陸介(高綱)殿を城代とし里見の反撃に備えております。」
…上総北部の平定。前世ではここに至るまでに後十年は費やしていたはず。今回の遠征、後を思えばこれだけでも十分な戦果だと思う。しかし、金石斎の話しにはまだまだ続きがあるようだ。
「本隊は更に南下を続け、望陀郡北部、周准郡北部の豪族を次々に下しました。戦わずして降伏する者も多く、市原郡、上埴生を手古摺る事なく制圧したのが効きました。
また、天羽郡では真里谷家の家老を務めておりました造海城主・真里谷大学頭殿がお味方についた事により東端部を除き領国下する事が出来申した」
「あ、天羽郡まで進んだのですか?」
天羽郡は上総西部の最南端。つまり、里見の本領である安房と領土を接する場所だ。先ほど、前世の北条家が上総北部を制圧するのは十年も後だと思い返していたが、これについては侵攻がかなり早くなったが驚く程ではない。
しかし、天羽郡は話が別だ。平成の世で見た北条家の最大領域でもこの地は含まれていない。北条が滅ぶ天正十八年(1590年)のその時まで、里見からこの地を奪う事は出来なかった。…父上や御祖父様、金石斎は此度の戦果に只々嬉しそうにしているが、私だけはこの遠征の真の価値が良く分かる。これは北条の運命の分岐点。そういっても過言ではない気がするのだ。
「御曹司様、話はまだ終わりではございません」
一人で満足気に頷いていると金石斎から待ったがかかる。金石斎の隣に座る駿河の大叔父上初め、この部屋にいる大人達が不気味な笑みを浮かべている。どうやら此度の上総の遠征、私の想定よりも上手くいった様だ。
「御本城様率いる本隊とは別に、新九郎《氏康》様率いる五千の別働隊が上総東部を南下。武射郡、山武郡、長柄郡の主だった国衆は下総千葉家の調略により早々にお味方に。長柄郡では里見に味方する国人衆が何人かおりましたが、十日も掛からずに制圧。その最中に夷隅郡の最北部を領する小田喜城主・真里谷民部少輔朝信が我らに降りました。
しかし、里見が兵五千を久留里城に集結させて待ち構えているとの情報が入り、此度の遠征はここまでとなりました。国衆の要請もあり上総東西の国境にそれぞれ兵三千を配置し対応しております。
また、里見との最前線となる天羽郡峰上城、上埴生郡庁南城、夷隅郡小田喜城の改修と増築を進めており、同時に残る上総の国衆にも調略を続けております。…里見家は当分の間は何も出来ないかと」
今度こそ聞き終えると御祖父様達の顔を見る。これ程に嬉しそうなお顔は今までで一度も見た事がない。それ程に凄まじい戦果だった。一言も声が出なかった程にだ。これで、北条家は相模、伊豆、武蔵半国、下総半国、上総半国、駿河一部を領し百万石を超える大大名だ。さらに、戦も殆ど無かったと言うのだから兵の消耗も少ないはず。此度の遠征は怖いぐらいに順調だったのだろう。
「兄者、西堂丸様はまだ四歳に御座いますぞ。何がなんだか分かりますまい」
あまりの戦果に驚いていると、長綱大叔父上は私が理解していないと誤解したようだ。
「…三郎。お主には黙っていたのだが此度の上総への侵攻。儂に勧めたは西堂丸じゃ」
御祖父様がそう告げると、駿河守の大叔父上は大きな口を開け驚きを隠せないでいる。なんとも珍しいものが見えた。
同
北条新九郎氏康
「昨年の国府台での合戦から帰った日の事だ。話があると西堂丸が言うのでな、聞いてみれば〝上総を手に入れる策がある〟と言うてな」
今でもその日の事は鮮明に覚えている。父上と二人で顔を見合わせながら驚いたものだ。
「まず〝古河公方様に同意を得た後、討ち取った小弓公方の武功を讃えて神社を建て祀ること〟次に〝北条家を前にして里見刑部少輔は敵と一戦も交えずに主である小弓公方を見捨て、あろう事かその旧領を掠め取った関東一の不忠者だと、上総と安房一帯の民草に噂を流すこと〟とな」
「な、成る程。…敵方の雑兵の士気が低くいことは感じておりましたが、そんな理由が。…国衆が挙って里見から離反したのも納得がいきました」
「そういう事よ」
祖父宗瑞公に〝これからの時代は領民と国衆の協力が重要である〟と教えられた北条家の者達ならこの策の有用性が分かる。…民の重要性を理解していない、いや、理解しようともしない大名達には分からないだろうが。民の間で噂が広がれば、そのうち領主達の耳にも入る。領主までいかなくともその家臣の誰かの耳には入るだろう。
