第十九話 改変
菊幢丸 足利義晴の嫡男
木沢左京亮長政 河内畠山家臣
三好筑前守長慶 管領細川家臣
遊佐河内守長教 河内畠山家臣
父上=足利義晴 将軍
足利左馬頭義維 堺公方
大舘式部少輔常興 内談衆
大舘左衛門佐晴光 内談衆
摂津摂津亮元造 内談衆
細川民部少輔高久 内談衆
海老名中務大夫高助 内談衆
本郷内記光泰 内談衆
荒川右京亮氏隆 内談衆
朽木民部少輔稙綱 内談衆
三淵弥二郎尚員 内談衆
細川右京大夫晴元 管領
松永弾正忠久秀 三好家臣
西堂丸 北条家嫡男
山本勘助晴幸 武田家臣
武田太郎晴信 武田家当主
宇野藤衛門定治 小田原の商人
天文十一年(1542年) 五月 山城国紀伊郡二条城 東ノ間
菊幢丸
三月に入って直ぐの事だった。河内国笠置城主・木沢左京亮長政が再び挙兵した。しかし、その二日後に長政は討たれた。三好筑前守長慶が単独で討伐したのだ。三好の軍勢は五千と少なかったが、木沢の軍はそれよりも少ない三千であった。今回の一連の出来事で前世と違う事が三つある。
一つ目は三好長慶が単独で木沢長政を討伐した事だ。この工作には苦労したが、何とか上手くいった。前世ではこの時、三好長慶は河内国守護代・遊佐河内守長教と協力して木沢を討った。遊佐とは後に仲違いするから気にする事は無いのだが、遊佐が引き連れる国衆は話が違う。三好長慶と言う男は、意図せずに武士を惹きつけるのだ。でなければ、僅か十七の若僧に五千もの兵は集められん。いずれ三好を屠るので有れば、出来る限り他国の国衆と知り合う機会を潰さねばならん。此度はそれが上手く行ったと言えるだろう。
木沢の兵を減らすのは然程難しくはなかった。前世では将軍である父上が傍観を決め込んだ為に木沢側にもある程度の兵が集まった。勝てば官軍という事だからな。しかし、今回はそうはいかなかった。俺が父上の代わりに声明を出した。木沢には味方せず、三好を後援すると。それがこの結果だ。史実よりも四千は減らす事が出来た。この時はまだ、畿内とその周辺では将軍の権威も通用していたのだ。まぁ、前世に於いて畿内でも通用しなくなったのは、俺が殺されたのが原因だろうが。
二つ目は将軍である父上が二条城から動かなかった事だ。今世でも前世でも幾度も京を落ち延びている父上だが、此度は落ち延びる事は無かった。たった一度回避した程度で何が変わるかは分からないが前と違う事は確かだ。将軍である父上には対立将軍候補がいる。実弟で堺公方と呼ばれている足利左馬頭義維叔父上だ。この人は常に将軍の座を狙っている。父上が京を空ける度に入京を試みているが、今のところ上手くはいっていない。まぁ、その危険を防いだと考えれば父上の為にもなったのだろう。
三つ目は三好長慶が俺の内談衆になった事だ。そもそも内談衆というのは、父上が俺につけた側近達の事を言う。元々は、大舘式部少輔常興・大舘左衛門佐晴光・摂津摂津亮元造・細川民部少輔高久・海老名中務大夫高助・本郷内記光泰・荒川右京亮氏隆・朽木民部少輔稙綱の八人だった。そして、俺に心酔している三淵弥二郎尚員を入れていたが、さらに、三好筑前守長慶が加わった。
長慶にとっても悪い話ではない。幕府内ではかなりの出世になり、確かな地位と立場を得た。主君である細川右京大夫晴元と敵対しているにも関わらずだ。これが意味する事を分からない長慶ではない。直ぐに色良い返事を返してきた。そして、その翌日には感謝の言葉を伝えに態々会いに来た程だ。前世での恨みは一度捨て対面してみると、意外にも良い奴に見えてしまった。…いや、多分だが本当に良い奴だったのだろう。前世でも長慶は俺の命を狙った事は一度もなかった。今世では利用するつもりでいたが、それ以外の道もあるのかも知れない。
「菊幢丸様、松永殿が参られました」
…三好からの使者か。長慶が、内談衆にはなったが他の者達に比べて自分は領地が遠いからと、連絡用の家臣を一人置いて行った。その者がよりによってこのこの男とは。長慶に見出されて右筆を務める松永弾正忠久秀。前世で私を殺した男だ。長慶の事は許せると思えたが、此奴は別だ。…どう扱き使ってやろうか。
天文十一年(1542年) 六月 相模国足柄下郡小田原城 東ノ間
西堂丸