方や討ち取った敵将を讃えて祀る家、方や主と仰いでいたにも関わらず敵を前にして一戦もせずに見捨てて逃げた家。どちらに信を置き義を通すのか…。さらに、小弓公方の家臣だった者達は国府台での合戦以降は里見に従っていた。…里見は見捨てた事を隠していたのやも知れぬ。北条の軍が上総に着くころには噂も面白い様に広がっていったな。此度の風魔の働きも大きいだろう。
「それでな、此度の西堂丸の武功に褒美を与えようと思う。西堂丸、何か欲しいものはあるか?」
「褒美、ですか。…それでは、御祖父様の信頼する腕の良い商人を紹介して頂きたく思います」
「…うむ。また、何か考えがあるのか?」
「はい。まだ、考えだけですが」
「あい、分かった!今月中にでも場を設けよう」
「ありがとう御座います」
此度の遠征で得た物は二つある。一つは小弓公方と真里谷家の領していた上総国の大半。もう一つは北条家に優秀な跡取りがいると分かった事。一代にして二カ国を領する大名に伸し上がった祖父、その後を継ぎ領土を倍にまで広げた父上、齢四歳にして鬼才の片鱗を見せた息子。負けてはいられぬな。私も精進せねば。
同日 同城 夜 当ノ間
北条駿河守長綱
戦勝を祝した宴がまだ続いている中、兄者に誘われ二人で酒を酌み交わしていた。
「ささ、兄者。今宵は少しばかり酔いましょうぞ」
兄者も某も普段は酒を断っているが、今日ばかりは気持ちよく酔えそうだ。
「いやはや、それにしても。西堂丸様には驚かされましたぞ」
「…ああ、儂も始めの頃は驚かされた。我らの家は皆、大器晩成だと思っておったが。…西堂丸は例外の様だ」
それは、父上の事を仰っておられるのだろう。父上が一城の主人になったのは三十二歳の時だった。
「いやいや、兄者は昔から優秀でございましたぞ」
「何を言うか、儂もお主も父上には叱られてばかりだったであろう」
「おや、そうでしたかな」
顔を合わせると耐えきれずに笑ってしまった。懐かしい記憶を思い出す。あの頃は氏時兄上や氏広兄上、父上に母上も壮健だった。
「一先ず、これで一時ではありますが南が片付きましたな」
無意識の内に、先程までの嬉々とした声ではなく改まった声になっていた。
「うむ。里見が動けぬ内に上杉共を攻めたいところだが……」
「西に、御座いますか?」
「ああ。今川と武田がどう動くか分からぬ」
確かにそうだ。今川ならば今は攻めてこないだろうが、武田はいつ攻めてきてもおかしくはない。
「やはり、和睦は成りませぬか?」
気づいた時には遅くかった。常日頃から思っている事を自然と言葉に出してしまった。
「ならん!先に裏切ったは今川、こちらから和睦を請う事は出来ぬ」
兄上が怒気纏った声で否定する。
「ですが、今川家と我ら北条家は七十年近くも盟友でした。…彦五郎殿もお家を継いだばかりです。多少なりの過ちもありましょうや」
「多少の過ちにも程があろう。武田と勝手に和睦するだけでなく嫁まで貰いよって!…我らは今まで、今川の為にと武田とも戦ってきたのだぞ」
今川の話になると、兄者は冷静さを失ってしまう。…気持ちは十分に分かる。父上の頃は一家臣として仕えてきた我らだが、兄者の頃よりは同盟国として協力してきた。それは、先々代当主であった氏親様や御正室・寿桂尼様にも認めて頂いていた。そして、先代の氏輝様の時も変わりなく、両家の協力関係は蟠りなく続いていた。
しかし、家督争いを経て当主となった彦五郎殿は我らを一家臣として侮った。家督相続を争った花倉の乱では、大名家の当主と嫡男の両出馬という誠心誠意の援軍にも一言の礼もなかった。剰え我らに相談もなく武田から正室を迎える始末。兄者もお怒りになるのも当然である。…なれど、今川と戦をしても良い事など何もない。それは、兄者も十分に分かっているはずだ。…だが、父上の意思を継ぎ、今まで今川に尽くしてきた兄上だからこそ許すことが出来ないのかもしれん。
此度の遠征で獲得した領地により、北条の総兵力は三万を超える。されど、未だ四面楚歌である事に変わりはない。西の脅威を無くすのが最善だが、…兄上も意固地になっておる。今川が動く前に、何か手を打たねばな。…兄上を説き伏せねば。
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