ここ数ヶ月の間、北条家は他家に比べて比較的に平穏な日々が続いた。とは言っても、決して喜ぶ事のできない平穏だ。後世で天文の飢饉と呼ばれた大災害が最高潮を迎えていた。関東て見れば、両上杉家の領内は酷いものだ。先の河越での戦に、一万七千もの大軍を徴兵したのが拙かった。稲の収穫前に大勢の男でがいなくなった事で、他国と比べても凶作の具合は酷いものだった。その結果、両上杉家は今戦どころでは無い。数千ならまだしも万を越える大軍など動員出来ないのだ。…それは、北条家とて同じなのだが。
北条家では私の方策が功を成して領民分の食糧は確保している。しかし、戦や遠征に費やせる程の食糧はない。なんとか日常を過ごせているのだ。
そして、こんな時に心配せねばならぬのは武田家だ。武田家の治める甲斐国というのは、とにかく米が取れない。山に囲まれた中央に盆地があり、米は育ちはするが笛吹川と釜無川という荒川によって度々洪水が起こる。そして、米が取れないと周辺国へ乱取りを目的として、侵略してくる。乱取りというのは、敵地へ侵攻した際にその領地の人と物を掠奪する事だ。米は狩られ、物は盗まれ、女は犯され、子は売られる。今までの武田家は領内が凶作になると何時もこれを行い、飢えを凌いで来た。
しかし、今年はその心配もない。私が駿河国へ行っていた間に父上の元へ武田の使者が来ていたのだ。その使者の名は山本勘助晴幸。後世で武田太郎晴信の軍師と言われた男だ。私もこの男の名は一度目と二度目の両方の人生で聞いていた。生憎と対面する事は出来なかったが、また会う機会はあるだろう。そして、勘助が参った理由は武田家と北条家の和睦であった。和睦の条件は、北条家は領内の商人に武田家領内での商売を許す事。武田家は北条家の要請に従い援軍を出す事。援軍を出すのは一度だけらしいが。…なんだか、和睦とも同盟とも言えぬ、微妙な感じではあるが。
「若様、藤衛門殿がお目見えに御座います」
庭を見ながらここ最近の事を思い出していると、廊下の方から源七郎の声が聞こえた。
「分かった。直ぐに向かう」
…藤衛門か。月に一度は定期的に登城させているが、今日はその日ではない筈だ。となると、頼んでいた物が出来たのだろう。
天文十一年(1542年) 六月 相模国足柄下郡小田原城 謁ノ間
宇野藤衛門定治
此度は私用で登城すると、毎月の商談用の部屋へではなく、初めて西堂丸様とお会いした謁ノ間へ通された。この部屋を訪れる度にあの日の衝撃を思い出す。私の人生の転機と成った日だ。
「藤衛門、待たせたな」
部屋で待っていると、聞き慣れた声が聞こえてきた。
「滅相も御座いません」
声が聞こて直ぐに頭を下げ、西堂丸様が上座に座るのを気配で感じると頭を上げた。
「それで藤衛門、早速だが此度の要件を聞かせてくれ」
お顔を見るに大方予想はついておられる様だ。まぁ、西堂丸様だからな。これくらいは当然だろう。
「はっ。此度、登城したは西堂丸様に頼まれていた農具が完成したからに御座います」
…完成するのに一年も掛かってしまった。西堂丸様には図面も書いて頂いたというのに、これ程掛かってしまうとは。
「やはりか。……うむ、よくやってくれた!」
お叱りを受けるかと思ったが、喜んで頂けるとは。
「あ、いえ。その、本当に西堂丸様が仰っていた物なのかは、御覧になってからの方が」
一年も掛かった上で、違う物を作っていたでは話にならない。
「うむ、確かにな。……だが、小田原の職人達なら作れると私は信じておったぞ。此度もきっと完成しているだろう」
……西堂丸様。この方はやはり他の武士とは違う。民の為にと、幼き身で農具まで考えられた上、領民の事を家族や側近の様に信じて下さる。この様な武士など他にいないだろう。
「外に持ってきております。御覧になりますか?」
家人の者達に完成した物を門の前まで運ばせておいた。
「うむ。頼む」
その後、西堂丸を門の前までご案内した。完成した農具を一つ一つご確認され、西堂丸様から〝よくやってくれた〟とお褒めの言葉を頂いた。門の前で家人と共に見守っていた職人達にも声をかけられていた。皆、西堂丸様から感謝の言葉
を頂くと泣いて喜んでいた。
完成した農具は全てで四つある。一つ目が田起こしの時により容易く、深くまで掘る事が出来る足柄くわ。二つ目は、脱穀をより速く、より多く、一度に出来る千歯扱き。三つ目は、千歯こきでも脱穀出来なかった稲を脱穀する為の唐棹。四つ目は、風の力を利用して、穀物の精粒とくず粗と藁くずの塵とを選び分ける唐箕。
この農具が領民に普及すれば、百姓の負担はかなり減るだろう。また一つ、西堂丸様の偉業が増えられたな。